第一章
第2話
真っ暗で、なにも見えない。
そう思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
ふわりとした浮遊感が身体を包み込み、それから急激に落下する。
浮遊感は思っていた以上に長く感じた。いったいどこまで落ちるのかと不安に思った途端、腰に強い衝撃が走る。
「いたあっ」
あまりの痛みに涙目になりながら、優衣は腰をさすった。
「うう、痛い。……あれ、涼しい」
風が吹いていた。
扇風機の風とは違う自然の風だ。少し前まであんなにも暑かったはずなのに、身体に吹くその風は冷たくて心地良い。
思わず腰の痛みも忘れて立ち上がり、左右を見渡す。
(ええと……。わたし、さっきまで自分の部屋にいたはずよね。ここは、どこなの?)
ほんの少し前まであまりにも暑すぎて、部屋でぐったりとしていたはずだ。
それに沈んだはずの太陽が真上に昇っていて、黒い影を地面に映し出していた。その地面もコンクリートなどではなく、青々とした草が生い茂っている。
そして。
(影がふたつ?)
地面に映るその影は、優衣のものだけではなかった。
背後に誰かいる。
「だ、誰?」
優衣は振り返り、怯えを隠して声を張り上げる。
そこに立っていたのは、金色の髪をした青年だった。男性なのに透き通るような白い肌をしている。
丈の長い黒のローブのようなものを身にまとい、深い海のような藍色の目をしている。
その目が、まっすぐに優衣を見つめていた。
(うわぁ……)
腰の痛みや、見知らぬ場所に出てしまった不安。
そんなことをすべて忘れてしまうくらい、彼は綺麗な顔をしていた。
だがその表情はかなり険しい。
いくら美形でも、不機嫌そうに顔をしかめている彼に話しかける気になれず、優衣はそれ以上何も言えずに戸惑う。
(えっと、どうしよう……。ここがどこなのか、聞いてもいいかな……)
「ああ、ようやく釣れたな」
(え、何を?)
不思議な言葉に思わず顔を上げると、抵抗する暇もなく強く腕を引かれた。そのまま抱え上げられて、思わず悲鳴を上げる。
「きゃっ、ちょっと!」
初対面の男性にいきなり抱き上げられるなんて、たとえ相手が見たことがないくらいの美形でも遠慮したい。驚いて逃げ出そうとするが、優衣を抱く腕は見た目以上に力強く、びくともしなかった。
「は、離して!」
どんなに暴れても叫んでも、彼は顔色ひとつ変えない。もちろん、優衣の質問に答えてくれることもなかった。
さらに腕の中にいる優衣の混乱をまったく無視したまま、彼は歩き出した。
(どうしよう、このまま連れ去れたら……。何とかして逃げないと!)
必死に逃れようとして暴れ続けた。
「下ろして! 人さらい! わたしをどうしようっていうの!」
思いきり叫び続ける優衣に、彼は大きくため息をついて立ち止まった。
「うるさい。そう暴れるな。歩きにくい」
「うるさいって……」
いくら何でもひどすぎる。
もう一度大声を出してやろうかと思ったところで、ふいに身体が下ろされた。そのまま走って逃げようとすると、またすぐに腕を掴まえられる。
「やだ、離して!」
「離してもいいが、ここは危険だぞ?」
「え、危険?」
思わず動きを止めて、おそるおそる周囲を見渡す。見知らぬ場所なだけに、危険だと言われると途端に恐ろしくなる。
(見渡す限りの草原……。もしかして蛇がいるとか? それとも危険な獣が……)
びくびくとしながら周囲を見渡していると、彼は問いかける。
「お前、名前は?」
「優衣」
素直に答えてしまい、自分の迂闊さに顔をしかめる。
「優衣か。どこの国の生まれだ?」
「どこって……日本?」
あまりにも当たり前の質問に、思わずまた答えてしまっていた。だが彼は、優衣が日本かと言うと、考え込むような顔をする。
「第一世界にある国のひとつか。ならばお前は、第一世界の出身だな?」
「世界に第一も第二もないと思うけど、日本出身なのはたしかよ。それよりここはどこなの? あなたは誰?」
問い返すと、彼は優衣を見つめた。
本当に見た目だけならば、お伽話に出てくる王子様のようだ。
(見た目だけは、ね。いきなり人のことを攫おうとしたり、うるさいって言ったり……。かなりひどい人だけど)
外見が好みなだけに、とても残念だと思う。
「世界はいくつも存在している。第一世界では、世界が複数あるということはほとんど知られていないと聞いてはいたが、事実のようだな。俺はジェイド。ティーヌ王国の魔導師だ」
ジェイドと名乗ったその男は、ゆっくりと手を伸ばして優衣の黒い髪に触れた。
「第一世界での釣りはあまり成果が良くないと言われているが、当たりだったな。若い女、しかも黒髪の女性が釣れるとは」
その嬉しそうな口調にふと、さきほどの言葉を思い出す。
(つ、釣れたって、あれ私のこと?)
その瞬間。優衣は冷蔵庫の中に手を伸ばしたら、得体の知れない光に引っ張られた。
あの光は釣り餌だったのだろうか。
あまりにも暑くて思考能力が低下していたとはいえ、小さな光は魅力的で、手を伸ばさずにはいられなかった。
ほんの少しだけ、釣られた魚の気分になることができた。
これはなかなか、貴重な体験かもしれない。
(そんなことはどうでもいいの、それより……)
低下した思考回路はまだ回復していないようだ。優衣は何度か首を振り、ジェイドに向き直る。
「あの、ここはどこですか? 家に帰りたいんですけど」
突然、世界はひとつではないと言われても、素直に頷くのは無理だ。
でもここがどこかもわからない場所で、尋ねることができるのはこの人しかいない。だから一番気になることを聞いたのに、彼の答えは簡潔だった。
「自力では無理だな」
「あなたなら、私をもとの場所に戻せるの?」
「目的があって釣り……、異世界召還を実行した。だから俺の目的を果たした後になら、そうしてやってもいい」
「そんな。明日も仕事なんです。すぐに帰してください」
「俺の目的を達成したら、そうしてもいい」
「……」
「……」
自らの要望だけを口にして、こちらの事情は聞こうともしない。外見だけはまるで理想の王子様のようだが、中身はずいぶん自分勝手らしい。
(どうしよう……)
どうあっても彼は引き下がりそうにないし、あまり否定し続けて、危険だというこの場所に放り出されても困る。
金色の髪をした自称魔導師の男が目の前にいたからといって、さすがにここが別世界であることを鵜呑みにするわけではない。でも、ひとりで帰れるような状況でもないのは理解していた。
「ええと、わたしに何をさせたいの?」
彼の目的が簡単なものならばいいと、そう願いながら優衣は尋ねる。
「簡単だ。魔族を誘惑して支配し、この国の守護者にすればいい」
「……はい?」
「魔族を誘惑して支配し、この国の守護者にすればいい」
魔族とか、誘惑とか聞こえたのは気のせいだろうかと思って聞き返すと、先ほどとまったく同じ言葉が返ってきた。
残念なことに、気のせいではなかったらしい。
「あの、ジェイド、さん?」
「何だ?」
「まずこの世界のことと、わたしが呼び出された理由、そして魔族が何なのか教えて頂けませんか?」
もう頭の整理がつかないなどと言っている場合ではない。
無理矢理にでも整理をつけて、自分の置かれた状況を理解しなければならない。
「……面倒だな」
それなのにあからさまに面倒そうな顔をした目の前の男に、ものすごく殺意が沸いた。
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