まだドアは開けないで

瑞木ケイ

第1話

 読んでいた文庫本をぱたりと閉じ、私は窓の外へと視線を移した。


 ここ数日降り続ける雨はいつ止むとも知れず、しとしとと目に見える景色をしめやかに濡らしていた。

 ふいに切らした集中力を呼び戻す手段はついぞ思いつくことができず、私はただぼんやりと雨のせいで彩度の落ちた風景を眺めていた。



 放課後の教室に私以外の人影はない。


 雨が降っているから、いつものようにグラウンドから運動部員たちの威勢のいい声が聞こえてくることもない。

 規則正しく時を刻む時計の針の音と、後は窓ガラスやアスファルトを叩く雨の音。

 ただ、騒がしさとは程遠いそのふたつの音が奏でる静けさが、私の心をさみしくさせていた。


 中途半端に読みかけた本を再び読む気にもなれず、ただ時間が過ぎるのを無為に待つ。



 あの子はうまくいったかな。

 窓の外を眺めたまま、そんなことを思う。


「……うまくいくといいな」


 あえて口に出して言った言葉は、あまりにも空虚に響いて聞こえた。

 わかっている。

 他でもない私が、それを望んでいないってことくらい。



 今頃、ふぅちゃんは想い人に告白していることだろう。

 ふぅちゃんはかわいいから、きっと告白された男子もうれしいかもしれない。

 でも、その男子がどう思おうが私には興味がない。

 ふぅちゃんに教えてもらった彼の顔も名前も、なんだかもや・・がかかったようにはっきりとしない。


 いつのことだったか、ふぅちゃんから「好きな人ができた」と言われた時は驚いた。

 あんまりにも驚いたものだから、私は思わず「おめでとう」なんて間の抜けた返事をした。

 彼女は私の言葉を聞いて「まだ好きになっただけだよ」なんて笑われてしまった。



 ふぅちゃん。

 小学校の頃からずっと一緒にいる、私の幼なじみ。

 そしてなにより、私の一番好きな人。


 いつからだろう? 私がふぅちゃんを恋愛対象として意識したのは。

 きっかけはもう忘れてしまった。もしかしたら最初からきっかけなどなかったのかもしれない。

 でも、今となってはそんな些細なことはどうでもよかった。


 彼女の笑った顔が好きだった。

 まるで陽だまりのように笑うふぅちゃんを見るたびに、私の心は満たされていた。

 そのはずなのに。


 いつからだろう? 私がその笑顔に切ない気持ちで胸を締め付けられるようになったのは。

 大人しくて引っ込み思案だったふぅちゃんの笑顔を守るために彼女の傍にいたはずの私が、いつしか大好きな彼女の笑顔を曇らせてしまうのではないか。

 その可能性を想像するだけで怖かった。



 だから、私は自分の気持ちに蓋をした。

 蓋をした、はずだったのに。


 私の気持ちがだんだんと大きくなっていって、ついには抑えきれずに私の身体を食い破ってしまうかもしれない。そしてその仄暗い情念は、私の意思に反してふぅちゃんに牙を突き立てるのだ。

 なんて最悪なシナリオだろう。

 そんなバッドエンドは誰も望まない。


 でも、そろそろ限界なのだと感じはじめていた。

 だからきっと、今日ふぅちゃんが想い人に告白したのはちょうどよかったのだ。

 私がまだまともでいられるうちに――私がふぅちゃんの友だちとして横にいられるうちに、あの子は私の手を離れる。

 そうすれば、私は彼女の傍にいることが許される。

 それがきっと、誰にとっても最良のシナリオのはずだ。きっと。そうでなくては困る。


 だって、もしふぅちゃんがフラれたとして、私はあの子をうまく励ましてあげられる自信なんてない。弱っているふぅちゃんを前にして、自分の欲望をぶちまけない自信なんてどこにもない。

 だからきっと、私はふぅちゃんの恋が実ることを願っているはずなんだ。



 人気のない校舎内に、ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえてきた。

 その足音が誰のものかなんて私にはわかりきっていたから――そしてその足音だけで彼女が今うれしいのか、それとも悲しいのか、それすらもわかってしまうから。


 私は手に持ったままだった文庫本を机の上に置いた。

 さっきまで本を読んでいたせいで目が疲れたのだろう、視界が滲んでしまっている。



 足音が教室の前でぱたりと止まる。

 きっと私の前に現れる彼女は私の大好きな笑顔を見せてくれるはずだから。

 そして私は彼女に笑って「おめでとう」を言わないといけないのだから。



 だからどうか、もう少しだけ――私が笑顔の浮かべ方を思い出せるまで、まだそのドアを開けないでね。



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まだドアは開けないで 瑞木ケイ @k-mizuki

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