第37話 呪いの真実5


 エオノラは頭痛を覚えて目覚めるとゆっくりと身体を起こした。

「クリス様……」

 額を押さえながら顔を上げる。しかし、目前に広がっているのはどこまでも無機質な白い世界だった。


 ここはどこだろう。これが世に言う死後の世界なのだろうか。

 立ち上がって適当に歩いてみるが、一向に果てにいきつかない。

「私は死んでしまったの? それなら無事に呪いは解けたのかしら?」

 死ぬ覚悟はできていたが、最後に呪いが解けたかどうか見届けられなかったのは心残りだ。頭を垂らしていると後ろから温かな風が吹いてきた。



 振り返れば目の前には一匹の巨大な白い狼がエオノラを見下ろしている。

 エオノラの身長よりも倍はある巨体で、口を開ければ丸呑みされそうだった。

 しかし、不思議と恐怖心を感じることはなく、心はどこまでも平静としていられる。じっと見つめていると狼が琥珀色の瞳を閉じて頭を下げてきた。


「数百年にも及んだ呪いを解いてくれてありがとう。其方のお陰で漸くかの土地から最後の罪源を浄化することができた」

「あなたはもしかして、狼神様ですか? ええっと、最後の罪源とはどういうことですか? 私が知っている話では、罪源はすべて浄化されたはずです」

 狼神は土地の浄化を終えて力をなくし、天寿を全うしたはずだ。罪源が残っていたなんて聞いたことがない。

 問いかければ、狼神は悠久の時の中でずっとこの瞬間を待ち焦がれていたように目を細める。


「我はこれまでかの土地を浄化するために力を使ってきた。だが、一つだけ足りない力があったのだ。我には生涯の伴侶である番がいない。番を愛するということを知らない。従って罪源をすべて浄化することは不可能だった」

 罪源は七つあり、愛の力を持っていなかった狼神は残りの一つの浄化に困難を極めた。そうこうしているうちに力を使い果たしてしまったのだという。


「残った罪源は必ず厄災を引き起こし、混沌の世界を作り上げる。それを阻止するために我は王家の人間へ呪いという形で、その身に罪源を宿らせることにした。我の屍を養分として生まれたルビーローズには我の浄化の力が僅かに宿っている。呪われた者を心から愛する人間の血をルビーローズに与えることで、愛の力を補填し、呪いが解けるようにしたのだ」

「愛する者の血……私、狼神の最後の言葉やルビーローズの言葉から命を捧げる必要があるとばかり思っていました」


 驚いた狼神は声を荒らげた。

「愛する二人を引き離すなどとんでもない!! 嗚呼、息絶える寸前で話したからうまく伝達がいっていなかったのか。……どうも面目ない」

「いいえ私の方こそ、とんだ勘違いをしてしまったみたいです!」

 てっきり血というのは婉曲的な表現で、呪いを解くには命を差し出す必要があると考えていた。祖母は先代侯爵と友人関係のようだったから、自分の命を差し出す勇気はなかった。だから日記帳で謝罪していたのだと思っていたが、それは正解ではないようだ。


「……お祖母様のは友愛だったから、ルビーローズに血を捧げても呪いを解くことができなかったのね」

 今ならどうして祖母が謝罪し、右足の怪我を罰だと言っていたのかが分かる。もし祖母が先代侯爵を愛していたら彼の呪いは解け、まっとうな人生を歩めた。次の世代であるクリスが呪いを受けることもなかった。

(恐らくお祖母様は……その時既にお祖父様のことを愛していたのね。だから呪いを解くことができなかった)

 だがエオノラの場合は婚約者だったリックと婚約を解消し、愛する相手がいなかった。


 心に深い傷を負い、途方に暮れていたところでクリスと出会ったのだ。偶然が重なっただけかもしれないが、もしもリックとの婚約が続いていればまた結果は違っていただろう。それこそ、祖母と同じで呪いから彼を救えなかったかもしれない。

 そんなことを考えていると堪らなくクリスが恋しくなった。



「あの狼神様、一つお聞きしたいのですが私は今どこにいるのでしょうか? 死んでしまった、ということはありますか?」

 呪いを解くためにエオノラは自害しようとしていた。最後の記憶が曖昧で思い出せないが、もしも自害が成功しているならクリスがいる世界へ戻ることはできない。

 真剣な表情で答えを待っていると、狼神が鼻先でエオノラの頬をつついた。

「ここはあの世とこの世の境目だ。呪いを解いた者は一時的に狭間へ呼び寄せるようルビーローズに魔法を掛けていた。そして其方はまだ死んでいない。安心せよ」

「……よ、良かった」

 エオノラは喜びを噛みしめた。早く戻って呪いが解けたクリスに会いたい。

 心の中でその想いが強くなっていると、不意に上から誰かの声が微かに聞こえてきた。



 ――エ……ノ、ラ……エオ……エオノラ。

 声はくぐもっていて誰の発している声かまでは判別できない。

 名前を呼ぶ声は何度もこちらに返事を求めているようだった。

 相手が誰かは分からない。分からないのに、その声を聞くといてもたってもいられない気持ちにさせられる。帰りたい、早く帰らなくちゃと心が逸る。

「狼神様、私……」

 そこまで言うと、狼神様が頷いた。


「さあもとの世界へ戻ると良い。其方の帰りを心待ちにしている者がいる。そして本当に呪いを解いてくれてありがとう……石守姫よ」

 狼神は最後にそう告げると、ふうっと息をエオノラに吹きかけた。


 軽く吹きかけられただけというのに、エオノラの足はいとも簡単に白い地面を離れ身体は風に乗って舞い上がる。

(さようなら狼神様)

 エオノラはこちらを見上げる狼神に手を振った。

 真っ白の世界は次第に様々な色を帯び始め、世界を彩っていく。最後に虹色の眩しい光が目の前に現れるとエオノラの身体を包み込んでいった。






「エオノラ! 目を覚ましてくれ!!」

 耳元で叫ぶような声が聞こえ、エオノラは眉根を寄せて目を開いた。

 目の前には青年の姿に戻ったクリスが必死の形相をしている。

「……ク、リスさま」

 エオノラが声を掛けるとクリスの表情がくしゃくしゃと歪んでいく。

「エオノラ!!」

 ゆっくりと上体を起こすとクリスに力強く抱き締められた。


「呪いは解けたんですね……良かった……」

 その言葉にクリスは「良くない!」と反論してさらに抱き締める力を強めてきた。

「……ずっと呪いに自我を呑み込まれて暗闇の中にいた。徐々に自分という存在が曖昧になっていく中、エオノラの声だけが鮮明に聞こえたんだ。お願いだから私のために命をなげうつなんてこと二度としないで欲しい。あの言葉を聞いて心臓が凍る思いだった」

「あの時の言葉に嘘偽りはありません……ですが、心配をお掛けしてすみませんでした」

 クリスの背中に腕を回したエオノラは彼の耳元で囁いた。顔は見えないが鼻を啜る音が聞こえたのでもしかしたら泣いているのかもしれない。



 一先ず状況を確認するために、エオノラは周りを見回した。

 側にはエオノラが目を覚まして一安心するハリーが立っていて、別のところには自害しようとして使ったガラスの破片が転がっている。

 そして自分の右手が何かを握り締めていることを思い出して視線を向けると、手には美しく花開くルビーローズの枝があった。

 まじまじと見つめていると、ルビーローズの声が頭に直接響いてくる。



 ――私に、愛を教えてくれてありがとう。



 その言葉と共に、ルビーローズのリンリンという音はとうとう鳴り止んだ。

「花が……咲いてる」

 思わず口をついて出た言葉だが、それに気づいたハリーはエオノラと同じ目線になるようにしゃがんで、ことの顛末を話してくれた。

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