第33話 呪いの真実1


 ◇


 翌朝、太陽が昇り始めて間もない時間帯にエオノラは寝間着姿の上にショールを掛け、中庭に立っていた。それほど広くもないここは室内から外に出るとすぐに植物を観賞することができる。

 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込めば、朝露でしっとりとしている木々の若葉や花の匂いが漂ってくる。



 昨夜無事に社交界デビューを終えた。ゼレクが戻ってきたのは三曲目のダンスの途中で、彼からは平謝りに謝られた。

 踊ってくれた相手がいて無事に社交界デビューができたと伝えるとゼレクからその相手が誰なのか尋ねられたが、素直に分からないと答えておいた。

 すぐにシュリアと彼女の弟がやってきて、二人は興奮気味でゼレクにエオノラの悪い噂をハリーが払拭してくれたことを説明してくれた。

 さらにシュリアからは一体どこでハリーと知り合ったのか問いただされたが、当然言えるはずもなく、それは極秘事項だと伝えるしかなかった。


 葉先に付いた雫が太陽光に当たってキラキラと輝き始めるのを眺めながら、思案していると後ろから声を掛けられた。

「まだ肌寒いからそんな恰好だと風邪をひくよ」

「おはよう、お兄様」

 入り口には両手にお茶の入ったカップを持ったゼレクが立っている。

 ゆったりとした白シャツに黒のパンツ姿の彼はこちらにやってくると湯気が立ち上るカップを差し出してくれた。受け取ったエオノラは軒下にあるベンチに腰を下ろして口をつける。それはハニージンジャーティーで、ほんのりと甘い蜂蜜の香りとスパイシーな生姜がアクセントとなり、身体がぽかぽかと温まった。


 ゼレクも隣に腰を下ろしてエオノラと同じものを啜りながら、話を切り出した。

「昨夜、政務室に戻って仕事をしていたら第二王子殿下が現れた。エオノラの話を聞いてとても驚いたよ。まさに寝耳に水だった」

 ゼレクは独り言のように呟く。

 リックとの婚約が解消されて以降、ゼレクはずっと自分のことを心配してくれていたに違いない。彼の心情を思うと申し訳ない気持ちになった。

「少し前から一人で散歩と言って出歩いていることはジョンから聞いていた。それは第二王子殿下の絡みで出歩いていたのかい?」

「ええ。だけど危険なことは何もないから心配しないで」

 ハリーは医学や薬学などに精通しているため、もしかするとゼレクは臨床試験に参加していると思っているのかもしれない。これ以上、心配を掛けまいとエオノラは補足した。


 すると、ゼレクが思わずといった様子で苦笑する。

「殿下からも同じことを言われたよ。薬草を集める手伝いをしていると聞いている。最初は驚いたけど合点がいった。前よりも表情が明るくなったから」

 ゼレクの言葉にエオノラは目を見張る。

「それは本当?」

「うん、本当だよ」

 ゼレクは柔和に微笑んで力強く頷いた。

「俺だけじゃない、ジョンやイヴも。この屋敷にいる使用人全員がそう思っている。お嬢様が元気になって嬉しいって言っていたよ」

 周りから見ても、もう自分は悲愴感が漂う人間ではないようだ。それが分かった途端、過去という重い鎖に繋がれていた心が、完全に鎖を打ち切って自由になったと実感できた。

 爽やかでとても清々しい気分だ。


 今こうしていられるのはやはりクリスのお陰だとエオノラは思う。

 そしてふと、頭にクリスの姿が浮かぶと、きゅうっと胸が締め付けられた。

(嗚呼、まただわ。クリス様を思うと、ここが苦しくなる)

 甘くて苦いものを感じながらも、エオノラは胸に手を当ててゼレクに微笑み返した。

「お兄様、私はもうリックと婚約解消したことを後悔してないわ。悲しくもない。今まで心配かけてごめんなさい。私はもう平気だから」

 ゼレクは少し眉尻を下げるとエオノラの肩にぽんっと手を置く。


「謝らなくて良い。俺の方こそエオノラが大変な時に力になれなかった。不甲斐ない兄で申し訳ない」

「ううん、そんなことない。私自身が噂をどうにかしようと行動しなかったのがいけないの。それにアリアに累が及ぶのが心配だったから……」

「分かってる。俺もアリアのことは許せないけど、不幸になれなんて思ってない。とにかく、悪い噂は殿下のお陰で払拭されたことだし、社交界デビューも無事に終わった。エオノラも社交界の一員としていよいよ忙しくなるね」

「ええ、本当に。だけどこれからは自分らしくやっていくわ」

 その後ゼレクと共に朝食を取り、エオノラは束の間の兄妹の時間を過ごした。






 ゼレクが仕事へ行った後、エオノラは自室で祖母の日記帳を読むことにした。

「結局、お祖母様の力を借りる前に社交界デビューは無事に終わってしまったわね」

 このところ自分の気持ちの整理やらデビュタントの打ち合わせやらで大忙しだったため、まったく手を付ける余裕がなかった。とはいえ今から読んでおいても損はないはずだ。

 前回数日分だけ読んでいたので次の日から目を通していく。

 ところが、前回の日付以降で綴られている内容には社交界のことは一切触れられていなかった。

 そこにはもっと重要なことが書かれている。



 ――お気に入りの帽子が風で遠くまで飛ばされた。走ってなんとか帽子を捕まえることができたけれど、そこで助けを求める石の声が聞こえてきたわ。だから不気味なお屋敷の中にこっそり入ってみたの。そうしたら青年と出会ったわ。彼は自らをラヴァループス侯爵と名乗った。だけど噂とは全然違っていて、その姿は普通の青年だった。



 エオノラは驚いて「えっ」と声を上げた。

 何とも言われぬ興奮が背筋をぞくりと走り抜ける。

(……これはどういうこと? お祖母様もルビーローズの声を聞いて死神屋敷に侵入したの? それからお祖母様にも侯爵の本当の姿が見えていたってこと?)

 たくさんの疑問が湧いてくるが、一旦それらを脇に置いて続きを読んでいく。

 祖母は先代侯爵とルビーローズがきっかけで親しくなった。しかも当時も屋敷では狼が飼われていたらしく、祖母は大層可愛がっていたようだ。

 日記帳には侯爵や狼と一緒に過ごす時間はとても楽しく飽きないと綴られている。

(お祖母様と先代侯爵はとても仲が良かったのね)

 祖母と先代侯爵の関係が今の自分とクリスよりも親密で少しだけ羨ましくなる。

 次の頁に目を通すとルビーローズのことについても綴られていた。



 ――今日は彼に頼んでルビーローズのお世話をさせてもらった。樹に触れると、ルビーローズは私に「愛を教えて」と伝えてきた。私の力は秘密だけど、信頼できる彼だから、そのことを伝えたわ。だけど向こうは思案顔になるだけで何も言ってはくれなかった。もしかすると、私の言葉を信じていないのかもしれない。



 突然石の声が聞こえると打ち明けて、もしかすると先代侯爵は戸惑っていたのかもしれない。祖母の力を認めてくれるか気になって次の頁を捲ると、不穏な空気へと急変する。



 ――風邪で寝込んでしまい、一週間ぶりに会いに行った。だけど彼はもう、私が誰なのか認識できない。私は呪いの真実を知ってしまった。この呪いはラヴァループス侯爵の顔を醜いものに変えるだけじゃなかった。侯爵は狼に姿を変えてしまった。呪いの最も恐ろしいところは姿も心も醜い獣に変えてしまうこと。



 エオノラは弾かれたように顔を上げた。

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