第25話 消えない記憶4
「へ? わっ!? ク、リス様……!?」
起き抜けの頭はぼんやりとしていて、状況を呑み込めきれない。
徐々に霧が晴れるように思考がはっきりしてくると、エオノラは自分の置かれた状況を理解して声なき悲鳴を上げた。
離れようと身じろいだが、クリスの腕に力が込められてびくともしない。
「……あのぅ、もう大丈夫なので離していただけますか?」
「断る」
即答されてエオノラは言葉に詰まった。
戸惑っているとクリスが訥々と答えてくれる。
「……泣き腫らした、酷い顔を見られてもいいのなら、別に構わないが?」
「それは、嫌です!」
今度はエオノラが即答した。
他人に見せられる顔でないことは想像に難くない。両瞼は蜂に刺されたみたいに腫れて鼻も真っ赤になっているだろう。
「ならこのまま我慢して」
「……は、い」
これは彼なりの気遣いなのだろうが、この体勢でいることに緊張を覚える。
(ううっ、この状況はどうしたって密着し過ぎよ! 心臓の音とか聞こえてないかしら?)
変に意識してしまい、全身が急速に熱くなる。それに伴い心臓の鼓動も速くなっていく。
エオノラは気を紛らわせるため質問をすることにした。
「クリス様はいつ私がいることに気がついたのですか?」
「三十分くらい前だ。クゥが俺を呼びに来た。泣き疲れて椅子の上で眠っていたからベッドに運んだ」
「ご配慮くださりありがとうございます。それと迷惑を掛けしてしまってごめんなさい」
居たたまれない気持ちになっているとクリスが構わないというように背中を軽く叩いてきた。その手つきは優しく、体温は温かい。
「……泣いていた理由を聞いても?」
「それは……」
エオノラは話すべきか一瞬躊躇った。
(クリス様はずっとこの屋敷にいるし社交界とは関係ない。だからリックとアリアのことを話しても問題ないかもしれない)
エオノラは「お恥ずかしい話ですが」と前置きを入れてこれまでの経緯を包み隠さず話すことにした。
「――そういう訳なので、初めてここまで歩いてきてしまったのは自暴自棄になっていたからかもしれません」
侵入したのはルビーローズの音を聞いたからだが、死神屋敷まで来てしまったのは完全に無意識だった。
叱られるのを覚悟して身を固くしていると、静かに話を聞いていたクリスがエオノラの頭を手でぽんぽんと叩いてからゆっくりと離れる。
改めて向き合うとクリスがエオノラの頬を優しく撫でてきた。
「こう思えば良い。婚約は破棄されたが婚約式や結婚式をする前に分かって良かったと」
突然の言葉にエオノラは目を丸くする。
「そんな風には……」
――到底思えない。
しかし、不思議にもエオノラの中でその言葉は妙にストンと落ちていく。
もし、婚約式後や結婚式後にリックとアリアの浮気を知ってしまったら……。
(婚約式後や結婚式後だと、そう簡単にリックと別れることはできない。それに私だけじゃなくて家同士の軋轢を生むことにもなってしまうわ)
結婚後の離縁はまだしも、婚約式後なら教会に反故とみなされ、記録を残されてしまう。迷信とはいえ、万が一没落なんてしてしまったら一族に顔向けができない。
それを考えると、婚約式前にこのことが発覚して、婚約がなくなったのはまだマシだったと思えてくる。
クリスの意見はもっともだった。彼は柔和に微笑むと、エオノラの頭の上に手を置く。
「……私には仲が良かった幼馴染みがいた。しかし、向こうは呪われた私の姿を見て『気持ち悪い化け物』と罵り、拒絶した。それまでとても仲が良かったのに、呪われた途端変わってしまったんだ」
「……っ」
クリスの境遇を知ったエオノラは何と言って良いか分からず、言葉が出てこなかった。
呪いという運命に翻弄されて、クリスはたくさんのものを失った。あったであろう将来の夢も、死神屋敷ではない場所で暮らす自由も。そして人間関係ですら、呪いはクリスから奪っていったのだ。
両親に会おうとしないのは、幼馴染みとの一件があったからなのかもしれない。身近な存在だった人に化け物と罵られて拒絶される。想像しただけで耐え難い。
エオノラが眉間に皺を寄せて唇を噛みしめていると、クリスが人差し指でつついてきて、フッと笑った。
「そんな顔するな。別に不幸自慢している訳じゃない。私が言いたいのは何かが駄目になったからといって、人生が終わるわけじゃないってことだ。生きていれば必ず悪いことはある。だが、同時に良いことだってあるし、希望もある」
要は捉え方を少し変えてみろということなのだろう。
「つまり、だ。私は呪われて幼馴染みを失ってしまったが、呪いのお陰で苦手な社交界で令嬢たちの相手をしなくてよくなった。うっかり足を踏んづけて頬を引っぱたかれなくて済むんだからそれに関しては感謝している」
柄にもなく冗談を言うので、エオノラはプッと吹きだした。
「真剣に話を聞いていたのに……」
「私は至って真剣だ。エオノラも、そうやって多方面から物事を考えてみると良い。何か見つかるかもしれない」
クリスの言うとおり、これで人生が終わってしまうわけではない。
今までの自分はすべて完璧な状態を求めすぎていた。完璧じゃないと駄目だと思い込んでしまっていた。
「私ったら、零か百かで物事を考え過ぎていたんですね」
「これからのあなたは新しい選択ができる。選択肢だって増える」
クリスは壁際に移動すると窓を開けた。
室内にからりとした風が入ってきてカーテンがはためき、頬に冷たい空気が当たる。
窓の外からは彼が育てているバラの樹がその姿を覗かせていた。樹には蕾がたくさんついていて、もう少しすれば花が開きそうだった。
「一般的にバラを育てるのが難しいとされているのは、病や害虫の被害に遭いやすいとされているからだ。バラはそれらに耐え忍び、大輪の花を咲かせる」
クリスは手招いてエオノラに隣に来るよう促した。
エオノラは素直に彼の隣へ移動すると、クリスと同じように庭園のバラをじっくりと眺める。
「エオノラはまだ社交界デビューをする機会が残されている。このバラたちと同じように、花開き輝く日が必ず来る。それまで焦らずゆっくり、やっていけばいい」
激励の仕方がなんとも彼らしい。自分はまだただの蕾で、準備期間だと思うと不思議と頑張れる勇気が湧いてくる。
エオノラは胸に手を当てて頷くと、彼に向かって微笑んだ。
「クリス様、ありがとうございます。私、胸のつかえが取れた気がします」
「そうか。――――顔の腫れもマシになったから今日はもう帰るといい。私も屋敷に戻る。……正門まで送ろう」
差し出された手にはまっている、腕輪の琥珀から弦を爪弾くような音が聞こえてきた。穏やかで低い音から、琥珀が安堵していることが分かる。
エオノラが手を取って顔を上げると彼と目が合った。
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、投げかけてくる眼差しはどこまでも優しかった。
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