第24話 消えない記憶3
胸が苦しいのは走っているからだろうか。それともリックとアリアとの婚約話を聞いたからだろうか。アリアの純粋な姿を目にする度にエオノラの心の中には黒い感情がわき起こった。同時に自分の心が狭く、卑しい人間だと思い知らされる。
(胸が痛い……もう誕生日パーティーから随分経つのに。やっぱり、まだ痛い)
無意識的に胸の辺りのブラウスを掴む。
「あっ!」
一心不乱に走っていたエオノラは何かに躓いて派手に転んでしまった。
全身を打ちつけて痛みが走る。特に膝の辺りの痛みが一番酷かった。確認すると擦りむいて血が流れている。
のろのろと起き上がると丁度、ぽつりぽつりと水滴が辺りを濡らし始めた。それはすぐにしのつく雨に変わり、鮮明だった視界を閉ざしていく。
エオノラはその様子をただ呆然と見つめていた。
空に稲光が走った後、雷鳴が轟き始める。
(このまま雷に当たって死んでしまえたら……)
エオノラはおもむろに空を仰いだ。
もうどうなってしまってもいい。このまま消えてしまいたい。
周りに何もないことを確認し、手を組んでからゆっくりと目を閉じる。
すると、遠くの方から水たまりの上を駆ける音と、こちらに向かって走ってくる音が聞こえてきた。
「……誰?」
ゆっくりと目を開けると、そこにはバスタオルを咥えたクゥが尻尾を揺らしながら立っていた。
それからの記憶は曖昧であまり覚えていない。気がつくと死神屋敷の庭園にあるガーデンハウスの中にいて、暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に座っていた。
虚ろな瞳で周囲を見回すと、サイドテーブルに何枚もタオルが置かれている。その隣に腰を下ろしているクゥは心配そうにじっとこちらを眺めていた。
「あなたも濡れてしまったわね……早く乾かさないと風邪をひいてしまうわ」
エオノラは暖炉の火を熾すと、サイドテーブルのタオルを一枚手にしてクゥの身体を拭くためにおいでと手招きする。と、クゥが突然立ち上がって、椅子の肘掛けに前足を置き、顔を近づけてくる。頬にしっとりとした温かい何かが触れる。それはクゥの舌だった。
「クゥったらどうしたの? くすぐったいわ」
何度も舐められるので不思議に思ってクゥが舐めていない頬に触れてみると濡れている。雨で濡れたのかと思ったが、瞳から涙が流れていることに漸く気がついた。
「あっ……私ったらいつの間に泣いて……」
言葉を発した途端、目から止めどなく涙が流れてきた。指の腹で涙を拭っても止まる気配はない。エオノラはクゥに舐めるのをやめるように手で制した。
「……クゥン」
クゥは大人しく椅子から降りると、悲しそうな目でこちらを見つめてくる。
「ねえ、クゥ。私……どうしたら良いの? どうすれば良かったの?」
気づけばクゥに語りかけていた。相手は狼だ。話したところで理解してくれるだろうか。
しかし、自分の中にこれ以上黒い感情を押しとどめられる気力はない。それなら世間も貴族社会も関係ないクゥに話してしまえばいいのではないか。
そう思うともう止まらなくなった。
「私ね、婚約者に浮気されてその相手が従妹だったの。大切な二人から同時に裏切られて、同時に失ってしまった。だけど終わってしまったことをああしていれば、こうしていればと考えても、もとには戻らないから。だから前に進もう。私は大丈夫、私は平気って何度も言い聞かせたの。だけどもちっとも平気になれないの。前に進めないの。私、これからどうしたらいい?」
エオノラの心はあの日以来、リックとアリアの二人が抱き合っている瞬間に囚われてしまっている。抜け出そうとどんなにもがいても黒い影が伸びてきてエオノラをあの日へと閉じ込めるのだ。
鼻を啜りながら話し終えたエオノラはタオルで涙を拭いた。
「ごめんなさいクゥ。難しい話をしてしまったわね」
エオノラは無理矢理クゥに笑いかけた。これ以上困らせるわけにはいかない。
すると、クゥが悲しく鳴いてエオノラの膝の上に顎を乗せてきた。こちらに向ける眼差しは慈愛に満ちたものだった。
――気丈に振る舞わなくていい。ここには泣くことを咎める人はいないのだから。
クゥが何をどう思っているのか分からない。しかし、エオノラにはクゥがそう言っているように見えた。
再び目頭が熱くなり、引っ込んでいたはずの涙が目尻に溜まっていく。
エオノラはくしゃりと表情を歪めると、椅子から降りてクゥを抱き締め、声が嗄れるまで泣き続けた。
ずっと泣くのを、引きずっているのを、みっともないことだと思って我慢してきた。慰めてくれる家族も友人もいる。しかし弱音は吐けなかった。
いつまでも悲しんでいれば、アリアが非難の的になってしまう。何も知らずにリックを好きになってしまった彼女が、責められるのを見たくなかった。
本当ならゼレクに頼んで、社交界に自分の悪い噂が立たないよう根回ししてもらうことだってできた。踏み切れなかったのは、これまで独りぽっちだったアリアがやっとの思いで掴んだ幸せを自分のせいで台無しにすることができなかったからだ。
可愛い従妹が傷つく様は見たくなかった。
(もう、気丈に振る舞わなくても良いのよね……)
だってここには世間体を気にする相手は誰もいない。いるのは自分と狼のクゥだけだ。
エオノラは漸く心に溜まっていた黒い感情を吐き出せた気がした。
どのくらい泣いたのだろう。泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしい。
遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。エオノラはうっすらと目を開けた。
まず視界に入ったのは梁のある真っ白な天井で、状況を確認するために起き上がるとベッドの上にいた。さらに、風邪をひかないよう身体にはブランケットが掛けられている。
あれほど酷かった雨はすっかり止んでいて、窓から入る太陽の光が室内を照らしている。
「クゥは……いない。どこに消えたのかしら」
両足を床に着けると、ピリリと膝に痛みが走った。
転んで擦りむいていたことを思い出し、膝を確認すると傷口には包帯が巻かれている。
(クゥが傷の手当てを? だけどこんなに器用に手当はできないと思うけど……)
首を傾げながら膝を見つめていると不意に声を掛けられる。
「起きたのか?」
顔を上げると、クリスが室内に入ってきた。雨にでも当たったのか彼の青みがかった白銀色の髪の毛が半乾きで、肩にはタオルが掛かっている。
クリスはエオノラの前までやって来ると立ち止まる。そしてベッドに片膝を付けると、力強くエオノラを抱き締めてきた。
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