第6話 死神屋敷から聞こえる音1
イヴに淹れてもらったお茶を飲んで少しだけ気分が落ち着いたエオノラは、気分転換に散歩へ出かけることにした。イヴが付き添おうとしてくれたが一人になりたい気分だったので、近所を歩くだけだと言って断った。
屋敷の正門を出て振り向けば、こちらの視線に気づいた庭師が手を振って見送ってくれる。
生まれ育ち、家族と一緒に過ごしてきた思い出のつまった屋敷。あまり顔を合わせられない両親との記憶や、兄と楽しく過ごした日々の記憶もある。それなのについ先日起きた修羅場のせいで、これまでの大切な思い出が汚されてしまった気分になる。
(大好きな場所が居心地の悪い最悪な場所になるなんて……)
エオノラは庭師に手を振り返すと、屋敷に背を向けて歩き始めた。
特に目的の場所というものはないが人混みよりも自然に溢れた静かな場所で一人過ごしたい気分だった。そうなると、自ずと足が向かう先は死神屋敷がある方角だ。
あの辺りにある屋敷は死神屋敷の一軒だけ。近くには野原と綺麗な小川があって、この時期、川の水に足をつけるのは気持ちが良い。
(死神屋敷の前を通るだけなら問題ないわよね)
先日の件やラヴァループス侯爵の呪いを思い出して少しだけ身が竦む。
侯爵の醜い顔を見た人間は死んでしまう――とはいっても、死神屋敷に足を踏み入れず、侯爵に会わなければ危険な目には決して遭わない。
(杖なしでは歩けない老人だというし、普段は自室に引き籠もっているって噂を何度も耳にしたから……)
だから屋敷の前を通り過ぎるくらいどうってことないはずだ。
変な自信が湧いてきたエオノラは背筋をスッと伸ばした。大通りの角を曲がってから暫く歩いていると、不気味で異質な雰囲気を漂わせる死神屋敷が見えてくる。
死神屋敷がある通りはエオノラ以外誰もいなかった。さっさと通り抜けてしまおうと、歩くスピードを上げていく。
正門前を通り過ぎて角を曲がってしまえば、その先は緑豊かな野原が広がっていて、春の訪れを告げるキンポウゲが一面に咲いているはずだ。
(野原の風に当たれば少しは沈んだ気持ちも晴れるわよね)
落ち込んだ際はいつも屋敷の中庭の自然に囲まれて気分をリフレッシュさせていた。しかし今回は中庭さえも近づきたくない場所となってしまっているので場所を変えるしかなかった。
死神屋敷の角にさしかかった時、そよ風が屋敷の方から吹いてくる。不意にこの間と同じリンリンという鈴に似た音が聞こえてきた。
無意識のうちに耳が音を拾ってしまい、足が止まってしまう。その音が助けを呼んでいるような気がして仕方がなかった。
(石が伝えたいことを理解できるのは私だけ。本当に無視して良いの?)
悩めば悩むほど、自分を必要とする石のために動きたい気持ちが募っていく。
エオノラは、振り返ると死神屋敷を仰ぎ見た。
今日は正門はしっかりと閉まっていたが、この間狼に教えてもらった秘密の抜け道を使えば、また庭園へと辿り着けるだろう。
(だけどまた勝手に庭園に侵入なんかしたら、今度こそ侯爵と顔を合わせることになるかもしれない)
それに前回見逃してくれた狼が牙を剥くかもしれない。
躊躇していると、弱々しい音がエオノラの耳に再び届いた。あまりに悲痛な響きを、これ以上放っておくのは耐えがたい。
(こんなに悲しい音を出して助けを求めているんだもの。……やっぱり、放ってなんておけないわ!)
使命感に駆られ、狼に教えてもらった抜け道を使って死神屋敷の庭園へと向かった。
◇
庭園に足を踏み込むと、相変わらず見事なバラたちに出迎えられた。
スイートブライヤーやコウシンバラ、ダマスクローズなど、世界中のバラをこの庭園に集結させたのかと勘違いするくらい多種多様なバラの樹で溢れている。じっくりと見て回りたいところだが今は目的を忘れてはいけない。
侯爵や狼に怯えながらも音のする方へと移動していくと、突然枝葉を切るような音が聞こえてきた。
イチイの生け垣に隠れて覗き込むと、前方で青年が一生懸命剪定を行っていた。
横顔しか見えないが、月夜を閉じ込めたかのように美しく輝く青みがかった白銀色の髪。鼻梁は高く身体つきはすらりとしていて、白のシャツに灰色のズボンとベストを着ている。鋏を握っていない左手は黒革の手袋をつけていた。
恰好はただの使用人なのに背筋がスッと伸びた品のある立ち姿と、ただならぬ雰囲気に圧倒される。
(もしかして、使用人じゃなくて彼がラヴァループス侯爵なのかしら?)
一瞬そんな考えが頭を過ったが侯爵は杖をつく老人でかつ、醜い顔であることを思い出した。それに彼が侯爵ならとっくにエオノラは死んでいる。
(彼はただの庭師みたいね)
じっと観察しているとバラの手入れをしていた青年の手がピタリと止まった。続いて身体を勢いよくこちらに向けてくる。
「……っ!?」
エオノラは慌てて生け垣に身を隠したが一瞬、琥珀色の目と合ったような気がした。その証拠に足音が何の躊躇いもなくこちらへ近づいてきている。
(――もしかして、見つかってしまった?)
顔を真っ青にさせ、他に隠れる場所がないか周囲を見回してみる。目に留まった塀近くの樹木に中腰で移動して逃げ込むと、身体を丸めて様子を窺った。
いつの間にかこちらに向かってきていた足音は止んでいる。代わりに鈴のような音だけが庭園には響いていた。
見つかったというのは単なる思い込みだったのかもしれない。
ほっとして気が緩んでいると、突如として後ろから低い声が降ってきた。
「ここで何をしているんです?」
「ひゃああっ!!」
小さな悲鳴を上げて振り返ると、先程剪定を行っていた青年が琥珀色の目を細め、不快そうな表情で立っている。
相手がこちらを睨んでくるのでエオノラも負けじと見返した。
果たしてあまりにも長い間見つめ合っていると、やはり羞恥心が湧いてくる。エオノラは敗北を認めるようにさっと視線を逸らした。
「ええっと……」
気まずいながらも声を上げると、その場に立ち上がってスカートの皺を伸ばす。
「勝手に屋敷に入ってしまい申し訳ございません。私はこの近くに住むエオノラ・フォーサイスと申します」
早口で謝罪と挨拶を済ませると、呆気にとられた様子の青年が口を半開きにして瞠目している。
「……どうしてあなたは怯えないのですか?」
その問いに今度はエオノラが口をぽかんと半開きにする。
「お、怯える? どうしてですか?」
「訊いているのは私だ。質問を質問で返さないでくれます?」
「も、申し訳ございません」
何故咎められているのか理由は分からないが一先ず素直に謝った。
「質問を変えますが、あなたは私の姿を見て怖いと思わないのですか?」
「怖い、ですか?」
エオノラは、ぱちぱちと目を瞬いて首を傾げた。
目の前の青年は見目麗しい容姿をしている。社交界に出ればたちまち注目を浴び、令嬢たちからは秋波を送られるだろう。そんな彼を決して怖いとは思えない。
「あなたは怖くありません。確かに怖いくらい綺麗な容姿ではあります、けど……?」
「は?」
青年は驚いたように目を見開いた。次に表情から笑みを消すと、じりじりと間を詰めるようにエオノラに寄ってくる。
青年から逃れるようにエオノラは後ろへと下がったが、樹木に行く手を阻まれてしまった。さらに青年が樹木に手を付いて、完全に逃げ場はなくなった。
「フォーサイス家のご令嬢と仰いましたか? あなたはここがどういう場所かご存じですよね?」
「はい。もちろん存じております!」
尋ねられたエオノラはこくこくと頷いた。
すると青年は不審そうに片眉をぴくりと動かした。
「……失礼ですがお嬢様は倒錯的な性的嗜好をお持ちですか?」
「はい!?」
突然何を問われたかと思えば、それは見事に不躾な質問だった。
社交界デビューもまだであるエオノラには刺激的な言葉の響きだ。羞恥心で頭のてっぺんから耳の先まで瞬く間に真っ赤になった。
「私、そんな趣味は持っていません!!」
半ば叫ぶようにして否定すると、青年が乾いた笑みを浮かべる。
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