第5話 婚約解消と心の傷2


 部屋に入ると男爵がソファに座って待っていたが、こちらに気づくと立ち上がって両手を広げた。

「ゼレク、エオノラ! いやあ、こんなに大きくなって!」

 ずんぐりむっくりで人あたりが良さそうな笑顔を見せるホルスト男爵が明るく挨拶をしてくれた。よく考えると男爵と最後に会ったのは一年以上前だ。


 エオノラは軽く挨拶をした。隣に並ぶゼレクも仏頂面を引っ込めて柔和な微笑みを浮かべて男爵に握手を求めた。

「叔父様がこうして無事にエスラワン王国に戻られてほっとしています。元気そうで良かったです」

 ゼレクが男爵にソファに掛けるよう手で促すと、後ろで控えていた侍女たちが準備していた茶菓をテーブルの上に並べ始める。温められた小鳥柄の陶器のカップにはお茶が注がれ、ケーキスタンドには一口サイズのケーキが数種類出された。


 ゼレクの隣に座ったエオノラはちらりと彼を盗み見た。

 怒り出さないか冷や冷やしていたが、こちらの心配を余所にゼレクは男爵と和やかに世間話をしている。内心安堵するエオノラは、頃合いを見て視線をジョンへと送った。

 ジョンはこっくりと頷いて箱を運んでくると、男爵の前にそれを置く。

「叔父様、依頼されていたペリドットの確認が終わりました。凄腕の鑑定士に確認させたところ、こちらは呪われた代物ではないそうです」

 エオノラは石の音が聞こえる力のことを、家族と執事のジョン以外の誰にも教えていない。



 魔術を使える人間は大変貴重な存在だ。もし魔力持ちであることが分かると、王宮の魔術師が集う魔術院に保護されてそこで暮らさなくてはならない。これはエスラワン王国の法律でも定められており、国民に拒否権はない。

 魔術院へ行けば魔術研究のために一生を捧げることとなり、家族に会うことは許されない。


 初めてこの力が分かった時、家族の間で真剣に話し合いになった。エオノラ自身は魔術院に何の魅力も感じていなかったし、それよりも一生を魔術院で過ごさなくてはいけないと知って、当時は大泣きしてしまった。

 幸い、エオノラの力は目立たないこともあり、家族だけの秘密になった。

(私が魔術院に行けばお父様とお母様に会えなくなる。二人は国王陛下の仕事でずっと家に帰ってこない。これ以上大切な家族との時間を奪われたくないし、力のことは絶対、秘密にしておかないと)

 エオノラはいつも『凄腕の鑑定士』という架空の人物を作り上げて鑑定結果を説明するようにしていた。



 男爵は小さな箱を手に取り、蓋を開けて中身を確認する。

「これで安心だよ。アリアもエオノラと同じで社交界デビューを控えているからお祝いにこれを使って何か贈ろうと思ってるんだ。――それに、ここだけの話なんだけどね……」

 途端に男爵は声を潜める。この先、何を口にするかはエオノラもゼレクも容易に想像がついた。



「昨日家に戻ってびっくり。なんとアリアがキッフェン伯爵のご令息の心を射止めたようなんだ! しかも相思相愛で、ほぼ毎日二人は劇場や公園に出かけているようなんだ。今日も朝早くからパトリック様に会うといって出ていったよ。嗚呼、まさかこんな素晴らしいことが起きるなんて!!」

 話を聞いて耳を疑った。

(リック、私の時は忙しいと言ってあまり会ってはくれなかったのに……)

 胸の辺りに鋭い痛みを覚えたエオノラは膝の上に置いていた手を強く握り締める。


 リックとは誕生日パーティー以降、一度も会っていない。

 ゼレクが二度と敷居を跨がせないと宣言していたが、本人が会いに来るかどうかはまた別だ。謝罪で訪ねてくれることを少しだけ期待していたが、それもただの期待で終わってしまった。


 男爵の話を聞く限り二人はかなり親密な関係のようで、ことごとく自分に興味がなかったのだと思い知らされる。

(叔父様は王国に戻ってきたばかりだし、そもそも私とリックの婚約自体も知らないわ。婚約はもう解消されたたんだから、悲しい顔をしていては駄目。不審がられる)

 心の中で自分を叱りつけると、泣き出しそうになる自分を奮い立たせた。


 男爵が興奮して鼻息が荒くなっている一方で、ゼレクは無理矢理笑顔を貼り付けて感情の籠もっていない声で言う。

「へえ、あのアリアが。それは大変喜ばしいことですねえ」

「いやあ、実に喜ばしい。社交界デビューもまだなのにこんなに幸運なことがあるとは! エオノラにも素敵な殿方が現れることを願っているよ」

「……そうですね。出会いがあることに期待します」

 エオノラはぎこちなく微笑むことしかできなかった。幸い男爵はエオノラの様子がおかしいことには気づいていないようで終始、愛娘の幸運にご満悦なようだった。

 その後はゼレクが上手く話題を変えてくれたのでアリアとリックの話は流れていった。しかしエオノラは気が漫ろになって、その後の会話をあまり聞いてはいなかった。



 ホルスト男爵が帰ると、程なくしてゼレクも王宮へ戻ることになった。まだ週末までにやるべき仕事が残っているのだという。

 エオノラはジョンや使用人たちと一緒に玄関でゼレクを見送る。

「それじゃあエオノラ。俺は王宮に戻るけど、何かあればすぐに連絡をよこすんだよ」

「はい、お兄様。だけど私は大丈夫だから。お仕事頑張って」

 ゼレクが困った表情を浮かべて肩を竦める。

「できるだけ週末は帰るようにするから。無理しちゃ駄目だよ。暫くはお茶会にもでなくていいから」

 心配するゼレクは最後までエオノラを気遣う言葉を掛けると、手を振ってから馬車に乗り込んだ。すぐに御者がかけ声を上げると緩やかに馬車が動き出す。

 微笑みを浮かべたエオノラは、ゼレクを乗せた馬車が見えなくなるまで玄関で手を振った。しかし馬車が消えた途端、微笑みはすうっと消えていった。



 独りになると、また誕生日パーティーのことを思い出して憂鬱になる。そもそも修羅場の現場となったのが自身の屋敷というのは辛いものがあった。

 思い出したくもないのに、あまりにも強烈だった記憶はふとした瞬間に蘇る。

「お嬢様、これを使ってください」

 そう言って一人の侍女がハンカチを差し出してくれた。彼女はエオノラ付きの侍女・イヴだ。三つ程年上の彼女は幼い頃から仕えてくれている。


 エオノラはハンカチを差し出されて首を傾げると、そこで漸く目から涙が零れていることに気づいた。

「あっ、ありがとう」

 素直にお礼を言ってハンカチを受け取ると。と、イヴが優しく肩を抱いてくれた。

「……屋敷の中に戻りましょう。温かい飲み物をご用意します」

 ここ数日、イヴはずっと側にいてくれる。優先すべき仕事もあるだろうに、彼女は一言も文句を言わずにエオノラのために甲斐甲斐しく働いてくれる。

 このままではずっとイヴに甘えて、迷惑を掛けることになってしまう。いい加減、立ち直らなくては。


 エオノラはハンカチで涙を拭うと微笑んでみせた。

「いつまでも落ち込んでちゃ駄目よね。アリアにとっては喜ばしいことだもの……」

 もう気にしていない、という意思を示したかったのに随分湿っぽい声になってしまった。

 イヴは口を開き掛けて噤むと、やがて躊躇いがちに言葉を紡いだ。


「差し出がましいことを申し上げますが、お嬢様は何も悪くありません。そんな風に思わないでください。今は自分自身を大切にする時です。寂しくなったら私たち使用人が側におります。私たちはいつだってお嬢様の味方ですから」

 後ろに控えていた使用人たちはイヴの言葉に力強く頷いている。

「……ありがとう」

 皆の温かさにまた自然と涙が溢れる。


 ハンカチで涙を拭いていると、ジョンが優しく声を掛けてくれた。

「お嬢様はもうすぐ社交界へデビューされます。いろんなことがこれから始まりますよ」

 ジョンが柔和な笑みを浮かべて手で屋敷に入るように促してくれる。

 エオノラは頷くと屋敷の中へと入っていった。

 しかしこの傷が癒えるには時間が掛かるだろうな、と頭の隅で思うのだった。

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