第4話 婚約解消と心の傷1


 ◇


 エオノラは書斎で机の上に置かれた裸石ルースを眺めていた。指紋がつかないよう白の手袋をつけてクッションの上に載ったそれを手に取る。

 運ばれてきたのはペリドットで、研磨された後に形を整えられて美しい輝きを放っている。


 記録書によれば三年前に採掘されて加工されたらしい。耳を澄ませるとペリドットからは穏やかな音が聞こえる。

(音的に北方の鉱山で採掘されたもので間違いなさそう。……これといって怒りも憎しみも感じないわ)

 石は種類によって鈴や竪琴、横笛など楽器のような音を出す。基本的にその音は採掘された地域に起因する。


 生きものに感情があるように石にもまた、感情のようなものが存在する。

 不思議なことに宝石や鉱物石にのみそういった音が聞こえ、石たちは音に高低差を出していろいろなことをエオノラに伝えてくれる。特に、エオノラが石に触れて意識を集中して強く語りかけると、石たちははっきりとした言葉を伝えてくれる。


 フォーサイス伯爵家は王宮で働く傍ら、宝石商や骨董品の宝飾品の取引を行っている。普段は専属の鑑定士を使って本物かどうかを見極めるが、たまにエオノラにも頼まれることがある。

 それは主にいわくつきの代物で、呪われていないかどうかを調べるというものだ。


 魔術師が数多く存在した遙か昔ならいざ知らず、この時代に魔術や呪術を使える人間は大変貴重だ。

 ペリドットをもとの位置に戻して蓋をしていると丁度誰かが部屋に入ってきた。後ろを振り返ると、さらさらとした金茶の髪に青色の瞳をしたエオノラの兄・ゼレクがいた。

「お兄様、お帰りなさい。平日に屋敷に戻ってくるなんて珍しいわね」


 ゼレクは王宮で宰相補佐をしているため非常に多忙だ。特にこの一年程は週末になってもほとんど帰ってこない。会えない日より屋敷に帰ってきた日を数えた方が早いくらいだ。

「ただいまエオノラ。王宮暮らしをせずにたまには我が家に帰らないとね」

「帰ってきてくれて嬉しい。あと、頼まれていたペリドットの鑑定だけど、これは呪われていないわ。以前の持ち主たちに立て続けに不幸が起きたのは単なる偶然よ」

 ゼレクは「そうか」と言って頷くと、きっちりとした正装に疲れたのか上着を脱いだ。続いて物憂げな表情になると椅子を引いて腰を下ろす。



「実は今日の仕事は休んでいたんだ。それで、ついさっきまでキッフェン伯爵と会っていた」

「えっ……」

 たちまちエオノラの表情が曇った。

 数日前の誕生日パーティーで化粧室を飛び出した時、ゼレクがそれを見ていたらしい。そして彼は化粧室の中の様子を確認してしまった。

 怒り狂うゼレクはリックとアリアの二人に罵声を浴びせながら屋敷から叩きだし、さらに二度と敷居を跨がせないと招待客の前で宣言した。

(あの日以来、お兄様は私に何も言ってはこなかったけど。キッフェン伯爵と今後についてきちんと話し合いを行っていたのね)

 当然と言えば当然のことだ。


 エオノラがちらりとゼレクの様子を窺うと、彼は小さく溜め息を吐きながら前髪を掻き上げた。

「キッフェン伯爵から謝罪と婚約解消を申し込まれた。今回のことでエオノラに悪い噂が流れないように立ち回ってくれるそうだ」

 水面下で進めていた二人の婚約は誕生日パーティーで発表する予定だった。よって、ここで婚約が解消されても社交界への影響はない。とはいっても、エオノラとリックが婚約していたことはある程度周知されているので、表向き影響がないだけで裏で噂が立つことは必至だ。

「……そう。分かったわ」

 エオノラは努めて冷静に答えるものの、胸の痛みを感じて堪らず手で押さえた。


 もうリックと関わりがないと思うと胸が空く――そのはずなのに裏切られたことによる悲哀の方が増していく。その上エオノラの心境を複雑にさせるのは、相手が妹同然に可愛がっていたアリアだということだ。

 アリアは男爵家の一人娘で幼くして母親を亡くしている。父であるホルスト男爵は織物加工業を生業としている人で、アリアが幼い頃から材料の買い付けで外国へと出かけていて忙しい。


 男爵が不在の際は彼女が寂しくないよう、エオノラが屋敷へ呼び寄せて相手をしていた。

 エオノラの場合、両親は健在で自身が十歳になるまで一緒に過ごしていた。しかし、父が王宮の仕事で隣国へ行くことになり、それからは両親と離れて暮らしている。

 二人に会えなくて寂しいと思うことは何度もあった。しかし、エオノラの側にはゼレクがいた。パブリックスクール時代も長期休暇には必ず帰ってきてくれたし、宰相補佐の職に就いてからも屋敷から王宮へ通ってくれていた。

 そのお陰でエオノラは心の底から寂しいと感じたことは一度もなかった。

 対して、アリアには側にいてくれる家族が誰もいない。使用人の数も少なく、長年仕えている年配者ばかりだ。


 もしかするとアリアは愛情に飢えていたところでリックと出会い、優しくされて好意を抱いてしまったのかもしれない。

(リックは最初から私に冷たかったから、私のことは好きじゃなかったのね。そういえば、彼が一度うちに遊びに来た時、丁度アリアも遊びに来ていた。もしかするとあの時恋に落ちてしまったのかも……)

 今さらながらどういう経緯で二人が恋愛関係へと発展したのかを考えてみる。

 リックとアリアにはもともと接点がなかった。もしあるとすれば、エオノラがリックにアリアを紹介した時が一番可能性として高い。



 そしてアリアはエオノラと背格好は似ていても顔立ちはまるで違う。彼女はあどけなさが残る可愛らしい顔立ちで、くるんと上を向いた睫毛やくりくりとした灰色の瞳は魅力的だ。そして話をすればころころと表情を変えるので一緒にいて飽きない。


(それに比べて私は……)

 エオノラは自身について振り返ってみる。顔立ちはそれなりに整ってはいるが、父親譲りの涼しげな青紫の瞳は、悪く言えば相手にきつい印象を与える。会話をしても機転の利いた返しはできないし、愛嬌のある態度も取れない。


 二人の中で一人を選ぶなら、絶対に会話をして楽しい方を選ぶだろう。

 答えを導きだして納得がいったエオノラは額に手を当てて溜め息を吐く。

 ふと、二人の抱擁が脳裏に浮かび上がった。

 慌てて頭を振って情景を霧散させたが、遅かった。胸の奥がずきずきと痛み、エオノラは眉根をぴくりと動かしてしまう。


 するとゼレクが察したのか、優しくエオノラの手を握ってくれた。

「今回のことは残念だった。俺の見る目がなくてエオノラを傷つけてしまった。すまない」

「いいえ、お兄様。お兄様のせいじゃないから謝らないで」

 キッフェン伯爵から婚約の申し込みがあった時、父に後押しをしたのはゼレクだった。パブリックスクール時代に同じ寮の後輩としてリックとはそれなりに面識があり、ある程度人となりを知っていたのだ。


「良いやつだと思ってたのに。まさかあそこまで軽薄な馬鹿だったとは……」

 普段、温厚な兄が静かに怒りの炎を燃やしている。

 エオノラはなんと言葉を掛けて良いか分からず尻込みしていると、怒りの収まらないゼレクが不穏なことを口にした。

「キッフェン伯爵には悪いが暴漢を使ってリックへ闇討ちするというのはどうだろうか。それとも泥酔させて全裸にしてから街の広場の柱にくくりつけてやろうか」

 真顔で、しかもドスの利いた声で呟くゼレクにエオノラは慌てて口を開いた。

「物騒なこと言わないで! 私に魅力がなかったの。それにこれから社交界で活動するんだからまだ出会いはあるはずよ」

 宥めるとゼレクは少し困った表情を浮かべた。



 フォーサイス家は他の伯爵と比べてその歴史は長く、由緒正しい家柄だ。また、父もゼレクも王宮でそれなりの職に就き、領地経営も安定しているので裕福。他の貴族たちからすれば繋がりが欲しくて仕方がない。

 エオノラが社交界にデビューすれば家柄目当てで取り入ろうとしてくる輩が数多く現れる。それを危惧して婚約者を作ったのに、とどのつまり無駄に終わってしまった。


 そして、繋がりが欲しい貴族たちと同程度にはフォーサイス家を良く思っていない貴族たちも存在する。今回の件であらぬ噂を立て、陥れようとする者も出てくるだろう。

「心配してくれるのはありがたいけど、私なら大丈夫よ。アリアの方が事実を知って困惑していたわ」

 すると不服そうにゼレクが気色ばんだ。


「アリアもアリアだ。知らなかったとは言え、エオノラの相手に現を抜かすなんて。それに頻繁にエオノラが会いに行っていたんだから、普通どういう関係なのか気づくだろう」

「あの子は純粋なの。婚約していることを秘密にしていたんだから分かるはずないわ。それに婚約はなかったことになったんだから、この話はもうおしまい」

 エオノラが手を叩いて話を終わらせたところで丁度、執事のジョンが書斎にやって来た。


「ゼレク様、エオノラ様。ホルスト男爵がお越しになりましたがいかがなさいましょう?」

 ホルスト男爵と聞いて、思わず肩が揺れてしまう。

 エオノラは生唾を飲み込むと努めて明るい声で言った。

「すぐに応接室へ案内してあげて。そうだった。このペリドットは叔父様からの依頼だったのよ」

 白の手袋を脱いでペリドットの箱を手に取ると、中身を確認して蓋を閉じる。それをジョンに渡すと、彼は銀盆に載せて運んでいった。


「さあ、お兄様行きましょう」

 エオノラは不機嫌なゼレクの手を引くとホルスト男爵のいる応接室へと向かった。

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