第3話 最悪な誕生日3


 スカートの裾を上げて雑草を除けながら音のする方へ進んでいく。屋敷の外廊下を発見したのでそこを歩いて行くと徐々に目の前の景色が変わっていった。


 先程まで外壁のヒビや柱に絡まっていたツタなどの荒廃ぶりが顕著だったにも拘らず、今はそれがまったくない。掃除が行き届いているとは言えないが、小綺麗にされているのは確かだ。そして廊下の角を曲がると、遂には美しい庭園が現れた。


 綺麗に刈られた樹木と数種類のバラの樹が整然と並んでいる。エオノラは庭園に足を運ぶと中を見て回った。

 今は早春でバラの花が咲き始めるのはもう少し先。しかし、この庭園のバラの樹には花がついていて、どの花もとても美しく芳醇な香りを放っていた。

(この時期にバラを咲かせるのはとても難しいはず。庭師が丹精込めて育てたバラだって一目見て分かるわ)

 バラの美しさに圧倒されたエオノラは手を合わせて暫くその場に佇んだ。一頻りバラを堪能し終わると、ふとあることに気がついた。


「そういえば、ここに来るまで誰にも会わなかったわ」

 これだけ大きな屋敷なら誰かと鉢合わせしてもおかしくない。そのはずなのに誰にも遭遇しなかった。

 生活音が聞こえてこないか耳を澄ませてみるも、辺りはしんと静まり返っている。聞こえてくるのは石の音だけだ。

 途切れ途切れだった微かな音は、囁き声ほどの大きさで助けを求めている。

(これまで聞いたことがないくらい悲痛な音ね)

 人気がないのも気になるが、一先ず石のもとへ向かわなければ。


 いてもたってもいられなくなったエオノラが歩き出そうとすると、突然何かが目の前を横切った。

「きゃあっ!?」

 茂みから飛び出した黒い影に驚いてエオノラは悲鳴を上げる。

 敏捷な動きですぐに向かい側の茂みの中へと隠れたのでそれが何かは分からなかった。

 エオノラは首を傾げて様子を窺うと、茂みの奥から琥珀色の双眸がじっとこちらを睨んでいる。さらには犬の唸り声のようなものまで響いてきた。

(もしかして侯爵は番犬を飼っているの?)

 小さい頃、領内で大型犬を飼っていたので扱いには慣れている。

「おいで、怖くないわよ」

 優しい声色で話しかけるも、相手は唸り声を上げたままぱっと飛び出して姿を現した。



 触りたくなるようなふさふさの尻尾とピンと立つ三角の耳。毛並みは青みがかった白銀の珍しい色だが艶やかで美しい――が、それはどこからどうみても獰猛な狼だった。

「……っ!! まさか犬じゃなくて狼を飼っているなんて!」

 予期せぬ展開にエオノラは周章狼狽する。

 威嚇してこちらを睨めつけてくる狼は歯を剥き出しにしてどうやっていたぶってやろうかと彷徨きながら、徐々に間合いを詰めてくる。

「わ、私を食べても美味しくないわ」

 後ずさりしながら両手を小さく挙げると、落ち着くように促した。


「勝手に侵入してごめんなさい。私は泥棒に入ったわけではないし、度胸試しをしに来たわけでもないのよ。バラの香りに誘われて入ってきてしまったの」

 石の音に誘われたが嘘はついていない。

 狼は人間の言葉が分かるのか『それで?』というように胡乱げな視線をこちらに投げかけてくる。


「こ、この庭園はとっても素敵だわ。こんな時期にバラを見るのは初めて。ラヴァループス侯爵の庭師は腕が良いと思うわ。だって花が生き生きしているし、愛情が感じられるもの。一度で良いから会ってみたい」

 庭園を絶賛したところで意味がないことは分かっているが、妙案は思い浮かばず、それが今の正直な感想だった。

(このままだと別の意味で二度と家に帰れないかもしれないわ。一体どうすれば良いの)

 額に珠のような汗をかいて逡巡していると、外から馬車の車輪音が聞こえてくる。



 この辺りの道を使う人は誰もいない。何故なら死神屋敷へ繋がっているだけで、その先には人が住める屋敷はない。あとは野原が広がっているだけだ。

 エオノラはごくりと生唾を飲み込んだ。

(もしかして正門が開いていたのは侯爵が出かけていたから? いつもは屋敷に引き籠もっているはずなのに!?)

 ラヴァループス侯爵は、噂では杖なしでは歩けない老人だと言われている。醜い顔を恥じ、他人を呪ってしまうことから滅多に人前に現れない。そのため誰もその顔を知らず、王族との謁見ですら仮面を付けて対応するのだという。

 だが、いくら人を呪わないように配慮しているとはいえ、無断で屋敷に侵入した人間に与える優しさはないかもしれない。


 エオノラは狼が現れた時よりも背筋に冷たいものを感じた。

(屋敷を出るにはどうすれば良いの? 侯爵に会うわけにもいかないからどこかには隠れないと。でも狼が侯爵に私の居場所を知らせるかもしれない。嗚呼、だけど石のことも気になるわ)

 このまま庭園の奥へと進むと、目的の石がある。助けを求めていることから救ってあげたいという気持ちはある。

 しかし遂行すれば屋敷に侵入したことが侯爵にバレて二度と家には帰れないだろう。

 あたふたしていると御者のかけ声と共に馬の鳴き声が響いた。


 馬車が玄関前で停止したらしい。

「どうすればっ……!!」

 目の前には狼、そして唯一の出口には侯爵の馬車。

 絶体絶命のピンチに頭が真っ白になっていると、ふいに狼がスカートの裾を引っ張った。

 エオノラは声なき悲鳴を上げたが、狼が噛みついてくることはなかった。

 それどころかくるりと背を向けて「ついてこい、こっちだ」と言うようにこちらを一瞥してくる。


 狼が前を向いて歩き出したので、慌ててエオノラは後を追う。

 時折、エオノラがついてきているか窺うようにちらりと視線を投げてくるが狼が襲ってくる気配はなかった。

 そうこうしているうちに庭園の隅まで辿り着く。



 樹木の後ろにある鉄柵のうち一本を狼が咥えて持ち上げるとそれはするりと抜けた。空いた幅は小柄な人間なら通れるようになっている。

(もしかして助けてくれたの?)

 まさかの行動に理解が追いつかないエオノラは面食らう。しかし、これ以上ここで考えを巡らせても仕方がなかった。

「……あの、どうもありがとう」


 エオノラはお礼を言って柵をくぐり抜けると道に出た。

 鉄柵を地面に置いた狼はエオノラが敷地外に出たことを見届けると、琥珀色の目を細める。やがてこちらに背を向けると、屋敷の方へと駆けていった。

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