第26話 廉直な濡れ鼠
バタンと扉が閉まり、室内には青年の歩みだけが
あれ? わたし、どうして…………。
途切れていた意識を繋ぎ合わせるため、辺りを見回すと受付机に青年が小さな小瓶をコツンと並べているのに目が留まる。
あ、薬草をお求めになっていたんだわ。早くお渡ししなきゃ。お早く帰って頂かないと。何をお求めだったか…………確か、
「ち、血止め草ですが、どれほど必要ですか?」
ようやっと玄関から離れ、受付横に取り付けられたウェスタン扉を通り、受付机を挟んで青年の前に移動する。その間、不自然に上ずってしまった声で分量を
「この瓶に頼めるか」
三つ目の小瓶をコトリと置きながら答えた。コルクで栓がされた瓶は小さく透明で、女性の掌でも十分握り込めるくらいの大きさだ。青年は小瓶一つ一つのコルクを親指と人差し指で摘まむようにして開けていく。自然と女性の目線が手元に向かい、そこで随分と派手な爪をしていることを知る。
男の人なのに、
「気になるか? 弓を射るから、爪がよく割れる。その補強用で右手だけだ」
女性の目線から青年は爪のことだろうとあたりを付け、先に答え始めた。
「色が違うのは、まあ
そう言い置き
女性は薬草類が収められた背後のガラス戸棚を開けると、大小様々な瓶や箱に貼られたラベルから血止め草と言う単語を探す。棚を開け、閉めては隣を開けるを繰り返した。しかし、いくら見直そうとも、目的の文字が無い。
「すいません。裏の方でした。取りに行きますので、お掛けになってお待ちください」
待合椅子を指さし告げる。しかし、女性が端から順に戸棚を開ける様子を黙って眺めていた青年は、すっと目を細め棚のある場所を指さす。
「左から二つ目の棚。上から四段目、右から三つのそれだろう」
え? そんなところにあったかしら?
見落としたのかと示された場所を見ると、両手で抱えるほどの大きさの瓶がある。ガラス戸を開きラベルによく目を通す。だが、
「あの…………血止め草とは書いてませんが」
そうなのだ。ラベルには、血止め草とは書かれていない。あるのは、
「何を言っている。血止め草は、生薬名として
ふっと笑みを浮かべ、青年は
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雨がそぼ降る
「昨日の午前中まで居たのかな。のんびりしすぎちゃったねぇ」
柔らかな声と共にふふっと含み笑いを浮かべる。今度は軽く、すんと鼻を鳴らす。次第に、目が
「…………
腕組みをするなり片腕を立て指先に横髪をクルクル巻き付け引いて、また巻き付け引いてと
「あーあ。ぃやぁーだなぁー。もうなんか拾ってる」
誰も聞かない独り言をぽつぽつ落とす。傘もささず立つその男は、不自然なほどに
「早くして欲しいよね」
不機嫌を隠さない声色でもう一言。
「ほんと、
誰も聞かない独り言を、ぼっとりと落とした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その返しは随分と大きな威力を持っていた。唯の言葉であるが、彼女にとっては非常に大きな意味を持っていた。ひゅっと息を吸い込んだのが何よりの証拠。看護婦に不釣り合いなヒールが鳴ったのも。袖の下で金物が鳴ったのも。
「ふん、どうした。取り繕わなくていいのか?」
青年が外套の留め金を指先で弾くように外したことで漸くその身なりが
「…………何が、ですか?」
低く、なまめかしい声の問い。青年は外套を皺無く畳み、左腕に抱え持つと、
「お前の猿芝居以外何がある」
ッダン!
床を騒がしく踏み切るとその一飛びのままに机に乗り上がり青年に襲い掛かる。右の掌を握り込み拳を相手に突き付けた途端、袖口の布を突き破り三又の
「手荒いな。
青年は頭を後ろに反らし、下から迫りくる爪を紙一重で躱す。しかし、まだ女の間合い内だ。
「仕事を終えて帰るところだったのに、運が無い人ですね。貴方」
女は空振りした右腕を引き戻し、二撃目を放つため構えると、曝け出された喉元に爪先を向ける。その時、全く聞こえなかった外の雨音が急に強さを増し、屋内でもまるで滝つぼの底にいるような
「
騒音の中でさえ、はっきりと聞こえる相手の声に違和感を感じ損ねてしまう。
あと少しで咽喉をかき切れる!
腰の捻りを乗せ一思いに腕を
何よこれ、振動で末端から痺れて力が抜ける⁈
爪が前に進むほどにより強い力がかかり、女は右腕から引き込まれるように机から前に引きずり落とされる。ついには鉤爪が床板に振り下ろされ、ガンッと木目に深々と刺さる。女は両膝を床につき、刺さった鉤爪を抜こうとする。なれども、一向に抜けない。それどころか、さらに沈んでいく。あまりの
おかしいわ。こんなのまともじゃない――――――!
ヒヤッと、肌より冷たい何かが膝に触れた。
え?
視線を下に向けると、ついた両膝は浅い水たまりの中にあった。屋内にも関わらず、床一面は靴底が浸る深さの水たまりだった。なおも激しい雨音が満たす中、女はとうとう自身が置かれた事態に気づき、失態を犯したことを悟った。
雨が降りしきるのは、外ではなくここだった。床一杯の
頬を伝う雨に唇を噛むと青年をねめつける。
青年は女の視線など意にも介さず、受付の横を通り過ぎ通路を進んで行く。足取りに迷いは無く、何処に何があるかをすでに知っているようだ。
数分とも言えないほどで、ヒタヒタと足音が戻ってくる。自身の方へ来るのだと思った女は力が入らない体をわずかにこわばらせた。しかし、その足はウェスタン扉を抜け受付内で止まった。何をという疑問はすぐに
女は信じられない思いで背後を首だけで振り向く。その目には、大瓶の隣に天秤と箱に収められた分銅、薬さじを並べる青年の姿が写った。
「何のつもりよ」
「俺は小連翹を買いに来た。だから、こうしている」
手際よく小連翹を測り手持ちの小瓶に移していく。
「……っは? 何よそれ」
同様の疑念をぶつけた。常識的に考えれば、自分を殺そうとした女を公共の治安維持組織に引き渡すのが買い物より優先度が高い。だが、青年は粉末と大差ない薬草を
「加護か神器を授かったからって、人を馬鹿にするのも
困惑するばかりだったのが
何のつもりなの! 奥に行ったなら、あれを見たのよね⁈ それでも、その態度なの⁈ 何よ、何なのよ‼ 神様の
「あたしを捕まえるのが野草のついでなら逃がしてくれてもいいでしょ! ねえ!」
青年は小瓶三つを満たし終えたのか、コルクを締め直し背負っていた打飼袋に収めると卓上に金貨を数枚置いた。
「あなた旅人でしょ? 尚更、関係ないじゃない。何であたしを捕まえるのよ」
受付内から出て、再び女の前に青年が立つ。女は止まない雨の中、立ち上がることすら出来ない。どうにか両腕を床に突っ張り、うつぶせるのを耐えているが、かくかくと肘が曲がり、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「見たんでしょ? あたしがしたこと」
「ああ。見たな。壮年の医者が一人に、看護婦が四人」
「ええ。殺したわ。仕事だもの」
女は、もうどうでもいいと投げやりに答えた。
「俺は、お前が五人殺そうが、これまで数十殺してようが、どうでもいい」
青年は片膝をつくと、女の胸倉を掴み目線を合わせる。
「
忌々し気に眉間に縦皺を刻む。瑠璃の瞳が鋭く細く
「何のためにここに来た! 何を彼ら、彼女らから聞き出した!」
既に分かり切っているであろう問いを強い口調で敢えて口にする。女は、あの喚きが嘘のように黙り込み、焦れた青年は
「黙秘を決め込むのは勝手だが、嘘も沈黙も無意味だぞ」
瞬間、全ての雨粒が静止する。水たまりの小さな水柱達も時が止まったように硬直し、室内は酷く静まり返っていた。呼吸音すら聞こえる無音だった。
「
青年の周りに中空に留まった水滴が集まり始める。次第に成長し、人の頭ほどの水玉を形成すると青年の目の前に留まった。
「お前の
女は俯いていた顔を上げ、透き通る球に写り込んだ自身の姿と丁度重なるように向こうに立つ青年を目にした。げっそりとした自分と、したり顔の相手。
私だって、私だって、あと少しで、もっと強くなれるのよ。あと少しなのよ。蔑んだ奴らを見返す力が手に入るのよ。なのに、それなのに。あんたなんかに―――。
悔しさのあまり嚙み千切った唇の端から血が流れ、顎を伝いぽちょんぽちょんと床一面の水たまりに落ちる。
憎い。妬ましい。羨ましい。
私を、蔑む世界なんて要らない。私は、あの方が私を見てくれる、それだけでいいの。あの方に必要とされたいの。そのためなら、何だって捧げたいのよ。
女の心からの
🔴語句メモ goo国語辞書より引用(小学館大辞泉)
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🔴そぼ降る:雨がしとしと降る。古くは「そほふる」とも。
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🔴含み笑い:口をとじ、声を出さないで笑うこと。
🔴目が
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🔴ぼっとり:重いものが静かに落ちる様。
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🔴しとど:雨や汗・涙などで、ひどくぬれるさま。びっしょり。
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🔴濡れ
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