第24話 寄る辺の無い子

の無い子



 生家せいか針葉樹しんようじゅが生い茂る北国にありました。いえ、正しくありませんでした。正確に言えば、国はもう無かったのです。冷酷れいこく無慈悲むじひ代名詞だいめいしとして後世こうせいに伝わる、ある王子の所為で世界中から恨まれて滅ぼされてしまいました。なので、厳密に言うと生家は亡国の跡地にあったと言うのが正しいのです。跡地と言っても、廃墟となった都とかではなく、山深い僻地へきちでしたが。御近所ごきんじょづきあいとは無縁むえんのある意味気楽きらくな生活でした。

 短い夏が終わり、さらにひと時の秋が来て、長い冬が訪れる。その家が彼の世界だったのです。石造りの一軒家に父親と祖母と自分。三人で質素しっそに暮らしていました。父親は時たま数か月間家を空けては、外の世界の様々な本や小物を持ち帰りました。殆どは様々な物語が語られる本でした。読書以外の娯楽ごらくが無いダレンにとっては、一番の楽しみだったのです。ですから、父親が家を空けると、次はどんな物語が読めるのかと毎日楽しみに過ごしていました。

 秋口あきぐちのあの日も普段と同じように長旅から帰ったばかりの親父をねぎらうためにと、朝から近くの湖で釣りをしていました。思いのほか魚の食いつきが悪く夕方までかけて、やっとの思いで鱘魚チョウザメ一匹を釣りあげました。自身の身の丈とほとんど変わらない獲物を背負いウキウキした足取りで雪が降りだしそうな鈍い雲の下を歩いたのです。風が起こす木々のざわめきを背に森をぬけ、ぽっかりと開けた平原にぽつんとたたずむ石造りの家を目指します。煙突から昇る白い煙は夕日で黄丹おうにめられています。それを見たダレンは、待ちくたびれて先に火を起こしているのだろうと歩みを早めます。きっと今日の釣果ちょうかを見たらばあちゃんは大喜びだろうなとはやる気持ちのまま裏玄関を開き、ただいま!っといつも以上に大きく言ったのです。


 でも…………その声に返ってきたのは、抑揚よくように富んだ高くも低くも聞こえる声。


「お帰りなさい。待ってましたよ」


 直前まで舞踏会ぶとうかいに居たかのような真っ黒な燕尾服えんびふくに山奥には不釣り合いなエナメル靴。首元には真っ白な蝶ネクタイ。しなやかな空気をまといながらも、かっちりと骨が立つ。言うなれば、蝙蝠こうもりのような男。見知らぬその男が驕慢きょうまんな王様の如く椅子に座っていたのです。いえいえ、お世辞にも座っているとは言えません。足首をクロスさせた両足を食卓に乗せ、干した無花果いちじくを味気なさそうに食し、ふんぞり返っていたのです。


「すっごい大きな魚ですねぇ。今晩はごちそうだったのに、残念ですねぇ」


 男は伸びをするようにゆっくりと片足づつ床に下ろすと再び足を組み、頬杖をつき、ダレンをみつめてきたのです。そして暖炉の火に照らされ、ぬらぬらと光るストレートチップのつま先は意味深にピンっと伸ばされます。何かを指さすようなつま先。そこでようやく、音と言うにはかすれ過ぎた声に気づいたのです。しわがれたうめき声に引き寄せられるままに目を落とし、それまで大事に背負っていたチョウザメもベタンと落としてしまいました。無理もないことです。なぜなら、ダレンがよく知る老婆ろうばが雪の上に折れ落ちた枯れ枝のように横たわっていたのですから。

 拍動はくどうに従い首元からドクンドクンと流れる血と対照的な真っ青な顔。もはや助かる見込みがないほどに時間がたったのだと足元まで迫った血だまりと共にダレンに告げるのです。


「いけませんねぇ。床に落としてはいけませんよ。何よりも新鮮しんせんが一番。干からびてしまったらもったいない」


 こと切れそうな老婆の上に、食べかけの無花果を放り投げました。勢いのままに転げ落ち血だまりの上に落ちると、うるおいを取り戻すように果肉が血を吸い上げて赤く色づき始めます。


皺皺しわしわ乾物かんぶつなんてもってのほか。ところで、君の御婆さんは随分とみにくく、おや、失敬しっけい。言いなおしましょう。美味しくなさそうな干物ひものみたいですね」


 呑みこむにはつらすぎる現実は喉を焼けただれさせ、みるみる虹彩こうさいうるませ、果肉が血をしたたらせる頃には、下瞼したまぶたの中心から激情をつゆとして零し始めます。


 幸福な世界から締め出されたダレンを前に、瑠璃蝶々るりちょうちょうの香りをまとった男は心底楽し気に目を細めるばかりでした。



―――――――――――――――――――――――――――――――――



「う゛ぅっ」


 身を守るため、体をこれ以上ないくらい丸め、両腕の間に頭を入れ、舌を噛まないように歯を食いしばる。それでも腕や背中、足が打撃を受けるたびに痛みが口の端から漏れ出す。


「どうだ! いてぇかッ! 顔に物ぶつけやがって! さっきの威勢はどうしたよぉ! なあ!」


 男は、言葉の合間にご丁寧に蹴りを食らわせる。顔は真っ赤に染まり、目は血走り、苛立ちのままに蹴りを入れ続ける。小さな体は、絶え間ない暴力にさらされ体中が炎症で熱を持つ。


「やめなさい! 子供相手に恥ずかしくないの⁉」


 ファビアは必死に男を止めようと喉が裂けるほどの叫声きょうせいを上げる。


「お前は黙ってろ!」


 その声もうとましいと激怒した男は、声の方へ振り向きざまに怒鳴りつける。


「もうその辺でいいだろ。死んだら面倒だ」


「痛っててぇー…………待てよ。俺にも借りを返させろ」


 地下室の階段から二人の男が上がってきた。噛まれた手の甲をさする男は、なおも怒り散らす男を諫めようとする。対して、一緒になって憂さを晴らさんとするのは地下室で縛り上げた男。


 万事休ばんじきゅうすとしか言えない状況でも、ダレンは痛む腕を伸ばし床に散乱した花瓶の破片を掻き掴む。

 馬鹿にもほどがある。一時の感情に押されて、最低の悪手あくしゅを選んだ。分かってる。しょうもない。しょうもないにもほどがある。分かってんだ! でも、そうせずにはいられなかった!

 鋭利な破片が掌に食い込むのも構わずに握りしめる。許容範囲を超えた痛みを受けると痛覚が馬鹿になるらしく、じりじり痺れこそするが、もはや痛みは感じない。ゆっくりと身を起こし両手を床につく。腕や手は皮下出血で真っ青だった。その青さが血の気が引いた祖母の唇と同じ色だと気づいて、さらにプツンと自制の糸が切れる。


「まだ動けるのか。まあまあ丈夫じゃねえか」


 男は、ダレンの胸倉を掴み上げる。体が宙に浮き、首がきつく締まる。苦しくなる息とぶらぶらと揺れる心許こころもとない自分の足。普通の子供なら、こんな場面、大泣きして誰かが助けてくれるのを期待するだろう。涙を滝みたいに流して、痛いとか嫌だとかやめてとか喚くんだろう。


「俺も…………前は、そうだったよ」


「ああ? 何だ? 小さくて聞こえねぇよ。言いたいことがあんなら言って…………あ?」


「もう無力な子供のままは、許されないんだよ」


「おまえ、何で――――」


 小さな呟きを聞き取るため顔を近づけた男は、ダレンの首元のあるあとに気づく。何かに思い当たり、いぶかしむ一言が流れ出そうになったが、せきを切るには至らなかった。


 さっくりと男の左目に破片が突き刺さり、男の思考も打ち切られたのだ。


「俺のはもう無いんだよっ‼」


 血で染まる右手を握り込み左目に向けて思いっきり殴りつける。破片は水晶体にまで食い込み、激痛に襲われた男はダレンを投げ捨てる。ダレンの体は壁に打ち付けられ、その衝撃で壁掛け絵が落ちる。カバーのガラスが割れ、子供が描いたと思しき家族の肖像画は無残に裂けてしまった。グラグラと天地が回る中、そのことに僅かな心苦しさを感じていると一層怒気どきを増した男が仰向けに押し倒す。


「このクソガキィッ! よくもやってくれたなぁ゛‼」


 歯をむき出しに、狂ったように怒鳴り散らす男。左目は閉じられているが、たらたら流れる血に失明は確実だろうと薄ら笑みが浮かびそうになる。


「唾が飛ぶだろ。汚いな。おい、おっさん。さっさとどけよ」


 挑発がやめられない。分かってる。奴に出来なかったことをこいつにやって、自己満足じみた復讐ふくしゅうを俺はしようとしている。ジクジクんだ憎悪ぞうおを吐き出したいあまり、馬鹿を重ねてる。

 男の仲間たちは、度が過ぎないようにと説得しようとしているが無駄だろう。男は立場だなんだを教えてやると恩着おんきせがましく言うが、まるっきり殺意さついが隠せてない。今か今かと剣先が下に伸びる短剣を左目に突き付けられる。


 ダレンは首を掴む腕に爪を食いこませ睨み上げる。馬鹿を積み上げに上げて、子供じみた意地を突き通す。


「良い根性だ。将来有望な剣闘士に成れたかもな。だが」


 デカブツ野郎の目が再び独特の光沢を持つ。奴にそっくりのその目。まぶたをかっぴらき、一瞬も逃さぬとばかりにダレンの顔を覗き見る。


「目が見えないんじゃ無理な話だ」


 とうとう重力と頑強がんきょうな腕の力に従い短剣は真下に落ちてゆく。持ち主によく似た短剣は、初めて味わう眼球の味を楽しみによだれを零す心地だった。少年の目を濡らす涙の味を舌先に感じ、待ち構えるジューシーな味を夢想むそうし……………………途絶えた。


 嗚呼、しまった。恥ずべき在り方を、写してしまった。これでは、私は、きっと……………………。


「私は、お前が嫌いだな」


 切っ先から、細粒さいりゅう鉄粉てっぷんとなっていく。己の形が粉々こなごなと散りゆく。


 ゆるしを乞う、一声ひとこえいとまさえ無かった。


 面汚つらよごしは砂鉄さてつとなって、風に攫われた。真っ赤な夕日に焼かれ、火床ほどを夢見て。



🔴語句メモ goo国語辞書より引用(小学館大辞泉)

🔴:頼みとして身を寄せるところや人。また、頼みとする配偶者。

🔴生家せいか:その人の生まれた家。また、実家。さと。

🔴冷酷れいこく:思いやりがなくむごいこと。また、そのさま。

🔴無慈悲むじひ:思いやりの心がないこと。あわれみの心がないこと。また、そのさま。

🔴 代名詞だいめいし:品詞の一。自立語のうち、特定または一般の名称を用いず、人・事物・場所・方向などを直接に指示する語。人称代名詞・指示代名詞に大別される。そのものを典型的に表しているもの。

〇用例「うさぎ小屋は日本の住宅の―となった」

〈解説〉日本人の粗末な小さい家のこと。EC(ヨーロッパ共同体)が昭和54年(1979)に出した内部資料「対日経済戦略報告書」中の語rabbit hutchの訳語。以後、これが日本では自嘲をこめて流行語化した。

🔴後世こうせい:自分たちの生きている時代のあとに来る時代。のちの世。のちの世の人。子孫。

🔴僻地へきち:都会から遠く離れた土地。へんぴな土地。僻土。僻処。僻陬 へきすう 。

🔴無縁むえん:縁のないこと。関係のないこと。

🔴気楽きらく:心配や苦労がなく、のんびりとしていられること。また、そのさま。物事にこだわらないで、のんきなさま。

🔴質素しっそ:飾りけがないこと。質朴なこと。また、そのさま。生活などがぜいたくでなく、つつましくて倹約なこと。また、そのさま。

🔴娯楽ごらく:仕事や勉学の余暇にする遊びや楽しみ。また、楽しませること。

🔴秋口あきぐち:秋の初め。秋になったばかりのころ。

🔴鱘魚チョウザメ:チョウザメ目チョウザメ科の魚の総称。サメと名はつくが軟骨魚ではなくて硬骨魚。体は円筒形で吻 ふん が突き出ており、口の下に4本のひげが横に並ぶ。体には縦に5本、菱形の硬鱗こうりん の列がある。海産・淡水産どちらもあるが、産卵は淡水で行うため川を上る。すべて北半球に分布。卵の塩漬けはキャビアといい珍重される。チョウザメ科の海水魚。全長約1メートル。東北地方から北の北太平洋と日本海に分布。

🔴黄丹おうに:染め色の名。梔子くちなし紅花べにばなとで染めた赤みの多い黄色。皇太子のほうの色とされ、禁色きんじきの一つであった。おうだん。

🔴釣果ちょうか:魚釣りの成果。釣れた魚の量。また、その獲物。

🔴はやる:あせる。いさみたつ。

🔴抑揚よくよう:話すときの音声や文章などで、調子を上げたり下げたりすること。イントネーション。

🔴舞踏会ぶとうかい:社交のためのダンスを行う会。ダンスパーティー。

🔴燕尾服えんびふく:男子の正式礼服。色は黒で、上着の後ろの裾が長く、先がツバメの尾のように長く割れており、ズボンの側線を黒絹で縁どる。ネクタイは白の蝶 (ちょう) 結びとする。

🔴驕慢きょうまん:おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること。また、そのさま。

🔴無花果いちじく:クワ科の落葉高木。高さ約4メートル。葉は手のひら状に裂けていて、互生する。初夏、卵大の花嚢 (かのう) を生じ、内部に多数の雄花と雌花をつけるが、外からは見えない。熟すと暗紫色になり、甘く、生食のほかジャムなどにする。茎・葉は薬用。

🔴ふんぞり返る:上体を後ろへぐっとそらすようにする。また、尊大な態度をとる。

🔴ストレートチップ:靴のつま先に横に切り替え線の入った靴のこと。俗に「一文字」と呼ばれる。

🔴しわがれる:声がうるおいをなくし、かすれる。しゃがれる。

🔴うめき声:苦しみや痛みなどのために出す低い声。

🔴拍動はくどう:内臓器官の周期的な収縮運動。特に、心臓が律動的に収縮・弛緩しかんし、脈を打つこと。

🔴乾物かんぶつ:野菜・海藻・魚介類などを、保存できるように乾燥した食品。干ししいたけ・干瓢かんぴょう・昆布・するめ・煮干しなどの類。

🔴失敬しっけい:人と別れるときのあいさつや、失礼をわびるときにいう語。多く、男性が用いる。 人に対して礼を失した振る舞いをすること。また、そのさま。失礼。無礼。先に席を立つこと。また、人と別れること。他人のものを黙って自分のものにすること。盗むこと。

🔴干物ひもの:魚介類を干した食品。

🔴虹彩こうさい:眼球の血管膜の前端部で、角膜の後方にある環状の膜。色素に富み、その沈着状態によって、茶色や青色の眼になる。中央の瞳孔どうこうで開閉を行って光の量を調節する。

🔴瑠璃蝶々るりちょうちょう:ロベリア。瑠璃溝隠ルリミゾカクシ瑠璃蝶草ルリチョウソウ。花言葉は、「悪意」「謙遜」。花言葉の「悪意」は、ロベリアに毒性があることに由来するともいわれます。

🔴叫声きょうせい:叫び声。

🔴うとましい:好感がもてず遠ざけたい。いやである。いとわしい。

🔴借りを返す:他人から受けた恩に報いること。また、他人から受けた仕打ちに対して仕返しをすること。

🔴万事休ばんじきゅうす:もはや施す手段がなく、万策尽きる。もはやおしまいで、何をしてもだめだという場合に使う。

🔴悪手あくしゅ:囲碁・将棋などで、その場面で打つべきでないまずい手。

🔴心許こころもとない: 頼りなく不安で、心が落ち着かないさま。気がかりだ。

🔴いぶかしむ:不審に思う。

🔴せきを切る:川の流れが堰を壊してあふれでる。また転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。

🔴怒気どき:怒った気持ち。怒りを含んだようす。

🔴憎悪ぞうお:ひどくにくむこと。にくみ嫌うこと。

🔴恩着おんきせがましい:いかにも恩に着せるように厚かましい。

🔴殺意さつい:人を殺そうとする意志。

🔴頑強がんきょう:自分の態度や考えをかたくなに守って、外からの力に容易に屈しないさま。がっしりとして丈夫なさま。

🔴夢想むそう: 夢の中で思うこと。夢に見ること。 夢のようにあてもないことを想像すること。空想すること。

🔴細粒さいりゅう:細かい粒。

🔴鉄粉てっぷん:鉄の粉末。鉄のこな。

🔴ゆるし:罪・過失・無礼などをとがめないこと。容赦 ようしゃ赦免しゃめん

🔴いとま:用事のない時間。ひま。

🔴面汚つらよご:その人の属する社会や仲間の名誉を傷つけること。面目を失わせること。

🔴砂鉄さてつ:岩石中の磁鉄鉱やチタン鉄鉱などが岩石の崩壊によって流され、河床・湖底・海底などに堆積たいせきしたもの。鉄・チタンの原料。

🔴火床ほど:いろりの中央にある火をたくくぼんだ所。鍛造用の簡単な炉。

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