第20話 灯種の小鳥
日が差し込む窓辺で一人の女性がロッキングチェアに座っている。手元をせわしなく動かし、ここ数年の日課となっている編み物に精を出していた。彼女の名はエバ・オルバーン。7年前、銀行家のアロンソ・オルバーンと結婚し、初めのうちは
「はぁ……………………」
弱くため息を落とし、手元を止める。サイドテーブルの上には乱雑に置かれた数枚の紙と封を閉じたままの封筒、可愛らしい水色の毛糸玉が乗っている。その中で、薄灰色の書類に目を落とす。癖の強い字が並ぶ中で唯一色がついた文字に目を滑らせると、一際苦し気な顔をし目を逸らす。
「はぁぁぁ…………」
震えた今にも泣きだしそうなため息を零すと、必死に手元を動かす。彼女にとって、ひたすらに編み物を続けることが自分自身を守る唯一の方法なのだから仕方がない。
かかりつけの病院で三度目となる現実を突きつけられ、きっと大丈夫と言い聞かせたあの日々は何だったのかと主治医に掴みかかったのも、何も彼女が悪いわけではない。同様の患者を何人も診た医師もよく分かっている。
カチャカチャと編み進めながらも、あの日のことを思い返してしまう。家に帰り、二年前も、五年前も、口にした言葉を夫に告げるのは、身が引き裂かれるくらい苦痛だった。
ダメだった。
三度目となれば、一言で十分すぎるほど伝わる。血が滴るほど握りしめる両手を見れば、もう明らか。
彼はいつもの優しい笑みで
「君と出会って、結婚できたことで幸運を全て使ってしまったね。でも、それは間違いじゃ無かったと迷い無く言えるよ。僕の幸せは、君が居てこそなんだ。だから、どうか素敵な笑顔を見せてくれよ」
血に濡れる手を解かせ、一層小さくなった背中を抱きしめる。
私は彼の肩に顔を
神様、どうしてですか? 何故、こんなに素晴らしい人に、このような仕打ちをなさるのでしょう? 私も彼も熱心に祈りを捧げ、
なのに。
なのに…………どうして。
「この腕は、未だ暖かな息遣いを抱けずにいるのでしょう」
まろく膨らむ腹を撫でる。
机の上には、主治医の診断書数枚と教会へ向けた葬式の依頼封筒。診断書には、ミミズが這ったような字で【
薄っぺらな紙が重く母に成れぬ女にのしかかり続ける。
幾ら手を動かそうとも気を紛らわせられないと諦めると、エバは編みかけの小さなセーターと
カツンッ! カツッ、カツッ! カッカッガタッ!
エバを呼び戻す音がする。自身が座るロッキングチェアの隣の窓から。
ガラス窓は格子の木枠に四つのガラスがはめ込まれている。木とガラスの間にはわずかに隙間があるため、揺らすとたまに大きな音が鳴ってしまう。ガラスは水滴が水面に落ち
ゆっくりと身を乗り出し、窓の留め金を外し、開け放つ。
どうしてか、開けなければ、幸せが逃げてしまう。そんな
開け放たれた窓から、軽やかな歌声と共に、金の小鳥が一羽。サイドテーブルの紙の上に降りる。金の羽毛はこれでもかと日をちりばめ、灰色の紙を白く焦がし塗りつぶす。
神々しさに自然と涙が零れる。
小鳥はエバの大きなお腹の上に飛び乗ると頭の側面を寄せる。まるで赤子の息吹を感じようと耳を寄せるように。小さな眼の緩やかな瞬きは数秒を数時間にも感じさせ、エバを心地よい緊張感に浸し続けた。
頭を上げ頷く素振りを見せると上に飛び上がり、小さな翼をはためかせる。目がくらむほど輝くと金の羽毛が散り消え、小さな楕円の白い石だけが残る。石はエバが触れるとクルクルと高速回転を始め、止まると楕円球から真円球に姿を変える。それも単なる球体ではなく、複雑な格子で形成されている。その中心には真っ白な
エバは引き寄せられるように格子の隙間から指を伸ばし白い灯に触れる。灯は指を焦がすことなく、ただ人肌のような温かみだけを伝える。次第に、一切の混じりけが無い白がわずかに色づき、毛糸と全く同じベビーブルーに変わると、球体の全体が小さくなっていく。砂の一粒ほどになると膨らんだお腹の中にすり抜けていった。
目の前で起きた不思議な光景に圧倒されながらも、お腹を気遣い擦っていると、経験のない違和感を感じる。腹の内がくすぐったいようなお腹が鳴っているような初めての感覚が、何かの始まりを必死に伝えている。
エバは信じられない気持ちと傷だらけの期待感を持って声をかけた。
「こんにちは…………ご、ご機嫌いかが?」
なんとも母親らしくない他人行儀な言葉になってしまった。ずっと夢に見ていたのに、いざ目前にするとどうしていいか分からないものなのだ。
添える手に、ポコンっと返事が返る。
「うそ…………うそうそうそ! こんなことって! アロンソッ! アロンソッ!」
結婚式の日以来の明るい声でエバは夫を呼ぶ。
「どうしたんだ?」
階段の下から彼女の最愛の人の声がする。それもきっと二番目に愛する人になるのも遠くない。未だに腹から伝わる振動にそう確信した。
🔸用語メモ🔸
🔸
生まれながらに心を持たない病気。自己意識というものが存在しない自失状態で改善の報告は無い。亡心病を患った命は、生命維持に必要な栄養どころか、水ずらも摂取出来ないので、生後三日ほどで衰弱死する。
🔴語句メモ goo国語辞書より引用(小学館大辞泉)
🔴ロッキングチェア:脚の下部を弓形につなぎ、前後に揺り動かせるようにしたいす。揺りいす。
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🔴かかりつけ:いつもその医者に診察してもらっていること。
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