一編 白日にもゆる花

一章 奇傑姫

第1話 瞳鏡の女

瞳鏡ひかがみの女


 町から西に一日歩いたところ。日も出ない、早朝。バカでかい針葉樹しんようじゅが無秩序に並ぶ山は、朝霧に包まれ、3メートル先も見えない。呼吸をするたび、水が絞れそうな空気が肺を湿らす。


「こんなの聞いてない! 獣なんかじゃ無い!」


 普段は、静まりかえる山麓さんろくには、身の毛もよだつ咆哮ほうこう恐慌きょうこう状態の怒号どごう木霊こだまする。


「この化け物が! どんだけ切れば死ぬんだ⁉」


「ばかやろう! そんなんじゃ死なねぇよ! ここには、神器じんぎ加護かご持ちも居ねぇ! 早く逃げるべきだ!」


「まだぁ、死にだくない゛! かぞぐのもどにっ帰らせてぐれぇ!」


 意味のあった言葉も次第に、唯の音に変わってゆく。一人、また一人と声が消え、山麓に静寂が取り戻される。

 いや、未だに、粗い息が聞こえる。獣だと思っていた、怪物。そいつは、殺したむくろに興味を示さず、辺りを探っているようだ。当然か、生き物じゃない奴は、食物なぞ必要としない。

 魔生ましょう。闇を抱える心から生まれる怪物。こいつらを倒すには、神から授けられた聖なる力が必要だ。町で買えるような剣や弓じゃ役不足。傷を負わせても、殺すには至らない。

 哀れにも、この死地しちに送り込まれた奴隷たち。最年少の子供だけが、大木のうろに潜み、やり過ごそうとしていた。子供は両手で口を覆い、必死に声を抑えている。


 可哀想な孤児のダレン。声を我慢するため、食いしばった唇から血が滲んでしまう。食べる必要が無いとはいえ、魔生は、感覚器官が優れている個体が多い。血液一滴でも、十分かぎつける。


「グゥゥルル」


 四足の足音が、腐葉土が積み重なった柔らかい土を踏みしめる。時折、パキリと小枝の折れる音がするたび、ダレンは肩をびくつかせることしか出来ない。無理もない、子供には、あまりに強すぎる恐怖であろう。


 何で、どうしてこんな目に会ってるのか? 


 今更な自問自答が頭を占拠し、現実の認識もままならない。脇目もふらず、逃げ出すべきだが、それも出来ない。その思考も、何故? どうして? に阻まれる。荒波の海に翻弄ほんろうされる船の如く、ダレンの心は、自分の思い通りにならない。


(現状は、お前の所為だろうよ)


 内心の嵐が、突然吹き飛び、海面がいだ。


(君が奴隷なのは、君が、それに甘んじると、決めているからさ。安易な安定のために、を放棄しているからさ)


 数日前、言われたその言葉。数日前の自分は、それに酷く腹を立てた。だが、実際のところ、言葉の通りだった。逃げられないからと諦め、奴隷で居続けた結果、虫けらみたいに殺される。たった数時間しか話さなかったのに、人の心にずけずけ入り込むガサツな女は、確かに本質を突いたわけだ。

 そこで、はたと、思い至った。「お前の所為」とは、言い換えれば、「お前次第」では、無いか? 


(自分を救えるのは、自分だけだよ、少年)


 子供は、震えが収まり、ある一つの考えに心を支配される。その考えは、絶望的な状況では、ことさら輝き、瞳にも灯る。


 ガリゴリ、ガリゴリ。怪物が虚に爪を立て、削り割る。


 それまでの怯えようが嘘のように、子供は、落ち着きを取り戻していた。


「自分の所為で死ぬなら、自分次第で生きることもある……まだ、死ぬとは決まってない。俺は、まだ生きていたいんだ!」


 ダレンは、持っていた矢を、目前に迫っていたぎょろついた目に突き刺した。


「ギャァァッァ!」


 魔生は、後ろに飛び上がりどしんと地面を揺らした。


 その隙をついて虚から飛び出し、川へ走り出す。心の焦りに引きずられるように足を懸命に動かす。あと少しで、川へ飛び込める。そう安堵した瞬間、足に違和感を感じ、転げてしまう。酷く打った膝と肘が痛む。ひりつく手のひらをついて、振り返ると足首に黒い人の手が回っている。そこでようやく、魔生の全貌を目にし、固まる。魔生の容貌は、巨大な人の様にも見え、犬のようにも見えた。顔は、犬そのもの。尖った鼻先、頭の上に立ち上がった耳、人には無い発達した犬歯。しかし、胴体から手足に至るまで、尻尾以外は少し爪の長い人間だった。大きく窪んだ目元のその洞窟奥に黄色く光る眼がダレンを凝視している。

 続いて、掴まれた足首がひんやりと冷たいことに気付く。よく見ると黒い手は血にまみれ、その血がダレンの足を濡らしていた。


「嫌だ! 離せ! 化け物!」


 恐怖に捕らわれたダレンは、声を上げ矢筒から矢を取り、黒い手に振りかぶる。寸でのところで、体が宙に浮き地面にたたきつけられる。魔生は、足首を掴んでいる手を上下に振り、ダレンの小さい体を河原の石に叩きつける。


「グァッグァッグァッグァッ」


 耳まで裂けた口で、アヒルのような歪な笑い声を吐き出す。

 痛みが募るにつれ、再び自分の心が嵐に飲み込まれそうになる。


 こんなふざけた奴に、殺されるのか? 確かに、誉められた性根じゃない。人に言えないこともやらかした。だからって、ぼろ雑巾みたいに死ぬなんて、


「っい、やっだ!」


 上に上がった瞬間を狙い、腹筋に力を込め、上半身を折り曲げる。勢いのまま、黒い腕に噛みつく。舌に硬い毛の感触と、他の奴隷たちの血の味が広がった。

魔生は手を目線の位置に持ってくると、首を直角に曲げ、ダレンの様子を伺う。


「ゲッェゲッェゲッェゲッェゲッェゲッェ!」


 必死に抵抗する様子が可笑しいのか、山に響くほど大きな声で笑い出す。


 胸がはちきれんばかりの悔しさを、感じていた。

 人が必死になってんのを、わらいやがって。ちくちょう。ちくしょう。

 目尻からあふれた涙が、頬を伝う。噛みついた口の隙間から流れ込み、血の味から、塩の味に変わる。


 その時、何の前触れもなく、空気が変わった。正しく、空気が変わった。湿り気を帯びたはずのまとわりつく重たさが、無くなった。指先から凍るほどの寒気も引いて、何故だか、暖かい。


「いやに下品な声で笑ってんじゃん。そんなに面白いなら、あたしにも教えてくれよ」


 気付いた時には、体が地面に向かって落ちていた。


「ギャァァッァ!」


 魔生は、片腕を失い転げ回っている。


「なるほど、確かに面白い。あんたが叫ぶさまは、やけに無様で面白い」


 地面に打ち付けられた痛みに耐え、切り落とした張本人を見上げる。


「おい! あんた! 逃げた方が良い! あれは、魔生だ! その辺の武器じゃ太刀打ちできな……い。あんた」


「やあ! この前ぶりだね! 少年君。心配には、及ばない。こんなんは、あたしの日課みたいなもんだから」


 涼しい顔でそう言うと、女は、片刃かたばの真っ白な剣を構えた。


 忘れもしない。磨き上げた鏡の瞳に、真っ赤な濃紅の髪。そして、どうしてか、この女からは、お日様の香りがした。



🔸用語メモ🔸

🔸魔生ましょう

闇を抱える心から生まれる怪物。食物を必要とせず、発達した感覚器官を有する。倒すには、神器じんぎ加護かごが必須で、これらは神から授けられるもの。

🔹キャラクターメモ🔹

🔹ダレン

奴隷の少年。ダレンを含め、奴隷たちは、獣退治のためにこの場に送られていた。

🔹鏡瞳かがみひの女

鏡の瞳と濃紅の髪の女。白い片刃の剣を持つ。以前にダレンは、会ったことがあるようだ。

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