## Track 2. Monster (Yodogawa Mashup)

 私、島本遥は仕事の最中、ふと思う。

 悪い予感に限って当たる。

 それは確かに。

 でもなんで?

 良い予感、どこへ消えた?

 これはけっこう、考える余地がありそうな予感。

 考え事をするのは好き。何も使わずにすぐ始められる遊びだから。勤務時間の中でするのはもっと好き。慌ただしい喧騒の中で、私だけが自由でいられるから。

 あの頃みたいに。

 あの頃?

 私には、懐かしむ過去などなかったはずだ。


「島本さん……? 忙しいビジーですか?」

 耳につけたインカムからの声にはっとする。

「ごめんごめん、なんでもない。三十秒で着くから」


 ――島本さん、実は、また。

 ――また?

 ――はい、『DJモンスター』が現れました。


 そんなやりとりの最中だったことを思い出す。

 私のことを、そういう専門のスタッフみたいに思わないでほしい。


「あ、島本さんこんちわ」

 近寄る私の気配を察知して、例のヴィレヴァンガールがキャップの鍔を持ち上げて前髪の隙間からこちらを見やる。

「……どうして、私の名前を?」

「そんなの決まってるじゃないですか。えへ。名札に書いてあるんですから、何回か会えば覚えますよ」

 どうやら私は怪人に懐かれてしまったようだ。人間でないものには昔から好かれる。爬虫類とか。

「……DJモンスターを捕捉」

「はい? DJモンスターって?」

「あなた、そう呼ばれてるのですよ。連日このコーナーを占拠してはガチャガチャ騒音を鳴らすせいでね。他の店員が注意しても「専門のスタッフを呼んでください」の一点張りで引き下がらない、ヴィレヴァンで全身を固めた怪人工作員」

 すると、彼女は一丁前に赤面する人間性の片鱗を垣間見せてくれた。

「あたし、怪人なんかじゃありませんけど。あたしはえるく。茨木絵流玖です。それからあたしが流しているのは騒音じゃなくて、あたしが組んだセトリなんですけど」

 今現在も彼女の眼前に横たわるXDJ-RX2からはけたたましい音量の楽曲が流されているところで、それはおそらく彼女の操作によるものだった。かつてあれほど苦戦を強いられた難攻不落のシステムを部分的とはいえ使いこなしている。紛れもなくそれが彼女に秘められていた驚くべき吸収力と継続的なレッスンによる賜物である、ということについては私も否定しようと思わない。

 けれどもね。


「……お客さま」

「えるく、でいいです」

 ヨドガワの正社員である私は業務内で知り得た個人情報について、その取り扱いに係る弊社の指針に従う責務がある。それとも私の急務は、怪人に支配されてしまったこのえるくとかいう名の少女の心を正しく導くことだとでもいうのか。馬鹿を言いなさいよ。

「何度も言うようですが、お客さま、」

 軽く咳払いをして、語気を強める。

「こちらの機材は、売り物になります。売り物の意味はわかりますよね?」

「は、はい……」

「であればここが当店の商品を展示するための売り場であって、あなたのレッスンの場ではない、ということも?」

「…………」

 答えに窮したえるくは、フェーダー(と言うらしい)のツマミ部分を申し訳程度にスライドさせた。これは謝罪の気持ちを表すツマミだろうか。この空気を支配していた音楽の力にも衰退の兆しが差したように思われた。


 ずん、ちゃ。ずん、ちゃ。ずん、ちゃ。ずん、ちゃ。

 ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、ずっ……。

 ずっ、てっ。ずっ、てっ。ずっ、てっ。ずっ、てっ。

 ずっずってとっ。ずっずってとっ。ずっずってとっ。ずっずってとっ。

 テーテッテテッテーッテッテッテー↑テーテッテテッテーッテッテッテ――!!!!


「……さりげなく“繋いで”んじゃねえぞ!!?」

 私には、次第にまた大きくなろうとする音楽の「圧」に負けない力で声を張り上げる必要があった、と申し開きをしておこう。私の心からの叫びは、実際には私の業務用ハイパスフィルターによって良い感じにエディットされて聞こえるはずだ。


「島本さん」

 えるくは、私からの白い目などは気にもしないで、回転する円盤のどこか一点をまっすぐに見つめている。

「音楽が流れています」

「あなたが流しているんですよ」

「音楽が流れていると、楽しいです」

「今そう思っているのはあなた以外にはいません」

「音楽が終わるのは、寂しいです」

「ですから……」

 えるくはそこで私に問いかけるような視線を向ける。

「島本さん。あなたにはそう思えないんですか? どうして? いつからそうなってしまったんですか?」

「…………」

 何様のおつもりだろうか。

 少なくとも模範的お客様のそれではないし、少なからずともこの手のダンス・ミュージックは私の気分を害する。ガラの悪い男が車の窓を開け放して垂れ流すあれを連想してしまうから。

 でもそういうことじゃない。たぶん。わからない。かろうじて私にわかるのは、私たちの間でディスコミュニケーションが発生しているということだけだ。最初からずっと今まで。

 なのにどうして彼女だけ私のことをわかったように話せるのだろう? まるで古くからの親友みたいに。

 

「……どうだったんでしょうかね」

 私は首を振るしかなった。 

 この子といると、そのうち自分が何者だったかさえもわからなくなりそうで怖い。

 私は島本遥。大手企業ヨドガワカメラの正社員。

「今日のところもお引き取り願います」

 長袖の裾をぐいっと掴んで引き寄せる。


 ――たぶん、そのとき私は、自分が思っている以上に怒っていた。


 だから無意識に力を入れすぎたんだと思う。

 えるくの体勢が崩れ、よっとっと、と流されて。

 私の肩に抱きつかまる。

 すごく、すごく近い距離で。

 お互いの目を直視した。

 どこまでもあどけなく、子供じみていて、透き通った瞳だったからこそ、気味が悪い。

 私はその輝きの中に差すであろう翳りを恐れた。


「…………っ!」


 同時に顔を背け合う。それがどんな感情によるものであれ、自然なことには違いない。

「し、失礼……」

 袖先を払う私に向かって、えるくはずいと身を寄せてきて言った。


「島本さん、あたしは、もっとここにいようと思います」


 もし、私がこの襟元を正すのがあと一瞬でも遅れていたなら、どこか掠れたその声は、乱れた服の隙間からこのからだの中へと這入って、そうやって私を何か別の存在へと変えてしまおうとしたのだろうか。


「……いけませんっ!!」


 危ない危ない。実に危ない。いやはや、怪人恐るべし。

 だが、私は正気を取り戻したぞ。

 

「……これでもダメかぁ――――――――――――!」

「はいダメで――――――――――――――――す!」


 この茨木えるくという少女について、私はいくつかの思い違いをしていた。

 まず、彼女はしたたかだ。

 はじめは物怖じするタイプかと思ったが、そうではない。あれは緊張していたからおどおどして見えただけで、本性はこの通り。

「えーーっ、だって今日はまだ二十分しか練習できていないのにぃ〜〜〜〜」

 耳を貸す必要はない。引きずってでも出口まで連れていく。

「冷やかしだけならまだしも、他のお客さまのご迷惑となる方には即刻ご退店いただいております。どうかあしからず!」

「そんな〜〜〜〜〜〜〜〜」


 かくして、ヨドガワの平和は今日も守られた。

 めでたし、かな?


        ###


「……はぁ」

 近頃といったらため息をつく回数が増えるばかりで、なんなら浴槽に張るお湯の温度も日に日に上昇し続けている。私が買わされているのは間違いなく汚れ役なのだから、汚れを洗い落とす作業はことさら入念に行わねばならない。

 いっそ100℃の熱湯にして、私を蝕む毒もろとも消えてしまえればどれだけよいか。

 それができないからこうして半身浴をしている。

 アニメなんかで入浴シーンに切り替わるときにカポーンといったSEを伴うことがあるけれど、あれは何が鳴っている音なんだろう。

 そんな益体もないことも考える。私は考えることが好きだから。

 逆さまにした洗面器を爪で叩いてみるけど、良い音は出ない。

 叩き方を少しずつ変えてみてはどうだろう。強さ。角度。あるいは爪で叩くのではなく、もっと硬い材質の……たとえばこの乳液の蓋などではどうか。どうせならリズムに乗せて……。


 ベコベコベコベコペコペコペコペコテケテンテンテンダダダダダダダッ。


 そうこうやってるうちに一時間も経過していた。

 いかんいかん。年柄もなく夢中になりすぎた。


 ――音楽が流れていると、楽しいです。


 「専門のスタッフ」などと呼ばれているのは皮肉だ。

 一線を退いた者に与えられる称号。

 あの子は若い。

 だから、まだいろいろなことを知らずにいられる。

『音楽の光は太陽のように眩しい』

 そう。だけどそこまで手が届くかな。

 私は、正視に耐えられなかったよ。


「……久しぶりにやるかぁ」


 風呂から出て身体を拭き、タオルを巻いて部屋に入る。

 私は今の会社に就職して、昔からの夢をひとつ叶えた。

 それが、この防音室。

 糸目をつけず選び抜いたマンション一階の角部屋。

 すべては、このローランド製の電子ドラムを思う存分演奏するため。

 これらのものは、今の収入がなければ手に入れることができなかった。

 だから私は、今幸せなんだろう。

 たとえ叩く機会が減っていくのだとしても。


 プラグに挿したヘッドホンを装着し、いつも通りにかき回す。

 一連のストロークを行えば理想的な音が作られて聞こえる。

 ほとんどの専門用語を忘れてしまった今でも打法は身体が覚えてくれていた。


 私たちはかつて、イギリスのとあるロックバンドに感化された。

 だからあの子のかける音楽を私は知らない。

 でもあの子の瞳は知っている。

 飽き性の私に音楽の世界を見せてくれた人と同じ瞳。

 夢を追いかける月の光。

 私たちもそうだった。

 音楽に魅せられて。

 音楽に裏切られ。


 ……いいや、それは身勝手な言い分だ。

 裏切るのはいつも人間のほう。

 飽き性の私を誘って音楽を始めた親友は、飽き性の私よりも先に音楽をやめた。

 そして後を追うように、私も。

 この設備を整えるためと自分に言い訳をしながら。

 結局はこれまで夢を追いかけてきた多くの人と同じように。

 私は折れてしまったのだ。

 あの子を見ていると、そんな昔のことを思い出してしまうようで厭になる。


「やっぱり、だめだな」

 虚しい響き。

 良い音は鳴らない。

 良い音は、光の中でしか鳴ってくれない。

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