52節 理性と本能

「(――なんで。なんでリュイスちゃんがここに……!)」


 厳しめに遠ざけたし、てっきり素直に街まで戻ってくれたものと……素直に……

 ……今思えば、心配性のリュイスちゃんが素直に退いた時点で、もう少し念を押すべきだったのかもしれない。彼女は最初から、一度引き返してから様子を見に来るつもりだったんだろう。でも――


「アレニエさん、ですよ、ね……? でも、その姿は……」


 ――まずい。まずいまずいまずい。よりにもよって、こんなタイミングで戻ってこなくても――

 衝動は限界が近い。解消しようとしてた矢先なのもあって、爆発寸前だ。目の前にいるのがリュイスちゃんだと知りながら、堪えきれそうにない。いや、それよりも――


「(見られた――……!)」


 今のわたしを見られた――半魔の姿を見られた!

 動揺が、心を乱す。左腕の熱が、さらに上がる。


 彼女には、いずれこの姿を見せることも考えていた。

 けれど、それはもっと様子を見ながら、ずっと後のつもりであって、こんな形で知られたいわけじゃなかった。――まだ、見られたくなかった。


 顔を上げられない。彼女の目をはっきり見れない。彼女が、わたしを見る目を確かめるのが、怖い。

 だから遠ざけたのに。だから、待っていてほしかったのに――どうして――


「――どうしテ?」


「え……」


「どうして、戻ってきたノ?」


 こちらが一方的に頼んだだけで、「戻って来ない」と約束したわけでもない。頭でそう理解しながら、気づけば勝手に口が開いている。


「その、私、やっぱりアレニエさんのことが心配で……」


「わたシ、逃げてって言ったよネ。戻らないで、っテ」


 左の視界が赤い。左腕はさらに熱を帯び、目の前の獲物に爪を突き立てる時を、今か今かと待ち構えている。

 滾る欲望は半身に留まらず、この身の全てを穢そうと暴れ狂う。意識までが、赤く、紅く、染まっていく――


「……言いつけを破ったことは、謝ります。でも、私……!」


「言うこと聞いてくれないなんて、リュイスちゃんは悪い子だネ。だから……おしおきしなきゃいけない、よネ?」


「……本当に、アレニエさんなんですか……?」


 顔を上げ、わたしは笑う。――わたシが嗤ウ。


「……アレニエさんは、人間じゃないんですか? ……魔族、だったんですか?」


「ふふ、どっちだと思ウ?」


 怯えた気配を伝えながらも気丈に振る舞うリュイスちゃン。ああ、かわいイ。やっぱりリュイスちゃんはかわいイ。


「実を言うと、どっちでもないんだけどネ。半魔、って知ってル?」


「……人と、魔族の、両方の血を持った……アレニエさんが……」


「そ。どっちにも受け入れらないはみ出しモノ。どっちにもなれない半端モノ」


 初めて会った時から惹かれてタ。すごく好みの子だと思っタ。

 それは多分、最初から気づいていたんダ。わたシの嗅覚ガ。本能ガ。――獲物の匂いヲ。


「この姿じゃないと勝てそうになかったから、リュイスちゃんには離れてもらったのニ。見られたく、なかったのニ」


「アレニエ、さん……」


「これは、知られちゃいけない秘密なんだヨ。誰かにバレたら、また居場所が無くなっちゃウ。だから、そうならないようニ――」


 嗤いながら、歩を進めル。

 彼女はビクリと体を震わせ、目を瞬かせるが、逃げる素振りはなかっタ。


 かわいい……かわいいなぁ、リュイスちゃン。それにとても……美味しそウ……。ああ、もうだメ……我慢できなイ――


 無造作に駆け出し、左手を振りかぶル。

 警戒していたんだろウ。彼女は咄嗟に、自身の手を起点に光の盾を張ル。よく見れば、右の瞳にはいつの間にか青い光が灯っていタ。あれが、以前彼女に聞いた〈流視〉というやつだろウ。


 その目でわたシの動きの流れを読んだ彼女は、盾を利用して攻撃の軌道をわずかに逸らそうと動ク。が、魔力を喰らう鉤爪は光の盾を容易く引き裂き、篭手を填めた彼女の腕を直接打ツ。


「あ……うっ……!」


 衝撃で吹き飛び、彼女は背中から地面に落ちル。その押し殺した悲鳴までかわいイ。興奮が治まらなイ。


 立ち上がれず、上体だけ起こしてこちらを仰ぎ見るリュイスちゃン。彼女へ至る道筋を、ゆっくり、焦らすように歩いていク。

 一歩、また一歩と近づく度に、少女の甘い香りと汗の匂いが、鼻腔を刺激すル。こちらが歩を進める度、なんとか遠ざかろうとする小柄な獲物の様子に、嗜虐心を掻き立てられル。


 こちらから目線を離さず後ずさっていたその背は、やがて樹々の一本に遮られタ。それ以上は動く気力もなかったのか、彼女はそのまま幹に背中を預けル。


 再び、異形の手を振り上げル。それを、怯えを含んだ上目遣いで、体を強張らせながら、けれどもまだ足掻こうとするその姿……


 あぁ、堪らなイ。そんな目で見られたら、わたシ、本当に我慢できないよリュイスちゃン。

 もう、いいよネ? いいよネ? あのかわいい顔を、綺麗な身体を、押し倒して、引き裂いて、美味しくいただいちゃっても――


 ――……い、わけ……――


 ――ン……?


「――――…………いいわけ、ないでしょうがぁあああああああ――!!」


「……!?」


 本能に盛大に呑まれてる場合じゃないでしょわたし!

 胸中で理性を叱咤し、彼女に突き立てられようとしていた自分の左腕に、振り上げた右膝を思い切り叩き込む!


 ガイン――!


 鈍い音と衝撃が、〈クルィーク〉を通して左手に伝わる。

 しかし無理な態勢だったせいか、わずかしか逸らすことができない。鉤爪はそのまま彼女を引き裂こうと迫り――


 ガシュっ!


 ――その頭上を掠め、背後の木に突き刺さる。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 茫然とこちらを見上げる彼女に、わたしは荒い息をつきながら精一杯の笑顔を振り絞る。


「怖い思いさせて、ごめんね。リュイスちゃん……」


「アレニエ、さん……」


「もう少し一緒にいたかったけど……ここまで、だね。今のうちに、逃げて」


「え……あ……」


「今度こそ、ちゃんと逃げて……ちょっと、すぐには戻れなさそう、だから……それで、できれば、わたしのことは秘密にしてくれると、嬉しい、かな……」


「……でも、そうしたらアレニエさんは……」


 こんな時でもわたしの心配をする彼女に、こんな時だからこそ笑みがこぼれてしまう。


「わたしは、大丈夫……しばらくすれば、治まる、はずだから」


 少なくとも、以前使った時はある程度発散させれば戻れていた。ただ……

 解放する機会自体少ない(というより、なるべく使わないようにしていた)ので、こうして久しぶりに表に出した状態からちゃんと戻れるのか、正直に言えば、分からなかった。


 ……本当はこうやって抑え込むより、目撃した彼女の口を封じてしまうべきなのかもしれない。イフの時にそうした(結果、口は封じられなかったが)ように。わたしの生活を、わたしの命を守るためには、それが最も確実な手段だ。


 だけど、そうしたくない。殺したくないと、そう思ってしまった。それが、わたしの今後を守るより勝ってしまったのだから、もう、しょうがない。

 だから、できるならこのまま逃げてほしい。ここで見たことは黙っていてくれれば嬉しいけど、たとえ誰かに報告されたとしても恨まないと思う。


 心残りはとーさんのことと、結局、勇者に会えなかったこと、かな。後者は、わたしという半魔の噂が広まったりすれば、向こうから討伐に来るかもしれないが。

 そんな自虐を頭に過らせたのが原因か、しびれを切らしたのか、左腕が力を強めるのを感じる。


「う……あ……リュイス、ちゃん……そろそろ、ほんとに、逃げて……」


 いよいよもって抑えつけるのが難しくなってきた。このままじゃ、本当にリュイスちゃんをこの手にかけてしまうかもしれない。

 しかし、当の彼女からは一向に逃げる気配が見受けられない。唇を引き結び、地面に置いた手を固く握り、こちらを見据えている。

 やがて彼女は両手を前方に掲げ、祈りを唱え、叫ぶ。


「《……封の章、第二節。縛鎖の光条……セイクリッドチェーン!》」


 彼女の声に応じ、宙空から現れた光の鎖がわたしの体を絡め取り、両腕を頭上に持ち上げた状態で拘束する。


「……え、と……リュイスちゃん? なにしてるの?」


 こんな状況で緊縛プレイはおねーさん困っちゃうな。


 しかしそれには応えず、彼女はその場を動かぬまま、再び祈り始める。どうも、逃げる時間を稼ぐため、ではなさそうだ。


「(……もしかして、自分の手で始末をつけようとしてる、とか?)」


 わたしの正体を知っても、すぐにそういう決断をする子じゃないと思ってたんだけど……


 とはいえ、未知の状況に放り込まれた際に心がどんな反応を見せるか、理想の通りに動けるかなんて、実際にその状況に直面しない限りは、簡単に推し量れないものだろう。彼女自身、以前言っていたじゃないか。その時になってみないと分からないと。


 それに、咄嗟に切った舵がそっちだとしても……それはそれで、仕方ないとも思う。彼女にしてみれば酷い裏切りだろうし、なにより……ついさっき、殺しかけてしまったばかりなのだ。


「(……やっぱり、嫌われちゃったかな。半魔は怖い、かな。怖いよね)」


 今みたいな状況は、これが初めてというわけじゃない。

 でも、正体を誰かに知られるのは、いまだに怖い。

 恐怖、嫌悪、憎悪、侮蔑……負の感情が混じり合ったような、あの視線。あれを向けられることを、わたしは今でも恐れていた。

 リュイスちゃんにも、もしかしたらあの目で見られているかもしれない……そう思うと、彼女の顔をまともに見られない。



 そうして弱気を見せる心の隙を見逃さず、左腕が鎖を引き千切ろうと、さらに勢いを増すのを感じる。拘束から解き放たれれば、今度こそ彼女の身を喰らうべく、その牙を突き立てるだろう。


 そして、少なくともそうなる前には、リュイスちゃんの法術も完成する。

 成功すればわたしが死に、失敗すれば彼女が死ぬ。殺人も厭わず生きてきたわたしは、おそらく『橋』を渡れずアスティマの元へ。悔恨を抱え、それでも曲がらず生きてきた彼女はアスタリアの元に迎えられる。どちらにしろ……ここで、さよならだ。


「(……最後がこんな形でごめんね、リュイスちゃん――)」


「《……の章……節…………………――……!》」


 再び意識が赤く染まり、理性が呑み込まれていく。

 かすかに聞こえる少女の叫びを境に、わたしの意識はそこで途絶えた。

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