第60話 さらわれた私
「無事弁護士が見つかって良かったですわ。本当にありがとうございました。シュテファンさまに相談して良かったです。」
弁護士事務所から出てシュテファンさまと大通りに向かって歩きながら話す。少し肌寒い筈の風も、興奮した体には心地よかった。
これでようやくすべての準備が整った。財産分与の問題も片付いたし、魔塔の賢者と認められたことで、離婚後に義母に歯噛みさせてもやれる。新しい家も見つかったし、弁護士も決まった。やれることはやったのだ。
「そう言っていただけて、私も紹介した甲斐がありましたよ。彼女は負け知らずの常勝弁護士です。きっとあなたにとって良い結果をもたらしてくれることでしょう。」
「そう願いますわ。夫はまだ私を諦めるつもりがないと宣言していたので……。かなり長引きそうだと思っているんです。」
私は素直に離婚に応じてくれなさそうなイザークが懸念材料だった。本当なら、話し合いで解決出来るものならそうしたかったのだけれど、イザークがまさかあんなにも、離婚について頑なだとは思わなかった。
どうしてイザークは今更離婚したくないというのか。今まであんなにも私を放っておいたのに。私がそうなように、イザークにも私に対する情があるから……とか?
それならもっと早くに、態度を変えてくれたら良かったのだ、と思う。そんな気持ちが本当にあったのなら。
私が初恋の相手だと思い出したのだって、私が家を出てからの話だ。今更そうだと気が付いたからって、離婚したくない、とか?
イザークは子どものころのトラウマにとらえられている人だから、子どもの頃のよい思い出にすがってしまう気持ちはわかるけど。
私もつい最近まで忘れていたくらい、よい思い出ではあったけれど、イザークほどその時の思いにとらわれてはいないから、イザークとの気持ちに温度差があるのだろうか。
恐らく弁護士同士の話し合いでは解決せずに、裁判までもつれ込むことは間違いないだろう。裁判費用は魔塔から振り込まれるお金でなんとか出来そうで良かったわ。
私がイザークに対する不安を言うと、シュテファンさまが逡巡したように目線を落として、それからじっと私を見つめてきた。
「そうですか……。つかぬことをお伺い致しますが、ご主人にたいして、本当にもうお気持ちはないのですか?」
そう聞かれると、少し困る。
「まったく情がないかと言われると、そうではありません。そうではありませんが……。
私はもう新しい道を歩くと決めたのです。その為には、伯爵夫人の肩書なんて邪魔なだけです。何よりあの義母と関係を持ち続けることを考えると、離婚以外選択肢がありません。私はあの家と縁を切りたいのです。」
「そうですか……。もしもまだお心が揺れていた場合、あなたには、ご主人を厳しくはねのけることが難しいのではないかと思ったものですから……。人間にはどうしても情というものがありますから……。」
「そうですね、それは確かに……そうだと思います。夫婦として関係を築いていきたいと努力をしていた時間が、私に夫に対して厳しい態度を取りきらせないんだと思います。」
「ただ、離婚というのものは、本当に精神をすり減らすものですから。徹底的に、なにをどうしても相手と別れるのだという、強い意志を持つことが大切だとされています。」
「何をどうしても、相手と別れる……。そうですね。イザークを前にすると、どこか絆されそうになる自分がいるのも確かですけど、そのくらい強い意志を持たなくちゃ、私のように何も無い立場の人間が、ロイエンタール伯爵家と渡り合うなんて不可能ですよね。」
「ええ。ぜひ、常に強い心でいてください。私に相談したいことがあれば、またいつでも相談に乗りますので。気軽に声をかけてください。私が店にいなくても、従業員に声をかけて下さればすぐに参ります。差し支えなければ今のお住まいをお伺いしても?」
「ああ、今は……。」
私は今住んでいる村の場所と、村での私の家を教えた。シュテファンさまはそれを嬉しそうに聞いていた。
弁護士との契約も無事に終え、私はシュテファンさまと別れて辻馬車を拾い、家路についた。その時なんとなくの違和感があったのだけれど、それがなんであるのかよくわからないまま、馬車に揺られていたのだった。
だいぶ慌ただしく色々なことが決まって、疲れていたのだろう、私は馬車の中でうとうとと眠りこけてしまった。
……──ひんやりとした肌寒い心地に目を覚ますと、私の体は縛られて、藁の上に転がされているのに気が付いた。
「ここは……どこ?」
見覚えのない場所。だけど特有の動物臭さと糞尿の発酵したような臭いに、家畜小屋のような場所であることに気が付いた。
手首も足首も縛られて、藁の上に転がされている。口元にも口枷のようなものがつけられており、声を出すことも出来なかった。
その時、引き戸を開けて2人組の男たちが家畜小屋の中に入ってきた。
「──〜〜〜……!!」
口枷越しに思わず叫んだ声が漏れる。
「おい、人質が目を覚ましてるぞ。」
「薬の効きが弱かったんじゃないのか。乗り換えの馬車が来るまで時間がある。下手に騒がれて村の奴らに気付かれても面倒だ。」
──馬車!そうだ馬車!馬蹄のマークの下がった辻馬車を掴まえるように言われて、そうした筈だったのに、吊り下げられたマークになんとなく違和感を感じたのだ。
ということはあれは偽物の馬車で、最初から私を捕まえる為に用意された馬車だったということになる。馬車の中で寝てしまったのも、馬車の中に薬を準備していたのだろう。
「さあ、もう一度おねんねするんだな。依頼主のところまで無事連れて行かなくちゃならねえんだ。かわいそうだがな。」
依頼主?依頼主ですって?いったい誰がこんなことを頼んだと言うの?この間の強盗たち?だけどレオンハルトさまによる2度目の捕縛で、労役所に入っている筈だわ。
労役所というのは、犯罪を犯したけれど、死刑に相当させる程ではない人間を、閉じ込めておいて、かつ日々労働に従事させるという場所のことだ。
一度の犯罪では、程度によって入ることはないけれど、複数回数を重ねた場合は、情状酌量の余地なしとして、罪に応じた期間、労役所に入れられるという刑罰がかされる。
一定期間の労働を終えるまで、出てこられないと聞いたもの。まさかこんなに早く出て来る筈がないわ。だとしたら誰が……?
「その前にこの女、味見しねーですかい?依頼主からは、生かして連れてこいとしか言われてねえんでしょ?」
男の一人が私のロングスカートをグイとまくった。下着があらわになり、思わず縛られたままの足を腹部に寄せて隠そうとした。
「へへ……、身動きの取れない女ってのもまたそそるもんがあるな……。」
男がのしかかってきて下着に手をかけた。
〜〜〜〜〜!!
口枷越しに声にならない叫び声を上げる。
「ムウッ!フウッ!!」
「おい何やってんだ、乗り換えの馬車が来たぞ、遊んでねえで女を馬車に乗せろ。」
別の男がそう言ったことで、男はチェッと舌打ちして私の上からどいた。
「さあ、もう一度寝るんだ。」
嫌……。寝たくないわ、絶対に寝るものですか!そう強い意思を持って男を睨んだ。
「おお、おっかねえ顔だな。」
男がそれを見て笑う。
だけど男が薬の入った小瓶のようなものの蓋をあけて、私の鼻の下に持って来る。私はそれをかがされた瞬間、強烈な睡魔に襲われて、再び眠りについてしまったのだった。
──再び目が覚めた時には、私はクリーム色のソファーの上に転がされていた。どうみても、普通の平民の家じゃない。豪商か貴族の家の作りだ。ここはいったい……。
見たことのない家だった。少なくとも私は来たことがないと言える。調度品を見る限りでは、代々同じ家具を使ってきたことがうかがえることから、恐らくは貴族の家だ。
自分の家に堂々とさらって来た人間を連れて来るなんて、私をさらうよう指示した人間は、ずいぶんと大胆な人のようね。
周囲を見渡すと、私をさらって来た男たちが退屈そうにソファーの肘置きや背もたれに腰掛けて暇を持て余しているようだった。その時部屋のドアが開いて誰かが入ってくる。
「……ようやく目を覚ましたようね。薬をかがされていたとはいえ、ずいぶんと気を抜いた態度だこと。いらっしゃいフィリーネ。」
男たちによって口枷が外された。
「お義母さま……。」
窓際に移動して私を見下ろしていたのは、アデラ・フォン・ロイエンタール前伯爵夫人その人だった。
「お義母さまが、私をさらわせたのですか?いったいどうしてこのようなことを……!」
義母の意図がわからなかった。私をさらって、いったい何になるというのだろう。
義母がいるということは、ここは一度も私が連れて来てもらったことのない、ロイエンタール伯爵家の領地のひとつの筈だ。
どうりで見たことがないわけだ。義母から領地の管理もロイエンタール伯爵家の管理も任せてもらえなかった私は、はじめから領地に案内すらされたことがなかったのだから。
義母は日頃領地のひとつの家屋敷に住んでいて、社交の際だけ中央に出て来るのだ。
つまりこの家の中に限らず、この土地には義母の息のかかった人間しかいない。
なんとか隙を見つけてこの邸宅から逃げ出せたとしても、領地の人間すべてに追い回される危険がある。どうしよう……。
私はハッと、魔塔に行った際にフェルディナンドさまから渡された、魔塔の賢者であることを示す通行証代わりの腕輪のことを思い出した。魔塔の賢者は秘匿事項を多く握っている関係から、狙われることも多いと言う。
だからいざという時の為に、腕輪には救難信号を出すことの出来る仕組みが施されているのだと教わった。ソファーの背もたれに隠されたままの、縛り上げられた手首を動かして、なんとか腕輪のボタンを押した。
これでしばらくすれば、魔塔が救難信号に気付いてくれる筈よ。……だけどこの場所を特定出来るものだろうか?
それに中央のロイエンタール伯爵家と違って、領地にはロイエンタール伯爵家の私兵がいないけれど、義母は代わりにどこかで荒くれ者を雇ったようだ。
彼らが私を人質に取ったら、戦うのは難しくなるだろう。でも、今の私には、魔塔に気付いて駆けつけてもらう他なかった。
義母はゆっくりと私を睨めつけながら、
「あなた……本当に生意気なのよ。」
と言った。
「……私のいったいどこが生意気だとおっしゃるのです?ずっとお義母さまの言いつけを守るイザークによって社交を封じられ、家の中でもなんの権限も持たず、夫と会話も持てずに飼い殺されてきたといいますのに。」
「そのままでいれば良かったでしょう!」
義母はピシャリと言った。
「あなた……魔法絵師になったんですってね。アデリナ・アーベレ嬢とも親しいとか?」
「よくご存知でいらっしゃいますね。」
「……わたくしの耳にも届いてきたのです。優秀で期待の出来る魔法絵師であると。そしてあなたが今やロイエンタールの妖精姫などと呼ばれていると。……その呼び名はかつてわたくしのものだったもの。あなた如きが呼ばれてよい2つ名ではございません!」
私がそんな風に呼ばれていることも初耳だけれど、義母が若い時にそう呼ばれていたというのも初耳だわ。ようするに、私に立場を奪われたことが不満というわけなの?
「必要でしたらまた呼ばれたらよろしいのですわ。私にそんな呼び名など必要ありませんもの。私は絵を描いて暮らしていかれれば、それでじゅうぶん満足なのです。」
「今更この年で妖精などと呼ばれるとでも思っているのかしら?それでも他に呼ばれる人間がいなければ、ロイエンタールの妖精姫と言えばわたくしだった。あなたがそう呼ばれ出したことで、過去のわたくしの名声までもがあなたのものにすり替わっていくのよ!」
「……お義母さまは私にどうしろとおっしゃるのです?勝手に人が呼ぶものを、私にはどうしようもありません。」
「──あなたが誰とも関わらずに、そして外にでなければよろしいのよ。あなたという存在がこれまで通り知られなければ、誰もあなたをロイエンタールの妖精姫だなんて呼ばないもの。絵師としての評判だって、表にも出ず、絵も描かなければいずれ消えるわ。」
「……お断りします。」
「なんですって?」
義母が眉間に皺を寄せる。
「他のことはともかく、絵を描くことだけは私から奪わせません。今までお義母さまは私からたくさんのものを奪っていった。私の伯爵夫人としての尊厳も、交友関係も、夫との会話も、すべて!でも絵だけは渡さない!」
例え誰と関わることが出来なくなったとしても、絵だけは奪われてたまるものですか!
私は強い目で義母を睨んだ。
「ずいぶんと強気のようだけれど、わたくしはあなたを無理やり従わせることだって出来るのよ?あなた、……魔法契約はご存知?」
扇越しにニヤリとする義母。私は思わずゾッとした。義母の指先には一枚の紙がつままれていた。魔塔での契約と、弁護士の契約の際にも見た、その独特の紋様。
「これはあなたの為に特別に用意させた魔法の契約書よ。金輪際わたくしの許可なく絵を描かず、外にも出ずに、誰とも交流を持たないという契約書。ここに血判を押させれば、あなたはわたくしに従う他ないのですよ。」
「や……やめて……!痛っ!!」
男が私の手首を捻り上げて、無理やりナイフを押し当て、スッと引いた。
私の痛みなんてまるで考えていないから、容赦なく深い傷が出来て血が指先からたれる。
「さあ、血判をおしましょうね?これであなたはわたくしのいいなりよ。フィリーネ。」
「嫌っ!やめて!」
私の体を男たちが掴んで、無理やり捻り上げて魔法の契約書へと近付けて行く。
「ああ、そうそう。絵がどうこう言っていたわね。あなたの絵はどうやら売れるようだから、絵だけは私の許可で描かせてあげるわ。
まだ世間にそこまで知られていない絵師だもの、あなたの絵はわたくしの絵ということにして売ってあげる。そうすれば、あなたの絵の評判もわたくしのものよ……!」
ここまで来たのに!イザークに財産を取られないように商会を作って、魔法絵師とも、魔塔の賢者とも認められて、弁護士も見つけて、あとは離婚だけだって言うのに……!
私は悔しくて涙を流した。その時、
「──ここだ!」
という、聞き覚えのある声がした。
「無事か!フィリーネ!」
「ロイエンタール伯爵夫人!」
扉が開いて2人の男性が飛び込んで来る。
「ぐわっ!?」
「うわあっ!!なんだあああ!」
真横に回転する竜巻のような風が、男たちを巻き上げて地面に叩きつけた。
私はその姿を見て驚いた。一人はフェルディナンドさまだった。私の腕輪の緊急通信を傍受して、助けに来て下さったのだろう。
そしてもう一人の男性は、
「どうして……。どうしてあなたが私を、助けに来てくれたの?」
「良かった、やはりここだったか。」
ホッとした表情を浮かべて私を助け起こしつつ、縄を切ってくれたイザークだった。
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