第7話 専属従者がいない理由

 私は再びウキウキとした気持ちで、クローゼットから画材一式を取り出すと、新しい絵を描き始めることにした。

 描くのはただの絵なんかじゃない。

 私の明るい未来なんだ!

 まだ確約されたわけじゃないけれど、自立という目標に向かって、私は全力で絵に取り組んだのだった。


 残り3枚の絵を1日かけて描きあげると、私はようやくベッドメイクして貰えたベッドで、心地よい眠りについたのだった。

 翌朝、朝食の席で、私はイザークに外出したいことを告げた。

「新しいキャンバスを購入しに行きたいのですが、出かけてもよろしいでしょうか?」


 そう言うと、イザークは少し驚いたような表情を見せた。

「──もう描き終わったのか?」

「お試しで、とても小さなキャンバスだったので、完成してしまって。筆がのっているので、新しいのが欲しいと思っております。」


「今日はそれでも構わないが、あまり伯爵夫人が一人で直接買いに行くのはどうもな。出入りの商人を新しく見繕ってやろう。」

「ありがとうございます。」

 私は一応お礼を言ったが、内心迷惑だなと感じていた。アンがいなくなってからというもの、私専属の従者を付けられないのをいいことに、自由に工房に出入り出来たのに。


 そもそもアンは既にいないというのに、何故私に新しい従者や護衛をつけようとはしないのか?私はイザークは今の今まで、私の身の回りの世話を、家令が誰かに頼んでいるだろうと思い込んでいるのだ、と思っていた。

 家令はイザークに指示されない限り、そんなことはしないから、専属従者なり護衛がつかないものなのだと思っていたから。


 だけど、アンがいないことで、私には専属の従者がいなくて、元々護衛がいないから、私が外出時は1人で行動を余儀なくされていることを、イザークは把握していたのだ。

 専属の従者の給与は当然通常のメイドよりも高いものだ。なぜなら常に近くにいて、緊急時には24時間対応することもあるから。


 もちろん契約書の問題と本人の了承も必要だから、今いるメイドたちのいずれかに、専属になれと命令すれば済むという話ではないけれど、やりたい人間を募って契約書を書き換えるか、新しく人を雇えば済む話なのだ。

 私がイザークを伴わない社交に、従者も従えずに参加したりしようものなら、他の貴族たちにヒソヒソ噂されることになるのに。


 ……ああ、そうか。私が社交をしないかららだわ。人前に出ることがないのだから、従者も必要ないというわけね。日頃の世話係を増やす目的だけで、私の為に余計な人件費をこれ以上使いたくないということ。

 ごくたまにのお茶会参加程度のことであれば、その都度今いるメイドをつければいい。


 そうなると、メイドがお茶会に参加している貴族たちの顔と名前を覚えることが出来ないし、気が回らないことになるけれど、新人だからということにでもしてしまえばいい。

 ……本当に大切にされていないのね、私。

 今更のことだけれど、イザークに対するモヤモヤとした感情がつのるばかりだった。


 それに毎回工房長に描きあげた絵を見せる約束なのに、これでは今後工房に行かれないではないか。私の絵を工房長が気に入ってくれた場合は、新しい色の絵の具を貸して貰えることになっている。いずれはすべて買い取るつもりでいるけれど、魔石の粉末入りの絵の具は高級品だ。


 今は使ってみたい色を試すには、工房長の言葉に甘えるしかないというのに。

 確かに今ある色の絵の具を混ぜても他の色は作れるが、あくまでも単純な色調表現としての色で、むしろ他の色と混ぜることで、アデリナブルーは輝きが死ぬこともある。


 魔石独自の発色は、どうしても本来の色の絵の具を手に入れないと出すことが出来ないのだ。あの朝露で輝いた若葉のような緑色なんて、魔石の粉末入りの絵の具にしか出せないものだ。他のどんな工房の絵の具にも、出すことの出来ない色。


 単純に絵の具の発色の美しさでも、魔石の粉末入りの絵の具は人気なのだ。

 私は内心、どうにかして今後も工房に行く方法を考えたが、基本的にイザークが一度駄目だと言ったものをひるがえすことはない。私は絶望的な気分だった。

 ……。そうだわ!!


「……でしたら、アンの夫のヨハンに頼んでもよろしいでしょうか?」

「──ヨハンに?」

「はい、私が現在使用しております画材は、もともと私がアンの家に出産祝いに向かった際に、アンの知人より借り受けたものになるのです。ヨハンを介せば新しい画材を1つ2つ手に入れるくらい容易いかと。」


「なるほどな。そういうことならヨハンに頼むのがいいだろう。」

 ヨハンはもともとロイエンタール伯爵家の出入り商人である小売業者兼農家なのだ。

 新しい商人を探すよりも、出入り商人であるヨハンに、私やメイドがちょっとしたお使いを頼むのはいつものことだし、その方が話が早くて何より自然だ。


 私がどんな目的でヨハンに頼むつもりだとしても、イザークがそれを知ることはない。

 ロイエンタール伯爵は、妻やメイドを介さずに、直接出入りの商人と口をきくことはないのだから。アンの夫であるヨハンとは、日頃からアンの様子を聞いたりして、私が伯爵家で会話をする数少ない人物だ。


「ではキャンバスの号数は、君から直接ヨハンに伝えるように。この話は以上とする。」

 イザークが控えていた家令を呼び寄せ、ヨハンがご用伺いに来たら、必ず私を呼ぶように言いつけ、家令がそれにうなずく。

「かしこまりました。」

 家令は銀縁の眼鏡をかけた、先代の時からロイエンタール伯爵家に代々つかえているという、白髪の細身の男性だ。


 家令は結婚当初から、私に優しくこそしないものの、特別失礼な態度も取らない。

 たとえ自身が平民であっても、ロイエンタール伯爵家全体を任されている特別な存在であるという自負があるからなのだろう。

 代々家令家の家の人間らしく、忠実ながら主人に必要以上に親しくもしない。


 もちろん態度や言葉に出さないというだけの話で心の中では、上級貴族の令嬢を望んでいたロイエンタール伯爵家に、子爵令嬢など主人の妻として迎えたくはなかっただろうから、私の存在を歓迎していない筈だけれど。

 従者というものは忠実であればあるほど、主人の望みが自らの望みになるというから。


 ヨハンに絵をたくせば、工房長に絵も見て貰えるし、新しい絵の具だって借りることが出来る。とうぶんは直接工房に行かれないことだけが残念だけれど今はこうする他ない。

 なんとか工房長に絵を見せることと、新しい絵の具を借りる手立てがついたことに、私はホッとしたのだった。


 既にキャンバスを5枚描き終えてしまった私には、部屋に戻ってもやることがない。

 だけど早くも新しい絵を描きたくて仕方がなくなっていった。

 もうそろそろヨハンがご用聞きに尋ねて来てもいい頃だ。そうすればすぐに新しいキャンバスと絵の具が手に入ることだろう。


 私は自室に戻ると、そういえば読みかけの本があったことを思い出し、テーブルの前の椅子に腰掛けて、ゆっくりと久しぶりに本を読み始めることにした。

 だけどちっとも内容が頭に入って来ない。

「……駄目だわ。」

 やっぱりどうしても絵が描きたくて、仕方がなくて落ち着かない。


 私はクローゼットをあけて描きあげた絵を取り出した。よく見るとキャンバスは布が釘で木に打ち付けられたものだ。

「……これ、布を外してひっくり返して釘を打ち直したら、別の絵が描けないかしら?」

 そう思ってもみたのだが、乾いた絵の具はある程度厚みのあるもので、布がたわんだら今にもヒビが入ってしまいそうに思えた。


 稚拙な作品であっても、私は自分の描いた絵に満足しており気に入っている。

 それに布はピンと貼られている。私が木に打ち付けられた釘をはずしたら、もう一度ピンと布を貼れる自信がなかった。

「……さすがにそれは、諦めたほうがよさそうね。私には無理だわ。」

 百歩譲ってこの絵をなかったものとして、さらに上から絵を描くしかない。


 私はうんうんとうなりながら、やはり諦めきれずに、これは練習だもの、と自分に言い聞かせて、別の絵を上から描くことにした。

 選んだのは壁掛け時計の絵だ。一度白い絵の具を薄く全体にのばして元絵を覆い隠す。

 時計しか描いていなかったので、割ときれいに隠せたが、それでも元々のキャンバスと比べると、凸凹している感じがいなめない。


 木炭のペンで下絵を描くと、ペンが引っかかってガタついてしまうところがあったが、絵の具を乗せていく頃にはそんなことは気にならず、絵の具の塗り重ねで下絵のガタついた輪郭を美しく補正することに成功した。

 描いている最中に、家令がヨハンが参りましたと、私を呼びに部屋に尋ねて来た。


 ──ヨハン!!

 私は立ち上がると、ドアの前まで向かい家令に、すぐに行くわとだけ伝え、クローゼットの中に小さなイーゼルと描きかけの絵と画材たちをしまい、花瓶にいけた花と蝶々の絵を木箱にしまった。

 そのまま部屋を出て裏口へと向かう。

 出入りの商人は正面玄関からは出入りしない為だ。


「──お元気そうですね、奥様。」

「あれからまだそんなに経っていないわよ。

 けど、あなたも元気そうね、ヨハン。」

 ニッコリと微笑んでそう言ってくれるヨハンに、私も笑顔をかえす。

 今は周囲にメイドたちもいない。私はヨハンに木箱に包んだ絵を手渡した。


「──これは?」

「アンに連れて行って貰ったお店の工房長に渡して欲しいの。それで分かると思うから。それと、2段目の段の1番右の緑の絵の具を貸して欲しいと伝えてちょうだい。」

「……2段目の段の1番右の緑の絵の具、ですね?わかりました。他にご用向きは?」


「キャンバスがいくつか欲しいと伝えて。

 代金が分からないから、──これを。

 それ以外では、私からは、ないわ。」

 私はヨハンに中金貨を1枚握らせる。

 キャンバス代がいくらかは分からないけれど、大金貨3枚がロイエンタール伯爵家のメイドの年俸なのだ。さすがに足りるだろう。


 ちなみにお店で見た魔石の粉末入りの絵の具の値段は、1番安いものでも小金貨5枚はした。アデリナブルーは中金貨3枚。

 つまりは36色入りの絵の具セットは最低でも大金貨2枚以上の値段がするのだ。

 私が受け取れないと思った理由もお分かりいただけると思う。

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