第8話 工房長からの手紙

 だけど少しずつなら私にも買える。一応ロイエンタール伯爵夫人として、夫が用意するもの以外に自由に使えるお金はあるから。

 絵が売れるようになれば、もっと早く手に入れられるようにもなるだろう。

 私は号数が分からないので、このくらいの大きさ、というのを身振り手振りで示した。


「わかりました。では、既に他の注文はいただいておりますので、これで失礼しますね。

 キャンバスと新しい絵の具は、今日中にお届けにあがれると思いますので。」

 そう言って、ヨハンは笑顔で帽子のつばを持ってお辞儀をし、去っていった。


 ヨハンは予告通りその日のうちにキャンバスを持って戻って来た。かなり急いでくれたのだろう、今日中と言いながらも、恐らくはお店に行って戻って来たくらいの時間でロイエンタール伯爵家に現れた。お待ちかねのものですよ、良かったですね、と言って、笑顔で私にキャンバスを手渡してくれた。


 私はそんなにもキャンバスが欲しいと顔に出ていたのだろうか?

 ちょっと恥ずかしくなる。

 ご希望の絵の具も中に入ってるそうですので、と言って、花瓶にさした花と蝶々の絵を入れていた木箱を渡してくれた。

 私はお礼を言ってヨハンと別れ、足早に自室へと戻りキャンバスの入った包を開ける。


 中には折りたたみ式の、キャンバスのサイズに合ったイーゼルも入っていた。

 私は頼むのをすっかり忘れていたのだが、あちらで気を使ってくれたのだろう。

 木箱の中には私が待ち望んでいた絵の具の他に、蝶々の羽の色のような美しく輝く紫の絵の具と、お釣りが入った布袋、そして手紙が一緒に入れられていた。


 絵の具は借り受けているだけなので、キャンバスとイーゼル分だけの代金になる。

 恐らくはどちらも銀貨2枚といったところだろうか。そこまで高いものじゃなかった。

 私は手紙を開いて読んでみることにした。手紙は工房長からだった。


『婦人に直接お会いすることがかなわないと知り、大変残念に思い筆を取りました。

 絵を拝見させていただきました。自由で独特な感性と構図で描かれており、とても素晴らしいと感じました。一時はこちらで絵を習っていただくことも考えましたが、このまま描き続けるのもよいと思います。あなたの感性を大切になさって下さい。絵はあなたの人生を豊かにすることでしょう。』


 とても嬉しい言葉だった。誰かに褒めて貰おうと思って描いたわけではないけれど、他人に認めて貰えるということが、こんなにも嬉しいことだとは。ロイエンタール伯爵家で伯爵夫人として、それどころか一個人としてもないがしろにされている私には、工房長が唯一の外部の味方に思えたのだった。


 もちろんアンも味方だが、アンは幼い頃から姉妹のように育った幼なじみでもある。まったくの他人としての味方など、私には存在しないから。ヨハンは敵ではないけれど、あくまでもアンの夫というだけ。敵意と悪意がないだけで、別に味方というわけじゃない。ヨハンに甘えてはいけないと思っている。


 手紙はまだ続いていた。

『ここからが大切なお話になるのですが、婦人の絵からは魔力を感じます。恐らくは魔法絵で間違いないと思うのですが、詳しい能力などは工房では分かりかねます。

 工房に持ち込まれたもの、また絵画教室で描かれた絵が魔法絵であった場合、工房は魔塔に報告の義務が存在いたします。』


 やはりあれは魔法絵だったのだ。私はその言葉に興奮した。魔法絵師として活躍出来るかも知れない。絵が売れるようになれば、私自身がお金を稼ぐことが出来るようになる。

『魔法絵は魔法絵師ごとに扱える能力が異なるものになります。

 この絵がどのような力を持つものであるのか、魔塔に絵を送り、確認していただくことになることをお許し下さい。』


 お許し下さいとあるが、義務というからには強制事項だ。義務ならば仕方がないし、魔塔に能力を鑑定して貰い、お墨付きをいただけるのであれば、魔法絵として絵を売り出すことが出来る。私に異存はなかった。

『魔法絵であることを確認された場合、絵をお売りになられたければ、私どもであたらせていただくことも可能です。お返事いただければ幸いです。』


 ありがたい話だった。だけどあの花瓶にさした花と蝶々の絵を売った場合、私の部屋から花瓶と花がなくなることになる。

 それに花はいつまでもあるものじゃないから、そうすると花瓶と蝶々だけがあらわれることになるのだろうか。

 だとしたら買った人からしたらつまらないことになる筈だ。飛び出すように見えたり、飛び出してくるのを楽しむものだから。


 実際そうなるのかは、花が枯れたあとで試してみる必要があるだろうから、まだあの絵は売らないほうがいいかも知れない。

「……売るにしても、他の絵のほうがいいかも知れないわね。壁掛け時計の絵を描き終えたら、それを売ろうかしら?

 たとえ壊れることがあったとしても直せるし、時計は時計のままだわ。」


 私はそう思い、描きなおしていた壁掛け時計の絵を描きあげてしまうことにした。

 前回よりも時間をかけて、細部まで描き絵を仕上げると、開け放った窓のへりの上に置いて乾かすことにした。

 前よりずっとまっすぐな線を描けるようにもなっていたし、多少人の手で描いたことの分かる歪さもまた味だと感じた。


 今日はこの絵を描くだけでかなり時間を使ってしまった。小さなキャンバスに描いた絵とは思えないくらい、大きさを感じさせる絵に仕上がり大満足だった。

 重ねた絵の具の量の多さから、前回ほどすぐには絵は乾かなかった。夕食を済ませて風呂に入り、窓を開け放ったまま絵を乾かしながらベッドで就寝した。


 目が覚めて私は窓枠の下の絵を確認してひと撫でした。絵は見た目通り無事に乾いていたので、私は壁掛け時計が絵から出てくるのを待ってから、イザークとの食事に向かうつもりでいた。

 だがいつまで経っても壁掛け時計が出てこないばかりか、私が朝食の場に行かないにも関わらず、誰もが呼びにすら来ない。


 朝の身支度はアンの仕事だったので、アンがいなくなってからは誰も手伝おうとはしない。私の為に余計な仕事を増やすことをメイドが嫌がったからと、家令が私絡みのことを管理しないからだが、それでもイザークとの朝食はロイエンタール伯爵夫人としてかせられた義務の1つだから、私が身支度を済ませて向かわなければ、誰かが部屋に呼びに来る手筈となっている。


 誰も来ないのはさすがにおかしかった。

 イザークが私の世話を一切やめるように言ったのだろうか?いいえ、イザークは私に関心がないというだけ。アンがいなくなったあとの私が困らないか気にかけて、家令にそれを指示したりはしないというだけ。


 家令はイザークから指示されないことをしない。しないというよりも余計なことをしてはいけないのだ。ロイエンタール伯爵の指示したことに正確に従い実行する。それが家令の仕事なのだから。

 メイドの手配は家令の仕事だが、家令を恨むことは出来ない。家令が私を気遣っていたとしても、ロイエンタール伯爵の許可なく勝手なことは出来ないのだから。


 私が逡巡していると部屋のドアがノックされた。私は壁掛け時計の絵をクローゼットに戻すと、今参りますと返事をしようとした。

「──奥様、ヨハンが参りました。」

 と家令がドア越しに私に告げた。

「ヨハンが?──こんなに朝早く?私は朝食もまだなのよ?」


 なんの用だろうか。昨日会ったばかりで、まだ来るはずの時期ではない筈だ。昨日何かをヨハンに頼んだ覚えはないし……。だが家令は私におかしなことを言ったのだった。

「朝食……でございますか?

 先程奥様は旦那様との朝食を済まされ、その際にヨハンが来たら奥様を部屋に呼びに行く手筈になった筈でございますが……。」


 ──なんですって!?

 その話は昨日の朝食の席でした話だ。どういうことだろうか。万が一にも私がボーッとし過ぎていて、イザークと朝食をとったことすら忘れていたとしても、同じ話を2日続けてする筈などない。

 それにヨハンは呼びつけたわけじゃなく、定期的に来ているご用向伺いの際に、ついでに用事を頼むことにしたのだもの。


 私は壁掛け時計を見上げる。朝だった筈の時間は10時過ぎまで進んでいた。

「まさか、時間が戻って……る?」

 私はその場に立ち尽くした。

「……奥様?

 いかがなさいましたでしょうか。ヨハンに会うのは取りやめにいたしますか?」

 家令が訝しげに私に声をかけてくる。


 私は慌ててクローゼットの中を探った。

 ……すると絵をしまう木箱の中から、昨日ヨハンに渡した筈の、花瓶にさした花と蝶々の描かれた絵が出てきたのだった。

 ドアの外から家令が私を呼ぶ声がしたが、私はすぐに身動きが取れないでいた。

 私はクローゼットの中から、一度しまった壁掛け時計の絵を取り出した。


 この絵なのだ。きっと上書きしたことで、今までと効果が変わってしまったのだろう。

 どうすれば元に戻れるのだろうか?絵から飛び出てきた物は、キャンバスに押し込めれば元に戻ったけれど、時間を押し込めるなんてことは出来ない。壁掛け時計を外して押し込める?だが私の手に届く位置にはない。


「困ったわね……。」

 考えよう。絵を撫でたらキャンバスから描いた物が飛び出て来たのよね。壁掛け時計もさっき私が撫でたから時間が巻き戻ったのだと思う。魔法絵は効果を切らすことが出来るもの。ならば巻き戻った時間を巻き戻る前に戻すことだって出来なければおかしいのだ。


 私に出来ることといえば、絵を撫でることだけだわ。さっきは左から右に撫でたから、反対向きに撫でてはどうかしら?私は壁掛け時計の絵を右から左に撫でてみた。

 シン……とする。ドアを開けてみたが家令の姿はなかった。振り返ると壁掛け時計の時間は朝食前に戻っていた。


 私はホッとして壁掛け時計の絵をクローゼットにしまい直すと、何はともかくイザークとの朝食の義務を果たす為、部屋を出たのだった。

 いつも以上にイザークとの会話をする気がしなかった。どうせ私の話は聞かないから、話しても寂しいだけだもの。それよりも先程の事象をどう再現するかに囚われていた。

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