第4話 工房長の申し出

「……いただけません。」

 私の絵にそんな価値なんてない筈だ。初めて描いた、ただの素人の手慰みだもの。

 ひょっとしたら私がロイエンタール伯爵家の人間だということに気付かれて、媚を売っておいたほうがいいとでも思われたのだろうか?そうでなけれ説明がつかない。


「では、こちらは無料でお貸しするというのはいかがでしょうか?

 最低限これだけあれば、混ぜることでどんな色でも作ることが可能です。」

 工房長はそう言って、私の目の前で、絵の具のハマっているところからほとんどの絵の具を抜き取った。残った色は、赤、青、黄、白、黒の5色。青は当然アデリナブルーだ。


 それでも魔石の粉末入りの絵の具は、その1つ1つが高い。最低でも小金貨5枚するのをさっき見ていた。アデリナブルーは中金貨3枚。だけど1つくらいなら、ロイエンタール伯爵家において、私が毎月自由に使ってもよいお金で、なんとか手に入りそうなもの。

「……その代わりと言ってはなんですが、ひとつお願いがあるのです。」


「お願い?」

「──絵を描いて下さい。このキャンバスがすべて埋まるまで。5つのキャンバスがすべて埋まった時、絵を描き続けたくならなければ、画材をお返しいただけませんか?それまでこちらはあなたにお貸しします。」

 工房長は私をじっと見つめてそう言った。


 よくわからない申し出だった。私が5つのキャンバスに絵を描いたところで、この人になんの得があるというのだろう?

 だけど私はそれを拒否する気にはなれなかった。だって色とりどりの絵の具の詰まった木箱に、眺めているだけで幸せな気持ちになり、心躍る気持ちを止められなかったから。


 私……、もっとたくさんの絵を描いてみたいわ!このキャンバスだけとはいわず、もっとたくさんの絵を。

 貴族の婦人らしく表情を隠していたつもりだったけど、好奇心を止められない私の顔付きで、工房長は私の無言の了承を得られたとすぐに理解した。


「──では、こちらはあなたにお貸し致しますね。期限は特にはもうけませんので、それまで自由に絵を楽しんで下さい。

 絵を描き終えたら、またこちらに持っていらして下さい。私がその絵を気に入れば、残りの絵の具を少しずつ差し上げましょう。

 木箱の中にすべての色が埋まった時は、先にお渡しした5つの色も差し上げます。

 ──いかがでしょうか?」


「はい、ありがとうございます。」

 私は絵の具と筆の入った木箱を胸におしいだいた。ああ、これが本当に私のものになったなら、どんなにか素晴らしいことだろう。

 ここまで言ってくれるのだ。今はその言葉に甘えたいと思った。


 もしもいつか、この絵の具に相応しいと思える絵が私に描けたなら。

 その時こそ本当にこの絵の具セットを譲って貰おう。正直に、欲しいと言おう。いつの日か、すべての色を買い取ってみせる。

 私はそう心に決めた。

 絵の具の入った木箱は、この日から私の宝物になったのだった。


 私は工房長にお礼を言って店を出ると、アンに、そろそろ帰るわね、と告げて帰路についた。アンは微笑ましげに、はい、と言って笑った。早く、早く家に帰ろう。

 私はすぐにでも新しい絵を描きたくて、たまらなくなっていたのだった。


 足取りも軽く自宅に戻ると、イザークはまだ仕事から戻っていなかった。私にとっては都合が良かった。仕事帰りのイザークはいつだって機嫌が悪い。そんなイザークの目の前で魔石の粉末入りの高価な絵の具を持ち帰ったところを見られるのはまずい。


 話すなら明日の朝の朝食時の会話ノルマの時だ。魔石の粉末入りの絵の具を見られさえしなければ、絵を描くことを趣味にしている貴族婦人は多いから、社交時における共通の話題の為だとか、なんとでも言い訳がたつ。

 なんならようやく社交をする気になったかとでも思ってくれたら儲けものだ。


 この見ているだけで心躍る鮮やかな発色ときらめく光の数々は、魔石の粉末入りの絵の具にしか出せないものだ。私はこの絵の具だから絵を描きたくなったのだもの。

 イザークに知られるわけにはいかない。私は極力誰にも見られないように、画材入りの木箱とキャンバスの入った布袋を抱えて、逃げるように自分の部屋へと戻った。


 部屋のドアを閉めて鍵をかけ、ようやく人心地つき、思わず地べたにへたり込んでしまった。そのまま画材入りの木箱を布袋から取り出して蓋を開けてみる。

 キレイに並べられた絵の具には、色を表す紙がチューブが巻かれていた。それを見ただけで、また心がざわめくのを感じた。


 テーブルに乗せられる、小さなイーゼルも貸して貰ってある。私はさっそくテーブルの上にイーゼルを立て、小さなキャンバスをそこに置いた。さて、何を描こうかしら?

「あ、そうそう。」

 この家にいる時のくせになってしまった独り言を言いながら、私は記念に持ち帰って来たあの子猫の絵を布袋から取り出すと、窓を開けて窓のへりの上に置いた。


 まだ乾ききっていない絵の具の状態で持ち帰ってしまったから、こうして少しでも早く乾かそうと思ったのだ。

 汚れないように木枠のケースに入れてくれたものを、上向きに布袋に入れて持ち帰って来たから、絵はキレイなままだった。


 すると窓からヒラヒラと黄色い蝶々が飛び込んで来て、テーブルの上の花瓶にいけられた花のまわりを舞った。

 そろそろ日が落ち始める頃だというのに、今夜の寝床をこの花にでも決めたのかしら?私はとても気持ちがなごんだ。


「次はこの子を描きましょう。」

 私はパレットに絵の具を取り出して、ああでもないこうでもないと、色を作り始めた。

 その時、窓のへりの上に置かれた子猫の絵が、ボウッと薄く光りだしていることに、絵を描くことに夢中になっていた私は、まるで気が付かなかったのだった。


 私はあれから夢中で絵を描いた。

「うん、なかなかいい出来ね。」

 花瓶にさした美しい花の周囲を黄色い蝶々が舞っている姿を、なんとかキャンバスの上にとどめることに成功したと思う。

 もちろんまだまだ拙いけれど、誰が見ても花と黄色い蝶々を描いたことが分かる絵になったと思う。


「これも乾かしておきましょう。」

 私は描きあげた絵を、窓のへりの上の子猫の絵の隣に置き、並べて眺めていたく満足した。ふと気が付くと、すっかり日が落ちている。食事の時間はとうに過ぎている筈だったが、呼びに来たが私が気付かなかっただけなのだろうか。そう思うとお腹が空いてくる。


 いったんキャンバスと画材と小さなイーゼルをクローゼットの中に隠してから、部屋のベルを鳴らしてメイドを呼ぶと、不機嫌な表情のラリサがやって来た。食事を持ってくるように告げると、舌打ちをしてあからさまに面倒くさそうに部屋を出ていき、台車に乗せられた食事を運んで来た。


 料理はすっかり冷めていたが、私の為に料理を温め直すという気持ちがないのは、ロイエンタール伯爵家の料理人も一緒のようだ。

 恐らくは蓋も被せずに置いておいたのだろう、少しスープにホコリが浮いていた。

 私は何も言わず、ラリサが部屋からいなくなったあとで、ホコリを取り除いて冷めたスープをスプーンですくって飲み込んだ。


 食事が終わり、再びベルを鳴らしてラリサを呼んで、食器を下げさせると同時に、今日もベッドメイキングが終わっていないことを告げると、これからやるつもりなのかとたずねた。ラリサは憮然とした表情で、申し訳ありません、とだけ言って部屋を出て行った。


 私は夢中で絵を描いていたので、かなり遅くまで待っていたのだが、いつまで経ってもラリサが戻って来ることはなかった。

 ラリサに頼むといつもこうだ。なにか1つはやってくれるが、それ以上頼むと無視をする。誰か他のメイドに押し付けてやらせるのであればまだいいほうだ。


「仕方がないわね。もう休みましょう。」

 私は小さなイーゼルと画材一式と描いた絵をクローゼットの中にしまうと、ベッドに横たわり、魔道具の明かりを消して休んだ。

 ──深夜、クローゼットのドアが内側からそっと開かれたが、私は疲れていてまったく気が付かなかったのだった。


「──寝不足なのか?」

「あ、はい、申し訳ありません。」

 翌朝の朝食の席で、あくびを噛み殺した私を見てイザークがたずねてくる。

 深夜まで夢中になって新しい絵を描いてしまったせいで、私はすっかり寝不足だった。

 だが今日は絵を描き始めたことをイザークに報告しなくてはならない。


 私は姿勢を正して、イザークをキリッと見つめた。それに気が付いたイザークが、わずらわしそうに視線を上げる。

「……実は絵を描き始めたのです。」

「絵を?」

「はい。

 最近は絵を趣味になさる御婦人方も多いのだとか。私も始めてみることにしました。」


「──確かにそう聞いている。魔石の粉末入りの絵の具を使った魔法絵師が増えたことによる影響だろうな。自分でも描いてみたくなったと言って、絵を始められる方が増えているようだ。それはとてもよい趣味だと思う。御婦人方との話も弾むことだろう。」

 案の定、イザークは社交に影響があるかどうかを気にして、私が絵を始めたことを喜んでいるようだった。


「確かに貴族の御婦人方の中には、習ってまで始められる方もいるとお聞きしました。」

「……習いたい、ということか?」

 金を出せということか、と言いたげなのが見て取れる。イザークは眉根をひそめたけれど、本当に社交の場で貴族婦人たちと話を合わせるつもりで絵を始めるのであれば、習った方が当然よいと思うのだけれど。


「いいえ。とうぶんは自由に描いてみたいと思っております。もちろん、いずれかの御婦人から教室なり家庭教師をすすめられるようであれば、その限りではありませんが。」

「そうだな、そのほうがよいだろう。」

 イザークがうなずく。これで家で絵を描いてもよいという言質は取った。私は思わずホッとして胸をなでおろした。


 あとは魔石の粉末入りの高級な絵の具を使って描いていることを、知られなければいいだけなのだけれど、イザークは夜の営みの義務の時にも、自分の部屋に私を呼びつけるので、私の部屋に近付くことはない。メイドの出入りにだけ気を付けれは済む話だ。

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