第3話 お試し絵画教室

 私たちが店の中を見て回っている間、店員は常になにがしかの作業をしていて、決して私たちに声をかけてはこなかった。

 芸術家には気難しい人が多いからということと、店内で自由にくつろいで欲しいという理由から、あえてそうしているんだそうですよ?とアンが教えてくれた。


 確かにおかげでとてもくつろいでいた。私は既にこの店が好きになっていた。

 絵を長めながら2階の一番奥にたどり着くと、私はそこに置かれた看板に目を留めた。

「──お試し絵画教室?」

 声に出してそう言うと、室内にいた髪の毛を後ろで1つに束ねた若い女性が椅子から立ち上がり、笑顔で私に近付いて来た。


 なんだか、とてもホッとする笑顔だった。人懐っこくて。それでいて押し付けがましさのない穏やかな雰囲気。こんなにも優しい性格が見た目にあらわれている人を見るのは、アンとアンの母親以来かも知れなかった。

 私も思わず笑顔を返す。すると若い女性は改めて目を細めてニコッとしてくれた。


「絵を描くことに興味がおありですか?

 よろしければ中にお入りになりませんか?

 今なら無料で魔石の粉末入りの絵の具を使って絵を描いてみることが出来ますよ。」

 貴族の屋敷にでも勤めていなければ、平民はきちんとした敬語なんて使えないものだけれど、その彼女は柔らかな物腰で、小ぶりで愛らしい唇から丁寧な敬語をつむいだ。


「はい……ぜひ、お願い致します。」

 私は心惹かれるまま、お試し絵画教室の中へと入って行った。お連れの方もどうぞ、と言われて、アンも中に入る。途端に開いた窓から吹き込む柔らかな風に乗って、絵の具の匂いが濃くなった。


「おふたりとも描いてみますか?お子さま用のベビーベッドがありますので、よろしければお子さまはこちらに。」

 そう言って、ミリアムと名乗った女性は、可動式のベビーベッドを、2つの台の上にそれぞれ置かれた小さなキャンバスの、前に置かれた椅子と椅子の間へと置いてくれた。


 アンはいたくそれに感動して、ベビーベッドにニーナを寝かせた。だが椅子には座ろうとしない。どちらに座ってもいいわよ?と言うと、お嬢様を放っておいてそんなこと出来ません、と焦るように言った。イザークと違って、アンはやめても私を気にしてくれる。


 私が従者も護衛もつけずに現れた時、アンはドアの前で一瞬だけ驚き、悲しげな表情を浮かべたあとで笑顔になった。ロイエンタール伯爵家での、私の置かれている状況を想像してしまったのだろう。やめるべきではなかったと思ってしまったのかも知れない。


 ここにいる間は自分が守ろうと思っていてくれたのだろう。私はアンのその気持ちが嬉しかった。私の愛する妹のような幼なじみ。

「構わないわ。あなたはもう私のメイドではないのだから。私の乳姉妹として、一緒に楽しんでくれたら嬉しいわ。」


 私に笑顔でそう言われたことで、アンは自分も絵を描いてみることにしたようだった。

 私が窓際の日当たりのよいキャンバスの前の椅子、アンがニーナを寝かせたベビーベッドを挟んで隣に座ることになった。

 それにしても、こんなサービスをしてくれる店が存在するのだなと私も感心した。


 高級なレストランには何度か私も行ったけれど、基本小さなお子さまは入店拒否の為、こんなことをしてくれる店はない。子どもが泣いたら静かな店の雰囲気にはそぐわないからなのだろうけど、こういう場所がもっと増えてくれたら、子連れでの外出を楽しめる人が増えるのにと私は思った。


「まずはこちらで下絵を描いて下さい。果物と彫像をご用意しておりますが、モチーフは自由に選んで下さっても構いませんよ?」

 そう言って木炭のペンのようなものを手渡してくれる。すぐに絵の具を使うわけではないと知り、少しだけガッカリしたが、顔には出さず、何を描こうかと考えていた。


 アンは果物と彫像とを見比べてにらめっこしていたが、結局果物にすることにしたようだ。私は彫像を選ぶことにした。

「あっ!今日は駄目よザジー!」

 そこに開いた窓からスルリと、茶色と黒のぶちの子猫が入って来たかと思うと、彫像の乗せられた台の上に飛び乗ってしまう。


 そしてそのまま、日当たりのいい場所に置かれた台の上を、今日のお昼寝場所に決めてしまったようだった。

「もう……。困ったわね。

 ──あ、近所のおばあさんが飼っている猫なんですけど、こうして時々潜り込んで来るんです。絵にイタズラをしないから、普段は放っておいているんですが……。」


 ミリアムさんは困ったように眉を下げて小首を傾げた。

「このまま描いてもよろしいですか?」

「あ、はい。お客様がそれでよろしければ問題ありません。」

「とても可愛いらしいわ。この子を描いてみたくなりました。」


 私はスヤスヤと眠るザジーをまっすぐに見つめ、キャンバスの上へと落とし込んでいった。しばらく下絵を描いたあとで、

「はい、とてもよいですね。本来ならもう少し時間をかけるのですが、本日はお試しですので、このまま絵の具をのせてみましょう。皆さまも絵の具を使ってみたいですよね?」


 とミリアムさんがニッコリと微笑む。私もアンも嬉しくなってしまい、つられてニッコリと微笑んだ。久しぶりに穏やかで優しい時間を過ごせている気持ちになった。

 お試しだから、他の人たちも使っている、使いかけの絵の具なのだけれど、やはりというか、アデリナブルーが1番たくさん使われていて、かなり少なくなっていた。みんなとりあえず使ってみたいのだろう。


 本当はザジーの背景は彫像と壁だけれど、私は背景に空をイメージして、アデリナブルーをキャンバスに乗せた。

 その瞬間、世界がブワッと開けたような気がした。私の周囲を空に覆い尽くされるような、そんな感覚が体を包み込む。

 私は夢中で次々と色をキャンバスに乗せていった。置いた色を乾いたきれいな筆で刷くのが絵の描き方らしい。


 愛らしい子猫が陽だまりの中でうたた寝をしている。曖昧でぼやけた線は、だけれど子猫の柔かそうな毛皮を表現するかのように、フワリとキャンバスの上に広がった。

 アデリナ・アーベレのような写実的な絵は私には無理だった。それでもちゃんと子猫と分かる絵が描けたことに、私はいたく満足すると、輝いた眼差しで自分の絵を見つめた。


「──絵は、楽しいですか?」

 突然背後から男性の優しい声がする。

「工房長!」

 ミリアムさんの声に振り返って後ろを見上げると、ミリアムさんと同じ制服を着た、私の祖父くらいの年齢の白髪交じりの男性が、優しい眼差しでこちらを見下ろしていた。


「……あ、はい。

 楽しいです。とても……。」

 私の言葉に工房長と呼ばれた男性は、うんうんと嬉しそうにうなずいた。

「あなたは以前、特別に絵を習ったことはおありですか?」

 工房長が私にたずねてくる。

「いえ……。特には……。」


 初対面の人に気さくに話しかけられることに慣れていない私は、そのことにとてもまごついてしまい、うまく言葉が返せなかった。

 普段社交らしい社交をしたことのない私のおぼつかない態度を見て、仕立てのよい服を着ているとは思っても、まさか貴族だとは思っていないのだろう。


 貴族同士ですら、名乗られもしないのに自分より上の立場の人間相手に、自分から話しかけるなんてことはご法度だ。ましてや平民のほうから話しかけるなど、無礼扱いされて処分されかねない事柄だからだ。

 私は気にしなかったけれど、そばで見ていたアンがハラハラしながら心配そうに見つめている。従者がいたら大変だったわね。


「とても興味深い絵を描かれますね。」

「……ありがとうございます。」

「いかがですか?こちらでは工房だけでなく絵画教室もやっております。今はあまり空きはないのですが、もし通われるおつもりでしたら、枠をお取りいたしますよ?」

 工房長がそう言って私に微笑んだ。


 ああ。勧誘の為に褒めてくれていたのね。

 絵画教室に通うとなると、当然この店で画材を購入することになるわ。絵画教室のお金と画材費用で2重に儲けようという魂胆なのね。初めて描いた絵を褒められれば、嬉しくて教室に通い出す人も多いことでしょうね。


 ……私のほうにだけ声をかけたのは、私の服装だけが仕立てがよいからなのだわ。

 ここの絵画教室の費用がいくらなのかは分からないけれど、アデリナブルーを唯一作り出す工房だもの。アデリナ・アーベレの名声も相まって、多少お高くても通おうとする貴族や商人もたくさんいることだろう。


「せっかくですけれど、夫に聞いてみませんとなんとも……。ごめんなさい。」

 私の自由になるお金は少ない。とてもそんなお高い絵画教室に通うなんて無理だろう。

 ましてや習い事にさくお金なんてものを、イザークが許してくれるとは思えない。

 お金にならないことに、価値を見い出せない人なのだから。


 この頃の私は、まわりの誰もが敵に見えていた。強くなれない自分すらも責めて、心がすさんでいたように思う。

 だから慈愛の微笑みをたたえた工房長の言葉ですらも、素直に受け取ることが出来なかった。そんな人間不信丸出しの私に、彼は思ってもみない提案をしてきたのだ。


「……そうでしたか、それは残念です。

 それであれば、よろしければ、こちらの画廊にこの絵を飾らせていただけませんか?」

「え?」

 私は工房長の申し出の意図が分からず、思わずキョトンとして工房長の顔を見上げた。


「ああ、もちろん、教室に参加された記念にお持ち帰りになられてもよろしいのですが、もしも引き取らせていただけるのであれば、お礼にこの絵の具をいくつかと、筆のセットと、小さいキャンバスをいつくか差し上げましょう。」

 そう言って工房長は教室の隅に置いてあった、絵の具と筆の入った木の箱と、小さな真っ白いキャンバスを5つ、それと小さなイーゼルを私に差し出して来た。


 おそらくは予備か、ううん、わざわざ木箱にキレイに揃えられて入っていたから、気に入って購入したい人の為のものだろう。

 36色の色とりどりの美しい絵の具たち。アデリナブルーも当然入っていた。魔石の粉末入りの絵の具だから、当然1つ1つがとてもお高い筈だ。それが36色もですって!?

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