第2話 アンの家

 アンの家は森の近くの村の奥深いところにあった。近くに畑もあるし蝶々が飛んでいたり、花の咲き乱れる場所があったりと、自然豊かで過ごしやすそうだった。

 馬車がこれ以上道に入れなかったので、途中でロイエンタール伯爵家の馬車を降りる。


 御者は馬車で待つというので、護衛もつけずにアンの家に向かう途中で、走って来た子どもたちとすれ違う。みんな楽しそうだ。

 アンがメイドをやめてからというもの、私は常に一人だ。代わりの私専属の従者も護衛も、イザークはつけてくれなかった。


 従者もなしに一人で歩いている貴族婦人など私くらいだったが、気が付いたうえで必要ないと思っているのか、興味がなくて家令に指示をしないのか。おそらくは後者なのだろう。私をナメているメイドなんて付けられても不愉快なだけだし、身軽かつ気楽な時間が出来るので、今はむしろこれでいいと思う。


 アンの家は木造りの2階建てで、中古物件とはいえ平民の新婚夫婦が住むにはかなり贅沢なほうらしい。

 アンの夫となったヨハンは、ロイエンタール伯爵家にも出入りをし、野菜を大量におろしている農家兼小売業者の為、平民の中では割と裕福だといえる。


 家の周囲にはアンが育てているのだろう、たくさんの花の植木鉢が並べられ、とても可愛らしい雰囲気だった。柵はないから庭と言っていいか分からないけれど、隣近所に家がないから、広い敷地をふんだんに使って、赤ちゃんとアンとご主人のものと思われる洗濯物が風にはためいていた。


 私が手に入れたかったものが、ここにはすべてある気がして、アンを祝いたいのに何だか胸がチクリと傷んだ。

「──お嬢様!!」

 ドアを開けるなり、アンが嬉しそうな表情を浮かべて玄関で出迎えてくれる。


「お嬢様はやめて。一応結婚してるのよ。そんな風に呼んでくれるのは、もうあなただけだわ。」

 私は苦笑いを浮かべてそう言った。

「でも、お嬢様はお嬢様ですから。

 私と2人だけの時はよろしいでしょう?」

 アンが甘えたような仕草でそう言ってくる。


「もう、仕方がないわね。分かったわ。」

 そう言って微笑むと、アンは嬉しそうに子どもの頃そのままの笑顔で笑った。

「主人は仕事で出かけてるんです。お昼は食べに戻って来ますから、一緒に召し上がって下さいね?」

「ええ。楽しみだわ。」


 アンについて家の中に案内され、テーブルの前の椅子をすすめられて座った。

 お下がりを譲って貰ったのだろう。テーブルの脇に古びたベビーベッドが置かれ、そこに可愛らしい赤ん坊が、スヤスヤと寝息をたてていた。


「この子がそうなのね?可愛らしいわ。」

「はい、ニーナと言います。」

「アンの小さい頃にとても、よく似ているわ。きっと可愛らしい女の子に育つでしょうね。鼻は旦那様似かしら?」

 アンは鼻が低いけれど、眠っている赤ん坊はきれいな鼻筋をしていた。


「そうなんです。コンプレックスだったから、それが一番嬉しくて。」

 アンは自慢そうにそう言った。

 それからアンお手せいの焼き菓子とお茶をいただいた。優しい味。私の乳母だったアンの母親から引き継いだ味。何度も子どもの頃から食べた味に、まだ幸せだった頃を思い出して何だか泣きそうになる。


 アンは私に子どもが出来たら、乳母として復帰させてくださいね?お嬢様のお子さまは、必ず私が面倒みますから!と気色ばんでくれたが、私はこのまま子どもが出来ないほうが、捨てられる時に心残りがなくていいと思っていたから、素直に喜べなくて言葉を濁して曖昧に微笑んだ。


 2人でおしゃべりを楽しんでいると、アンの夫であるヨハンが仕事から帰って来た。何度もロイエンタール伯爵家で顔を合わせていたから、ヨハンとも顔見知りだ。もちろんいつもはメイドたちが対応するから、私が直接話すのは、用事があってなおかつ、ヨハンとアンの話がしたい時に限られるけれど。


 ヨハンは脱いだ帽子を胸の前に当てて、嬉しそうに私に挨拶してくれた。幼い頃からアンと一緒に育った私は、雇い人の娘と従者という関係ながら、姉妹のような幼なじみのような関係でもあった。だから本当は結婚式にも出たかったのだけれど。


 義母に伯爵夫人が従者の結婚式に出るなんて体裁が悪いと責められ、諦めることを告げる際、アンの前で子どものように泣いてしまった。せめて自宅に祝いに行くことだけは、人に見られないから許して欲しいと頼み込んで、ようやく受け入れて貰ったのだ。


 それを知っているヨハンは、私をアンにとって大切な人だと思ってくれているみたいだ。イザークの指示で家令から預かった祝い金を手渡すと、ヨハンは平身低頭でお礼を言ってくれた。

 私からはお金は渡せなかったけれど、女の子だとは事前に手紙で聞いていたので、私のドレスを縫い直して、ニーナのドレスを作ってプレゼントした。アンもヨハンも喜んでくれた。


 アンとヨハンとともにお昼をいただく。ヨハンが育てた取れたての野菜を使った料理はとても美味しかった。ニーナにもお乳をあたえ、アンがニーナにゲップをさせているのを微笑ましく見つめる。ヨハンが再び仕事に戻って行ったあとで、アンがこのあたりを散歩してみませんか?と言ってきた。


「じつは近くに、有名な魔法絵師用の絵の具を作っている工房があるんです。」

「へえ、それは知らなかったわ。」

「工房ですけど、お店も開いているので、見てみると楽しいと思いますよ?」

「──こんなところで店を?」


 はっきり言って街からだいぶ離れているし、お客がたくさん来るとも思えない。それなのに、こんなところでわざわざ?

「なんと、あのアデリナブルーを作っている唯一の工房なんです!だからこんなところまで買い付けにくる人がいるんですよ。」


 アデリナ・アーベレ!

 今最も有名な女流魔法絵師だ。公爵令嬢ながら芸術学校を主席で卒業し、その卓越した写実性の高い作風もさることながら、彼女が使用したことで一躍有名になり、通称アデリナブルーと呼ばれる空の美しさと、そこから今まさに飛び立たんとするかのような蝶や鳥たちがモチーフの人気の魔法絵師だ。


 イザークが購入した絵の1つで、我が家のホールに飾られている絵も、アデリナ・アーベレが描いた最も号数の大きな絵で、それ一枚で伯爵邸をもうひとつ建てられると噂される程の価値がある。

 イザークが購入したものの中では、私は唯一それが好きだった。


 美しくどこまでも澄み渡った空から飛び出してくる大鷲の背に乗って、私もどこまでも一緒に飛んで行けそうに思えたから。

 私は孤独な家の中でただひとり、その絵を眺めては慰められていた。この家を出たいと強く思ったのもその頃だ。

「……行きたい。行ってみたいわ。」


 私がそう言うと、アンは嬉しそうにニッコリと微笑んだ。

 ニーナはアンといると安心しきっているのか、知らない人の前や、知らないところに連れて行ってもあまり泣かないのだそうだ。

「おかげで割とニーナと一緒にお出かけしやすいんです。」


 アンはそう言いながら、ニーナのかえのオムツや着替を2種類、敷物、玩具、授乳ケープ、おしぼりをいくつか、それを使ったら入れる為の布袋、ハンカチを数枚、赤ん坊が眠った時用のおくるみなどを準備した。荷物が多いのね、と言うと、アンは、いつもこんなもんです、と笑った。


 アンは前に抱っこ紐でニーナを、後ろにニーナの為の荷物を背負って、いざ出発!と嬉しそうに私と家を出た。

 森の脇の道をひたすら真っすぐ歩いたところにその工房はあった。3階建てのレンガ造りで、2階の窓に3つ並んだ花の植木鉢が置かれているのが見える。


 3階部分はおそらく屋根裏部屋なのだろう。1階や2階部分と比べると高さが低い気がする。レンガ造りで3階建ての建物を建てられるということは、小さな工房ながらかなり儲かっているのだろうことが伺えた。木々に囲まれたその建物は、一見するとまるでレストランのような外観だった。


 工房というと無骨な職人たちの集まる小汚い場所を連想していただけに、ちょっと意外な美しさだった。やはり芸術に関連する商品を取り扱っているだけに、外観にも気を配っているのだろう。基本は工房だからか店名の書かれた看板のようなものはなかった。ドアを押して中に入ると、チリンチリンという可愛らしい鈴のような音が鳴り、静かにいらっしゃいという声がした。


「わあ……!素敵ね……!」

 私は思わず簡単の声を漏らした。

 2階まで吹き抜けの店内には、絵の具だけでなく様々な画材が見やすく並べられ、それだけでも絵を描かない人間でもワクワクする。

 2階部分につながる螺旋階段の上の一部は簡易な画廊になっているらしく、様々な絵が飾られていることが1階からでも見て取ることが出来る。


 ひときわ目立つ場所には、アデリナ・アーベレの絵と思わしき作品も飾ってあった。

「店の裏手が工房と絵画教室になっているんです。生徒さんたちの絵も飾ってあるんですよ。あとで見てみますか?」

 とアンが教えてくれた。

「ええ!ぜひ見たいわ!」


 絵画教室!なんて素敵な響きだろうか。芸術学校に通わずとも絵が習えるということだ。

 遠目に見た生徒の作品だというそれらも、まだまだ荒削りで稚拙さも感じられるものの、まるできちんと学校に通っている生徒たちのものであるかのように、作品として見て楽しめるようになっている。


 ここで習えば私もあんな風に──アデリナ・アーベレのように、自由な絵を描けるようになるだろうか?

 そうすれば、この心ももっと慰められるだろうか。いや、きっとなるに違いない。

 私は一気にこの工房の虜になってしまったのだった。


 アンとともに店内を見て回る。独自開発しているという絵の具はどれも興味深かったが、やはり特にアデリナブルーの美しさに心が惹かれた。アデリナ・アーベレはこの絵の具をただ塗り重ねているというわけではないけれど、やはり絵の具自体の発色の美しさは目をみはるものがあった。


 この色を使って絵を描いてみたい。この絵の具を前にすると、誰もが抱くであろう感情が、私の中にも確かに芽生えたのだった。

 続けて2階に上がり、展示されている絵を眺めた。生徒たちの絵はどこかみな自由な感じがして、貴族の家や美術館に飾られている絵では決して感じることのない、楽しい気持ちにさせられた。

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