公家と薬売り

 戦国時代、京の都では応仁・文明の乱によって公家たちの邸宅の多くが焼け落ちてしまった。生活が一気に貧しくなった公家たちのなかには、自身の教養の高さを用いて和歌の添削や古典の書き写しなどで生活費を工面する者もいたそうだ。


* * *


 都が焼け野原となる遥か前が恋しいものよのう。以前は持っていた荘園(公家などの私有地)から得ていた税で生活を送っていたが、まさか横領されるとは…。警護に就いていた武士たちが税や年貢を信じていたのに横取りするとは夢にも思わなかった。時代の流れかのう。収入はかなり減っていくのに、朝廷への出仕は変わらずで生活は苦しくなっていくばかり。挙句の果てに、戦によって住んでいた館が焼け落ちてしまった。私は、官職を辞さるを得なかった。虚しいことよ。今は、昔から縁のある寺の者が用意してくれた小さな家屋で何とか生きておる。


(和尚殿には感謝しかないのう)


生活面での費用は、なんとか和歌の添削や古典の書き写しで賄えている。昔から多くの書物や歌に囲まれてきたお陰だな。


(筆は剣より強し、といったところか…)


そう言えば、この生活になってから心が不思議と穏やかになったかの。生活は苦しいが、朝廷に仕えていた頃は、他の者より偉くなろうとばかり考えて、常に嫉妬で胸が一杯であった。だが、今はそれがない。随分と楽なことよ。そう思うと、筆が走るものだ。


「んっ!」


楽ではないことがあった。ここ最近、肩がひどく凝るのだ。長く筆を走らせるほど、身体に負担がかかって凝りがひどくなっていく。このままでは作業に支障が出てしまう。そうすると生活が…。あぁ…。


(少し休もう。気分転換に外に出てみるか)


私は筆を置いて、家から出た。


(さて、どこへ行こうか。……。ああ、今は桜の見頃であったな。寺の近くの丘の上にもあったはずだ。そこへ行ってみよう)


自宅から寺は近いので、丘にはすぐに着いた。実に見事な桜であった。館で梅の花が咲いているのを幾度も見てきたが、自然の中で自由に咲き誇っているほうが実に美しいものである。私は、しばらく見惚れていた。


「もし、そちらのみやびなお方」

「ん?」


突然、背後から声をかけられた。誰だろうか。見ると、少し離れたところで木箱のようなものに腰掛けた若い男がいた。何やら顔に黒い面をつけておるぞ。もしかして、能楽の者か?あたりに私とその者以外に人はいなかったから、私のことなのだろう。


「私に何か?」

「はい。こちらの桜とまるで絵になるように立っていらっしゃったので、お声をかけた次第です」

「そうか。それは有難いの。…この近くで住んでいる者か?」

「いえ、私は西へ東へと移動する薬売りでございます。ちょうど、こちらの桜が見頃と伺ったもので伺いました」


なんと、男は薬売りなのか。面妖な…。気になったので、その者に近づいた。


「ほう、薬売りであったか。てっきり能楽の者かと」

「よく言われます。この面は顔の傷を隠すためにつけているのですよ。武士や足軽の方々に薬を売りにとある戦場に赴いたところでやられました」


(武士か…)


「実に野蛮な連中よ」

「まあ、皆さん、生きるために必死でしたからねぇ。そういえば、そちらは?」

「私か?私は…、そうだな…、かつて都に暮らしていた者だ。武士たちが放った火で住んでいた所が焼け落ちてな。今はこの近くで和歌の指導や古典やお経といった書物の書写などをしておる」


何故だろう?この男には恥ずかしがることもなく身の上話を話せてしまう。不思議なことだ。


「それはそれは。とても教養が深いのですね。羨ましい限りです」

「そうか?都では、あまり出世の道具にもならなかった」

「そんなことはないと思いますよ。今は、役立っているのでしょう?」


男は私に微笑みかけてきた。全く嫌味が感じられないものであった。


「あっ、でしたら、何かお悩みのことはありませんか?私の道具もお役に立てるかもしれませんよ?」

「ふっ、逞しいな。…そうだな。悩みといえば…、肩凝りかの。長く書写をしておると、かなり肩にくるでの」

「肩ですか…」


男はすぐに木箱から薬のようなものを取り出した。


「こちらはいかがでしょうか。痛み止めの『岩崩し』でございます」

「随分と変わった名の薬だな」

「こちら粉薬となっておりまして、寝る前に水と一緒に飲みますと翌日には肩の凝りがなくなっているという優れものでございます」

「なんとっ」


欲しい。今の私に必要なものだ。


「ここで出会えたのも何かのご縁。お代は貴方様の書写で生み出された書物を1冊でいかがでしょうか?」

「それで良いのか⁉︎なら、すぐに用意しよう。何か希望はあるか?」


てっきり高額な薬だと思っていた。


「そうですね、御伽草子など子供たちが喜びそうなものでお願いいたします」

「分かった。いいぞ」


私は男を連れて家に急いで帰った。家にある物で男の希望に該当するものは、だいぶ前に試しに書き写したものであったが、男に見せると大層喜んでいた。男は紙に包まれた痛み止めの薬をなんと5つも私にくれた。その後、何度も私にお礼を言って男は去ってしまった。


………


……



その晩、男に言われた通りに薬を寝る前に飲んだ。すると、翌朝には肩の凝りが消えており、異常に軽く感じられた。


(なんてすごい痛み止めなんだ)


それからの私は、毎日が充実していた。作業が捗り、仕事が楽しくて仕方がなかった。自然と笑顔でいることも増えた。


(あの薬売りには感謝しかないのう。また会いたいものだ)


* * *


 昔、あるところに都から逃れてきた貴族がいたそうだ。男は物書きとして暮らしていたが、ひどい肩の凝りに悩まされていた。しかし、ある薬を飲んだことで肩は異常に軽くなった。喜んだ男は今まで以上に働いたそうだ。しかし、ある日のこと。男は家で亡くなっているのが見つかった。過労であった。男の家に残された山のように書き写された書物は、字が綺麗で読みやすいと評判になり、高値で取り引きされたそうだ。

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