【16】最終場面「イフラ少尉」

 周辺には黒い板金がいくらか転がっている。【逆さ蕾】はついに「死んで」しまった。

 ……だが、それ以上の結果ではない。

「僕の隠密術が破られるなんて……ぶっちゃけ、信じられねえっすねえ……一年間、いたいけな少女と乳繰り合ってただけの男っていうっすのに」

「俺の生身を傷つけたくば、五年後にまた挑むことだな。それぐらいなら、俺も鈍るだろうし、お前は精進していい塩梅となるだろう」

 逆を言えば全力を出しても、やっと逆さ蕾を打破するぐらいしかできない。ヒオビにとって、目の前にある壁は、ずっと大きな壁で在り続けた。打ち壊すことができない己の非力に、感情にできない呻きを何度も上げる。蝙蝠の超音波を連想させる、金切り声だった。

「中佐ぁ。一つだけ、負け犬として言っておきますよ」

「聞いておこう。それが、せめてもの情けだ」

「っくぁー……マジで泣きてえっす。っつか泣いてるっす」

「男はそうして成長するものだ。俺もそうであった」

「中佐は全てが別格じゃないっすか。参考にならんすよ」

「他人を当てにして生きることなんてできないさ。自らの信じる道を歩むしかないんだ。俺も、メモリも、ヒオビも、全員な」

「僕が言ってもカッコつけにしかならねえってのに、中佐が言うとこれだからなあ。なんか、モリさんと初めて会った時を思い出すっすよ。ビビッときましたっす」

「無駄話はいい。それは悪癖だぞ。もっと簡潔に済ませろ。余分な装飾はいらない」

「いっつも婉曲な言い回ししてる中佐に言われたかねえっすよ。それに、情緒がないっすねえ。……僕もね、中佐以外にも世話になった人はいるんすよ。その人が吐き捨てたことは、わりかし僕の心に残ってるんす。『俺の好きな女はただの小さい女の子じゃない。だが、小さい女の子だ』ってね。まあニュアンスはかなり違うんすが、中佐にはぴったりだと思ったんす」

「ついでに訊かせてもらおう。そいつは、誰だ?」

「誰でしたっすかねえ。モリさんと中佐以外の男に、僕は記憶容量を使いたくないんすよ」

 もうそれ以降、ヒオビは口を開かなかった。


 いざ行かん、セゴナへ。

 招待された時と違って船はない。港も軍で封鎖されている。陸路で行く他の手段がない。短くない旅だ。……それでも、たどり着いた先に希望が、未来がある。

 逆さ蕾はこの世界にもうない。カサツシ=ミケンシ特務中佐という過去を完全に捨てられたカサツシは、そのぽっかりと空いた空間を、希望で埋め尽くした。もはや、一刻でも早く全身を希望で沈めたい。疲れて傷ついた身体も、高揚した精神の前ではただ従うしかない。

 イフラをその大きな背中で背負い、安住の地への歩みを止めない。

「……重いから、嫌なんじゃなかったの?」

「メモリは一つの荷物としてみれば重いが、一人の人間としてみれば軽いからなあ。流石の俺も、この軽さの人間なら運ぶ気になる」

「……ふん」

 女に体重の話などするものではない。だが例外ではない彼女とて怒る気にはなれなかった。

「ねえカサツシ」

「なんだ?」

「『カサツシ中佐。ご達者で。活躍を心より願っています』だってさ。どっかの私みたいな顔してる女が言ってた」

「…………。その少女は、どんな表情をしていた?」

「知らない。……ただまあ、笑ってたんじゃないかな」

「そうであるといいな」

 イフラは少し身を前に出してカサツシの横顔を見る。想いが叶った少年のように煌めく瞳。

「俺は一年間、研究をしながらずっと考えていた。俺にとってメモリとはなんぞやと」

「…………」

「それでも、答えなんて出なかったよ。娘とでも思ってるのか、妹のように感じているのか、――それとも、恋をしているのか」

「…………」

「どうだっていい。お前と一緒に居られるなら、どんな関係だっていいんだ。どうせ俺は社会的に死んだも等しい。身よりがないんだ。だが人は一人で生きられない。そんなとき、傍に居てくれるのが、自分を愛してくれるなら――これほど幸福なことはない」

「…………。ばか」

 こうして、イフラ=モシツ=メモリという少女は、本当の意味で少女となった。

 ――もう、【自分】は本当にお役御免です。

 ――散り際こそ潔く。消えてしまいましょう。


・・・

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