【12】第十四の場面「大人な一時」
「「「「乾杯!」」」」
現在、午後五時。セゴナは公私の使い分けが上手い民族と云われている。夕方には職務を終えるので、慣習的に太陽が沈んだらそこからは公私の私だ。しかもお祭り好き。人の喧騒を感じると、わらわらと地面に撒いた砂糖に群がる蟻のように集まってくる。城へ住まうのは政治家のみなので、参加者のほとんどがそういった職業の身。ここでなにか事故があったら世界が揺るぐほどの面々が、若者のように騒ぎ立てるのは、冗談としか思えない。
「イフラ様。始まっちゃいましたよ」
「でも、やっぱり、この格好は、あまりにも……」
「お似合いですよ。ですからこちらへいらっしゃればよろしいのに。それに、カサツシ様に喜ばれたくないのですか?」
「うぅ……」
どうしてこんなことになってしまったのか……そう思うのも仕方がない。
一騎討ちが終わった直後、ミナヤは近くに控えさせていた使用人へお達しして、イフラを連行させた。たった一人のための臨時列車に乗せられ、セゴナ城へとんぼ返り。
夕方にカサツシとサフの健闘を湛えたパーティがある。折角だし綺麗になって驚かせてやればいい、パーティとはそういうものだ、などと使用人たちに説得された。腑に落ちないまま、使用人に身を委ね、みるみるうちに変貌を遂げていくは我が肉体。
イフラは舞踏服で飾っている。歳相応の少女らしく桃色。使用人の手によって化粧などもされている。鏡の向こうにいるイフラは、まさに別人。化粧も自己主張が激しくならない程度に薄く施されていて、蕾が綻ぶ直前の色気を醸し出している。
――普通に、少女。実験体は同じでも、これほど変わってしまうものなのですか。【自分】は女たちが編み出した男を喜ばせる業に、ただただ感服するばかりです。……いや、女として成長したからなのでしょうか。
「美味しい料理も待ってますよ」
よし、とスタスタ歩いていくイフラ。決して食べ物に釣られたわけではない。育ち盛りだとか、そういうわけではもっとない。
会場の扉を豪快に、バアンと開く。
分厚いとは言っても十センチ弱しかない向こう側には、華やかなパーティそのものが展開していた。ワゴンには軽食やワインが並び、各々が好き勝手に舌を楽しませては、談笑の潤滑油としていく。疲れた日々の娯楽の一時。
これで今日の昼ごろ、突然ミナヤが「準備をしておくように」と命じただけで、それ以上明確な指示はしていないのだという。真意を汲み取り、それを実現する使用人の底力に呆れる他ない。言う方も言う方なら、やる方もやる方だ。
イフラは中心部の方で、カサツシを認める。見るからに博識そうな中年女性や、一見何処にでも居そうではあるのに次から次へと専門用語を発していく好々爺など、十人十色な人々に囲まれていた。物理的にも精神的にも枢軸なのがカサツシ。恥ずかしさと緊張が綯い交ぜになった顔。誤魔化すために、ワインによって紅潮した頬を表情筋で強引に持ち上げているカサツシは無理をしすぎている。まだこちらに気付いていない。
『カサツシ氏の研究は、セゴナでも半分くらいの人しか読解できませんから、特段そういうわけでもありません』
『おそろしい。教養を疎んじる傾向の強いレチクラでは、国全体で両の手と足を使って理解できる知識人がいれば良い方と踏んでいましたから。内容は簡単にしたつもりなんですがね。はたまた、そうしたことによって逆に分かりにくくなってしまったか』
『しかし戦場で恐慌状態に陥った兵士が――』
『【プゥァトバック症候群】のことでしたら――』
『それでは根本的な解決にはなりません。やはり【侵入心】で瞬間的に――』
イフラには、その会話の言葉が通じたところで、その内容を一割も知識とすることは無理だ。する必要もないが。ただの少女は戦場の知恵などなくていい。
「やほおおおおおおモリさんがああああああ!」
「邪魔」
このお伽噺の夢世界を崩さぬように、蹴りを一発だけ当てる。
「……招待された人じゃないと参加できないって聞いたけど。どうやって入ってきたの」
「モリさんがドレス着るって聞いたもんで、すっ飛んで戻ってきましたっす。城の門を『開けろー! 開けないと呪うぞー!』と三十分くらい叫んでましたら神さんがやってきまして。『イフラの通訳をしてやってくれ』、なあんて言うわけっすよ。いやー、神さんは神さまさまっすねえ。話の分かるお方っす」
礼装として軍服を着ているあたりはいかにも軍人らしい。周囲の雰囲気とかなり浮いているが、ヒオビという個人が最大に礼儀を払った服はこれなのだから、気後れする理由はなにもない。……なのに、軍人の使命を真っ当しているわりには、任務の真っ最中であろうが、イフラを常に優先するのが、ヒオビ=バト。その思い切りぶりは、いつだって不変なもの。過去から現在に至るまで、ずっと。
「通訳。……もう、意味ないんだけどな」
「え!? 僕はお役御免でもモリさんに付き纏うっすよ!?」
「いっそ気持ちがいい」
イフラの言ったことの意味。阿呆なことで返してはいたが、ヒオビはその真意に気付いた。ニヤリと邪悪に笑った後、いつものしまりのない笑顔で上書きする。
「ふ~む。しっかし、……いいっすねえ」
ヒオビはニヤニヤニヤニヤニヤ、ねちっこくじっとりとした視線をイフラへ浴びせる。
「こんなもん、僕が独り占めしてたら罰あたりっすね。はやいとこ、中佐にも見せてあげてくださいっす」
「へ、変じゃないかなあ……」
「僕は駄目なものは駄目とはっきり意思表示するっす。例外は、モリさん関係だけっす」
「それって当てになんねえ」
堂々と「どんな格好でも可愛い」宣言をした者の意見を参考にできるものか。
「モリさんも緊張してるかもしれねえっすけど、中佐は中佐でとんでもねえことになってるっすから、早く救援してやってください」
「カサツシはどうなってるの?」
「さっきまで守隊の面々に囲まれてたっすね。是非俺ともタイマン張ってください! みたいな熱い告白されてたっす。中佐の逆さ蕾は、そうそうあるもんじゃないっすからね。しかも強いとあらば、そりゃあ闘わないともったいないっすもん。必死に守隊へ勧誘してたっす」
「カサツシって、今も強いんだ」
自らのことではないのに、それが自身のことのように嬉しくなってしまう。
「その波が収まったと思ったら、今度はやばいド偉い学者さんたちに囲まれてカッチンコッチンになってるんすよ。あれは爆笑もんっすね。てめえは女の子の匂い嗅いだだけで興奮する思春期の学生か、っつうくらいしどろもどろっすから」
「あはは。変なのー」
「っすから、行って和ませてやってくださいっす」
いつもと変わらぬ日常そのままのノリでヒオビと会話していると、それだけで毒気を抜かれてしまう。おかげで少しは緊張も解れて来た。勇気の一つも湧いてくる。
使用人とヒオビの後ろに隠れながら、特に大きな集団の中心部へ、イフラは突入していく。
――悲しいことに。あの二人はどんどんと離れていきます。ですが【自分】はもう、あの小さな空間に入り込むことは永遠に不可能。せめて、そのときまで来るまで『観察』をしつつ、間近で幸せを願いましょう。それが精一杯。あの人だって、似たような気持ちでいるはずです。
『お、影の主賓がいらっしゃったのではないですかな』
お偉いさんとやらの一人がイフラに気付いた。それを聞いたカサツシは、やっとイフラの来場したことに気がついた。
『あっと。しかし、折角ご高説を拝聴していますのに――』
『いいんですよ。我々はいつだって口を開くことはできますが、少女の機嫌は、秋雨のように移りゆくものなのですから。ここぞという時分を見誤ってはいけません』
なにやらかを傍にいる妙齢の女性に諭されたカサツシ。『すみません、それでは失礼します』と一言断り、ぱっぱと身なりを整える。男としての礼儀だ。
ワイングラスをテーブルに置き、イフラの正面へ立つ。吐く息には酒臭さが混じっていた。
「あー……ごほん」
咳払いを一つ。格好つけなどもしている。何度もイフラの全身を眺め、感嘆の熱い息を吐き、呼吸を整える。戦時とも違う、女性と応対する真摯さで、イフラの瞳を見つめる。
衆人環視に晒されているが、だからこそ、カサツシの目には一人しか映っていないという事実に、イフラは酷くクラクラする。頭に血が上り何も考えられない。脳味噌に繋がる血管がドクドク脈打っているのすら感じてしまう。これだけで倒れてしまうのではないか。
カサツシは、イフラをかどわかす言葉を紡ぐため、その口を開く――
「馬子にも衣装」
「帰る!」
――……むしろ、それ以外の言葉は必要でしょうか。【自分】すらもイフラに同情します。
「まあ待て。俺が悪かった」
ケラケラと笑うカサツシ。酒が入っているためか、やけに明るい笑顔を振りまく。
「似合ってるよ。凄く綺麗だ。言葉が出ない」
「…………」
カアっと、カサツシが飲んでいた赤ワインのように頬が紅潮していく。
その言葉が嘘でないことを証明するためなのか、カサツシの人間の体温以上に熱が籠った視線は、優しく、しかし荒々しい。「男」の目。イフラを女として見ている。小さく「……合っててよかった。よく似た別人で試してるかと思った。女は化粧で変わりすぎるな」と呟いていたりもしていたのだが、浮かれ気分なイフラは聞き取るほど脳味噌が活発になっていなかった。
『妻の若かりし頃を思い出しますな。あのころは、贈り物を一つしただけでお互い恥ずかしく、顔を合わせることもできなかった』
『歳の差夫婦。セゴナにはなかなかいませんからね。異文化と出合うと、これまた違った愛の形が見えてきて、わたしはより愛を追及したくなります』
「……見世物にされているな。外へ出ようか」
カサツシはそっと手を差し出す。おずおずカサツシの手のひらに重なるイフラの小さな手。ぎゅっと握りしめられ、バルコニーまでエスコートされる。その動作も、なんだか大人の世界へ仲間入りしたような気がしていまい、イフラは顔を俯かせる。
『――――』『――――』
バルコニーまで来たが、どうやら先客がいるようだ。声の調子からして、若い男女の組み合わせ。あまり邪魔するものでもない。別の場所へ移動しようとすると、ちょうどその先客が屋内へ入ってきた。見覚えのある顔だ。
『おや。カサツシさんではないですか』
つい数時間前、カサツシと激闘を繰り広げた男、サフ=シロだ。傍らには紅い髪の使用人を引き連れている。
『サフさん。先ほども問いましたが、傷はありませんか?』
カサツシがセゴナ語で応えた。
『逆さ蕾は身体の内部へのダメージも大きかったのでしたっけ。大丈夫ですよ。あったとしてもミナヤ様の治癒魔で完全に直りますから。死にさえしなければ復活できるほどの気持ちよさですからね、あれは』
『あれは凄かった。この世界の悦とは、およそあれに集結しているのではないでしょうか。子供は皆、ミナヤ神に抱きすくめられるために生きていると、そうとすら思えます』
『それに……言っておきますが、最後以外はまともに攻撃を食らってませんからね!』
『あっはっは! そりゃそうですね。お互い、綺麗な勝敗とはいきませんでしたから』
いつのまにやら、かなり親しげだ。刃を交えた者同士、通じ合えるものがあるのだろう。ヒオビの言うことが正しければ、イフラがドレスの着付けをしている間、守隊と親交を深めていたようでもある。
『サフさんはこんなところで何を?』
『試合に負けたことを、先輩たちにからかわれすぎまして。お前はまだまだ未熟だな、と。心が弱いつもりはないのですが、男だってたまに折れてもいいじゃないですか。黄昏ていたんですよ。そうしたら、彼女にまでからかわれる次第で』
『恋人ですか?』
『彼女は知り合いなだけですよ。今はこうしてカサツシさんがいらっしゃいますから、本業を全うして無口になってますが。いや、これが口が悪くて』
その使用人はカサツシとイフラの前では、目を瞑ったまま微動だにしなかった。いかなる時でも、これが使用人の佇まい。しかし公私の私では、かなり親しい仲のようあった。サフがやや緩んだ表情をしている。信頼でいる者たちだからこその、雰囲気。
『はっはっは。男の友達になれるような女性とは、えてして口が悪いものですね。なんなのでしょう、こんなところまで古今東西にならなくてもいいと思うのですよ、俺は』
――カサツシの言葉は、ちょうどイフラと……彼の関係と似ています。これを聞いて、どう思うのだろう、あの人は。
『そちらは……イフラさん、でしたよね。カサツシさんにとって、彼女は?』
『俺の家族みたいなものです』
『へへえ。…………。嘘をおっしゃってますね』
サフのたった一言に、カサツシが言葉を詰まらせる。
『戦闘力で負け、戦略で負け、知識で負け……果ては、伴侶の有無でも負ける。いやいや、今日だけでどれだけ泣きたくなったことやら』
そんな世辞に、イフラは顔を赤くする。カサツシは褒めるということを知らないし、ヒオビはウザさすら感じるほどの賛辞しか贈らない。こんなさらっとした世辞は、これまでイフラは触れたことがなかった。
『おっと、昨日、イフラさんにはきちんと挨拶をしていませんでしたね。サフ=シロです』
『こんばんは。イフラ=モシツ=メモリです。あ、メモリ=モシツって名乗った方がよかったでしょうか』
あまり人慣れをしていないイフラであるから、応対の仕方が今一分からっていない。見よう見まねで挨拶の言葉を紡いでみた。
「はあ?」
イフラの起こした自然な行動に、カサツシは疑問の声を出す。
「メモリ、お前、」
「まあ、ちょっとね」
なんでもないことのようにイフラは言った。事情を掴めていないサフは、首を傾げている。
『ごめんなさい。カサツシのせいで、守隊、でしたっけ、入隊できなくなってしまったのでは』
『もっと楽にしてください。別にわたしは、負けたことに恨んだりはしていません。守隊は完璧を求められる。まだ未熟者なわたしには、時期尚早だったのです。試験はまた受けられる。それまでの課題を、カサツシさんのおかげで見つけることができました。感謝してもしきれないくらいです』
爽やかに笑うサフは、社交辞令ではなく、本当にそう思っているようだった。
『……羨ましいです』
イフラのセゴナ語は堅苦しく、敬語口調でしか喋ることができなかった。
――その口調でのセゴナ語。とても懐かしいものです。
『羨ましい?』
『なんて言いますか。……男の世界、ってやつです』
イフラの言葉に、男二人はなんのことやら、と顔を見合わせる。どうしてかイフラは、嫉妬を覚えているのだ。
『……勝てません。私じゃ、カサツシの気を引けません」
イフラがそう言うと、使用人がサフの袖をちょいちょいと引いた。振り返ったサフの耳元に使用人が顔を近づけ、二、三言交わす。深く頷いたサフが、次にため息を吐いた。
『すみませんが、それではわたしはこれで。守隊に呼び出されてしまいました。戦いの感覚を忘れぬうちに、訓練をつけてやると』
『いいことです。俺も中佐時代はそうやって部下をしごいたものだ』
『おお、怖い怖い。もしそうなら、なんとか守隊の目論見を防がないと』
『ははは。そうですね、楽しそうです。セゴナにくる理由の一つに加えておきましょうか』
『やぶ蛇でしたか、あははは』
イフラにはしっくりとこないやりとり。
そうやって笑いあっていた二人だが、サフは表情をそのままに、カサツシに近づく。小さく、イフラにだって聞き取れない声で囁く。
『(……一つだけ忠告しておきます。レチクラ軍に大きな動きがありました。カサツシさんの研究所でしたっけ、そこを襲撃する計画があるようです。幸いなことに、カサツシさんが外国に居ることは知らないようですが)』
『(…………)』
『(この情報をどう調理するかは、カサツシさん次第です)……では、わたしはこれで。色よい答え、期待はしてますからね!』
最後は大きな声で叫びながら、サフと使用人は会場へ戻っていった。
そうして、残されたイフラとカサツシ。
夜風がイフラの熱を少しずつ奪う。燃えている体内は、空気との境界線を強固なものとする。過敏になった感覚が、カサツシをより強く捉える。
「お疲れ様、カサツシ。すごいパーティだよね」
気恥かしくなり、そんな当たり障りのない言葉を投げかける。
「あれは宴会と称したいが。なんであそこまで偉い方たちが、子供みたいに騒ぎたがるのか。公私の切り替えが見事すぎるものだよ」
よほど揉みくちゃにされたのか、少しため息を吐いた。が、その顔は怒ってなどいなく、ほんの僅かに笑っていた。
「…………。闘いが終わったあと、どこ行ってたんだ? 勝利を報告しようと客席へ行ったら、ミナヤ神しかいなくてな」
何を聞こうか逡巡したが、一先ず時系列通りに質問するようにしたようだ。
「ミナヤさんに記憶を貰ってから、すぐ城に戻ったのよ。ドレスの着付けをされてた。あれよあれよと流されるままに」
「――――?」
カサツシは、強烈な違和感を覚えているだろう。先ほどからのイフラの言動を鑑みても、その答えは一つしいかない。
そう。イフラは既に、記憶を取り戻している。
「まだ一部しか鑑賞できないけど、時間が経てば、徐々に幅が増えてくんだって。……あんま楽しいもんじゃないけど」
「……お前は、メモリなのか、それともイフラ少尉か」
イフラはあまりにも「イフラ」であった。カサツシの記憶にある「イフラ少尉」なら、舞踏服をお披露目するのに恥ずかしがったりなどしなかった。清濁が混ざってしまっている様子もない。完全にただの「イフラ」なのだ。カサツシにはそれがなによりの不思議なのだろう。
「戻せるものなら、戻したいのではなかったか」
イフラの顔は少なくとも、欲しい玩具を買ってくれた子供のそれではなかった。
「ちょっと言いたいことが多いから結論を先に言わせてもらうけど、イフラ=モシツ=メモリなんちゃらかんちゃらの記憶は殆ど取り戻しても、私は私のままです。そういうこと。……他人の人生を書いた小説を読んでも、なんにもならないのよね」
――結局のところ、これが結末ですか。では、これまで【自分】が懸念していたことは一体なんだったのでしょう。安著半分、肩すかし半分。『彼』には迷惑だけをかけました。ただでさえ、これまで振り回していますのに。
「私さ、そりゃバカだから、カサツシの研究内容とか全然理解できないし、バトと会話しててもなんのこっちゃ、ってなる。でも日常生活は普通にできてたよね。記憶を元金にしてたらこうはならない。赤ちゃんから始めないといけなくなる」
「それは俺もかねてからの疑問であったが……そういうものだと割り切っていたな。未知数の能力を未知数な用途に使ったのだから」
基本的になんでもありえるのが魔という現象。こんな非常識なことに、敢えて首を突っ込む者はそう多くない。考えるだけ無駄なのだ。
「私ぐらいの女の子ってさ、さすがにキゥカワから研究所まで一回の休憩もなしにぶっ続けで歩くことなんてできないんだって。なのに私はそれが普通。肉体では過去から現在まで連続しているのよ。つまり、脳も『イフラ少尉』からそのまま引き継いでいる。記憶を失ったのは、脳が物理的に損傷したからじゃない。日々生活していて、ごく当たり前に記憶を風化させるように、そういう仕組みとして脳が記憶を休眠させているだけ」
イフラは瞼の裏に蘇る、産みの母親の顔を「視る」。憔悴している彼女は、我が子の誕生を慈しんでいた。この世に生誕した、その時だけしかイフラは母を視られなかった。全く見覚えのないのに、イフラにどこか原始的な安心感を抱かせる。
――【自分】すら覚えていない母親を、イフラが。
「ミナヤさんはそれを利用して引っ張ってきたみたいなの。記録されている記憶を、私に幻想として見せてきた。……でも、所詮は幻想なのであって、私がそのとき、どんな『想い』をしていたのかまでは分からなかった」
「活動写真のように、生の感情を感じるには至らないと?」
「うん。共感であって、同感じゃない。例えば、昔の私が訓練場ですっごい身体を動かしてるのを、私は遠いところから観察してるの。昔の私は喜んでいるのか、苦しんでるのか、はたまた何も思ってないのか、私には分からない。表情、言動、それぐらいでしか判断できないの。それってもう、他人だよね。私がカサツシを見て、あー、笑ってるんだなとか、怒ってるなとか。大差ないわよ」
赤の他人ではその人の想いを知ることはできない。言語に頼っている人間にはどうしようもないジレンマではある。
――イフラにとって【自分】は眼中にもない他人なのに、【自分】はイフラがいないと生きていることすらできません。皮肉なものです。
イフラは頭上に輝く星を見上げる。星の光輝は二人の身体へ降りてくる。
「ごめんね」
イフラの声は、すぐにでも泣きだしそうだった。
「私のせいでこんなことになったのに……私ってさ、自分勝手すぎるよね」
いつだってそうだ。あの遺跡で初めて出会ったときも、無理矢理にカサツシの後を付いて行った。一緒に暮らすようになり、カサツシはとてもよくイフラの世話をしてくれている。なのにイフラは、相手のレートを一方的に享受し、自分の元金を支払おうとはしない。カサツシに何を還元してやれているのだろう。【為替】の能力者が笑わせる。
「俺はもう、メモリのためにならないことはやらない。いい経験にはなっただろう? それでいいんだよ。お前が笑ってくれれば、俺はそれだけで報われる。ついでに、俺も久しぶりに身体を動かして幾らか悩みが解決した。有意義だったよ」
女に、しかも少女に泣かれてうろたえない男がいるものか。カサツシだって、必死になって本心を打ち明ける。
――【自分】はそれが本心だと信じてやれますが、疑心暗鬼なイフラは、慰めだけの上っ面のものと思ってしまっています。いいから、カサツシを信じてほしい。【自分】から奪っていくのだから、せめて……頼りやがれ。【自分】の中に、黒いものが溜まっていくのが分かります。
「優しいから、たまに嫌になっちゃう……私だって、カサツシを支えてあげたい。今、言ったよね。『俺も幾らか悩みが解決した』って。まだ解決してないのとかあるんでしょ?」
イフラはあざとかった。
「あるわ、けないだろう?」
額面通りに受け取れば否定でしかない台詞。不自然な口の回り方は、イフラに確信を抱かせるのに十分すぎる材料だった。
「私が解決に導けるとは思ってないよ。けど、相談くらいはしてみてよ。なんのための助手なの。助けさせてほしい。頼ってよ少しは。私はまだ子供だけど、子供扱いはしないでほしい」
奥深くまで真摯の色にしか染まっていない眼差しを向けられたカサツシ。深くため息をつく。あまり突っぱねても悪いと思ったのか、渋々と語りだす。
「誘われたんだ。セゴナに住まないかと。守隊と研究者の両方だ。酒の席での冗談ではなく、かなり真面目に、大人の世界のをな」
カサツシの論文は、軍人による経験が活きた、セゴナでは生まれない代物だった。その上、腕っ節も強い。文武両道。こういった人材はとても貴重である。
「……けれど、俺にはメモリがいる。切り出すべきか、ちょっと迷ってな。セゴナに住むと決定したら、俺も忙しくなる。これまで通りの安穏な生活は終わる。……そうなった時、はたしてかつての誓いを守ることができるか。不安なんだ」
イフラはその記憶を取り戻している。その決意の重さ。
「ならそうすればいいじゃん」
しかし、カサツシの悩みの深さのわりに、イフラの応えはとても簡素であった。
「私に合わせることなんてない。だって、私は助手なんだもん。カサツシについていくって、あのとき言っちゃったんだし。どーせ、行くとこもやることもないんだもん。やりたいことをやってほしい。それで私が隣に居てもいいなら、……ちょっと嬉しいかな」
「…………。なんというか、メモリは俺の懸念を次々に飛ばしていくな」
――そして【自分】の望みも次々に叶えると同時、次々と遠ざかります。
やりきれなさと胸を締め付ける切なさから、はあと大きなため息をつく者が一名。この場の空気には本当に合わない。異質すぎる侵入者が、表舞台に姿を表す。
「盗み聞きは趣味が悪いぞ。いつもいつも、俺の周りを嗅ぎまわりやがって。本当にメモリが目的なのかと疑うことすらあるぞ」
「いやっすねえ。月を肴に酒を飲みてえと思って外に出たら、中佐とモリさんがいい雰囲気じゃねえっすか。僕だって空気を呼んで、こそこそせざるをえないっつうもんっす」
出口たる薄い扉の上。ヒオビはその小さな足場とも云えない足場に立っている。右手にはワインの瓶、左手にワイングラスを持ち、自分で注いではちびちびと飲んでいる。
ヒオビの夜闇に紛れるその哀愁は、蝙蝠のようにばさばさと外へ向けて飛んでいく。
「静かに聞いてるだけのつもりでしたっすが、ちーっとばかし、聞き捨てならねえこともあったっすわ。……しかっし、ついに亡命っすか。ようやく腰を上げたんすね。一年前はあんなにグズグズ、死にたがってすらいたっすのに」
「……ああ。お前には悪いが、気が変わりすぎたんだ」
「マジで悪いっすよ。交わした盟約、どうしてくれんすか」
「破らせてもらう」
「じゃあ、僕への挑戦状と受け取ってもいいんすよね?」
「好きに解釈しろ。どうせ俺はもう、お前の『観察』から逃れる。……都合が悪くなれば鳥だ獣だと言い張るお前に、裏切られたように扱われるのは心外だ。下手をすると、より都合が悪くなれば、羽が付いているということで虫にだって仲間扱いさせてもらうよう頼むだろう。はたして、最初から俺の仲間かどうか」
「あいやこりゃ一本。怖い怖い。睨まれたらチビる迫力は健在なんすねえ」
ヘラヘラと笑っているヒオビは、怯えなどどこにもなかった。
イフラは、この二人がここまで本気で言葉をぶつけ合っている場面を見たことがなかった。男二人の腹のさぐり合い。
「……バトはいつだって、そうやって隠れている。私を『観察』している。ここ数日……えっと、キゥカワの喫茶店くらいから、ずっとつかず離れずの距離にいた」
イフラはこれまでのヒオビの行動を思い返す。そうでもないと、あまりにも登場が速すぎる場面が何度もあったのだ。ヒオビは目の前にいながら隠れることができる。隠密していることは、ヒオビにはあまりにも簡単なことのはずだ。
「メモリ、多分、それは違う」
「え?」
「ヒオビ曹長は……そのキゥカワに行った、前日から俺たちを見てた」
全ての場面において、ヒオビはイフラとカサツシを観察していた。そう仮定。すると、あの日は妙に軍服がよれていたこと、タンバトが咲いたのを知っていたことに説明がついた。他にも、節々でイフラが抱いていた疑問が氷解する。カサツシに至ってはイフラと同等、もしくはそれ以上に気づいていることがあるはず。
「モリさんの前っすから本音で言いますと、割と中佐から離れてる場面もあるっすよ? やだなあ、四六時中、一緒に居られるわけないじゃないっすか。そんな、物語全てを見通すみたいな真似、僕だってできないっすよ」
「…………。偽っていないようだな」
カサツシは、何度も何度もヒオビの目を見つめる。その上で、濁りがないことを確かめた。
「僕は、『モリさん』の前では嘘をつかないんす」
――……。
「露骨に、ビンビンと出てきてるっすからね。たった今もそうっす」
どうにも噛み合わないと、イフラとカサツシは頭を悩ます。ただでさえ理解できない男であるが、度を超えている。
「僕の本意が分かんねえ、っつう顔をしてるっすね? んなの、一つしかねえに決まってるじゃないっすか。それでも尚、分からねえってんなら、」
その時、イフラの持っている時計が、十九時ちょうどを刻む。
「……――ああ、この感覚、一年ぶりっす。頃合いっすね。最終計画、発動っすよ」
「なにをする、つもりだ」
「もうそろそろ、僕たちは新たな一歩を踏み出さないといけないっすよね。それには捨てるものが多すぎるっす。一人の女のために闘おうではありませんか。戦いの舞台は用意しておくっす。ま、過去を清算するには邪魔な『あの場所』をっすよ。そうすれば中佐も腹を決めねばならなくなるっすから」
「……え、ちょっと待って、バト!」
その場所とやらは、イフラですら記憶が戻る前であっても思い至る場所があった。
「軍人ヒオビとして――僕はあんたを倒さなければならない」
宣戦布告。高らかに宣言したヒオビは、あのときのように、ふっと消える。
…………。
――ヒオビ=バトは、もういません。
・・・
・・
・
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