【8】第十一の場面「人の恋路を邪魔しようとしている時点で馬に蹴られそうになる」

 約束の時間まで少しだけ猶予があるので、ぶらぶらと街を散策することとした。セゴナの街は城下町として発展し続けてきたから、城は街のど真ん中、枢軸の位置にある。渦巻きを描くような軌道で散策していく。

「レチクラと大差ない? なんか、すんごい技がそこかしこにあるって想像してた」

「逆だ。発展しているからこそ、落ち着きを覚えさせる街並みとなっている。ノスタルジーとでもいうのか。人には人の生き方があるのだとさ」

「ふうん。カサツシってセゴナにちょっと慣れてるっぽいけど、来たことあんの?」

「過去に数度か外交で。対モヴィ・マクカ・ウィの第一人者だったからな俺は。セゴナもあの国には手を焼いている。楽しくは、なかったな」

 ヒオビがイフラに教師した、「防衛だけは成立させている国」とは、セゴナのことなのだ。

 ――セゴナほどの技と魔でようやく抑えられる程だというのに、レチクラ軍で唯一対抗できた第一人者を……したのだから、バカなやつらです。

 スタスタと歩いていたカサツシであったが、ふと立ち止まった。

「どうしたの?」

「あの書店に、…………」

 店舗の軒先に、目玉書籍という名の在庫処分品がワゴンに詰め込まれている。客引きとして道行く人々を手招きをしていた。見る者が見れば、ああいうのは魅力的なのだろうか。

 カサツシがそのうちの一冊を手に取ると、「五十エン」と値札が貼られていた。

「……やっすいな」

「安いの?」

「【為替】の能力者といえど、レートを知らなければどうしようもないか」

「うるさいなあ。比喩なんでしょ、比喩」

 クックッ、と皮肉気味に笑うカサツシへ、弱く握った拳を頬にペチンと押し付ける。

「五十エン。レチクラの今の相場だと……二百十二ロルくらい。蜜柑一個、といったところか。セゴナの物価は異常に安いことを鑑みても、これはさすがにな」

「そんなんで売り叩かれるって、作者はどう思うんだろ」

 どんな分野の本であれ、蜜柑一個の売値でから印税が出るとしたら、雀の涙ほどもないのではなかろうか。兼業ならともかく、作家業などできるはずがない、と邪推してみたり。

「まあ案外、安ければ安いほど市場に出回ると、喜んでいるのではないか、この作者なら」

 因縁の敵を睨むかのように、表紙を目で射る。

「ん? 知ってる作者なの?」

「『実観隊の一日』か。筆名を使ってやがるが、この題名には見覚えがある……多いにある……」

 カサツシは、その本をぱらりと捲って、数ページほど流し読みをする。徐々に眼が曇る。さっと全体に軽く目を通し、五分ほどで読み終えたカサツシは、頭を抱えた。

「……たしか、これと同一の文章を、読んだことがあるような……むしろ加筆修正されているような……見なかったことにしよう。そろそろ時間も近いことだし城へ向かうか。そうしよう」

 書店を後にして、また二人は歩き出す。

 少しずつ、城へ近づいてくるのがイフラには分かった。鉛筆ほどの大きさにしか見えなかった尖塔が、一本の木ほどの太さになっている。

城はその外観が見所である。カサツシはイフラに見せてやりたかった。それには遊歩道から正面へ歩くのが一番。国立公園の大道から、城へ一直線に向かえるルートを使う。

「そうだそうだ、メモリ、お前は人見知りか?」

「うん? ……どうかなあ、わかんないわよ。多分大丈夫だとは思うけど」

 カサツシとヒオビ以外の人間と接したことがないから、いざ問われると未知数だった。

「……もう少し、学校だとか、同じ年頃の少年少女の集まるところで暮らしたいのだがな。ヒオビ以外の人間と接触させられない現状なんだ。客人ともなるべくなら顔を合わせさせたくない。もっと多くの人間関係を通して、人格を育てさせたいのだが……」

「いいよ別に。私は……私は、カサツシと居られればそれで十分よ。カサツシは?」

 ちょっと大胆だったかな? そう思いつつ、カサツシをちらりと見る。カサツシはその目線に付着した色に、気が付いていたようだったが、さっと感情を殺した。

「俺も男だ。例え相手がメモリであろうが、若い女と居られれば本能として嬉しくある」

「……なによ、本能に女が好きになるって書かれてなきゃ、嬉しくなくなるの?」

 イフラは少々、むっとしながら言った。

「さて問題。メモリは女だ。女は女で、男が居れば気になるものである。程よく年上なら尚更だろう。メモリは、そのような条件を満たすヒオビ曹長を気になるか?」

「楽勝で、ならないわね」

「そういうことだ。本能に書きこまれていたとしても、それに支配されるとは限らない」

「直前に言ったことと矛盾してるんだけど」

「…………。ふむ。論破を認めよう。――メモリだから嬉しいんだよ」

 既に行き先が決まっていたような遣り取りなのに、それを聞いてさっと顔を赤らめてしまう。「あー、セゴナってちょっと気温高いのかしらねー」などと言って誤魔化す。

 ――こんな光景に、【自分】は嫉妬を感じざるを得ません。

 長閑な散歩も、一時間ほどで俄かに空気が変わる。イフラは読めないが、案内看板には「城正面道」という表示がされている。基本的には、この道から城へと至るのが普通なのだ。わざわざ刃向かうこともない。案内通りに進む。

「メモリとこのような関係となり、歩みを共にするなど……ほんの二年前からすれば、考えられぬことであるな。買い出し目的でもない外出をするのは、軍時代から数えても初めてか」

 ドクンと、イフラの心臓は一つ、叩かれた。昔の私は、カサツシのこんな緩んだ姿を見たことがない? それは過去の自身への確かな優越感だった。

「……って、なんで私は私に嫉妬しとるか」

 どうしてそんな気持ちを持たないといけないのか。カサツシがイフラによくしているのは、過去のイフラがきちんとカサツシと関係の基礎を打ち立ててくれたからなのだ。あとは勝手に、基礎の上に家を建てるだけ。地盤が揺らぐことはない。……それはそれで、卑怯で素直に喜べない。正々堂々と真正面から立ち向かった結果で今の人生があるのではなく、完全にイフラ少尉に悪いところは押しつけ、甘い蜜を吸っているだけなのだから。このぽっかりと空いた穴を、なんとか埋めたいとイフラは思っている。

「む、なんだなんだ。……『この線上、からの、眺めが、最高と、されています』か」

 茶色の遊歩道の真ん中に、蒼い線が引かれていた。その横に、カサツシが読んだ看板が屹立している。ここから展望しろ、ということか。

「――ぅあ、すっご」

「圧巻。それ以外の言葉で装飾するのは野暮であるな」

 正直な話、イフラは芸術を美しいと感じることは、それほどない。どこぞの芸術家が「それはいい」「あれは駄目」「これは奇跡の一作だ」と、子供が適当に筆を散らしたような絵を、子供が適当に泥を捏ねたような像を、有難がる。そういった知識を持った者があつまる界隈では、たしかにその評価で正しいのかもしれない。

 しかしイフラは思うのだ。それが真に素晴らしい作品なら、老若男女、文化、思想の壁を越え、それが人間の本質へ無感情に訴えかけるのではないか、と。

 この城は、イフラの思想を体現してしまっている。

 空の青すらも吸い込んでしまいそうな強烈な城壁の白は、視る者の心を同色に染め上げる。酸いも甘いも噛み分けた老人が、生まれたばかりの赤ん坊まで退行する。そうして純粋無垢となった精神に、今度は城の輪郭、質感が、あまりに生々しく眼球を襲う。窓の一つ、彫刻の一彫りが、心に直接ぶつかってくる。

 たかが五感の一つ、視覚が城を認識しているに過ぎないのに、全身がセゴナの城だけとなってしまう無機物と有機物が一体化する。万人が「美しい」とだけ、思う。

 二人は、花に誘われる蜂よりも自然に、ただただ惹きつけられるように城へ歩く。その間に言葉はなかった。やっと我に返ったのは、正門間近まで迫ってきてから。

「危ないな……美しさで人は殺せるな、これは」

「うん……なんかもう、私、この時点で神様を信じることにする……」

 入国した瞬間からずっと神のお膝元なわけだが、その実感はたった今湧いたイフラだった。

『カサツシ=ミケンシ様とイフラ=モシツ=メモリ様ですね。話しは聞いております』

 目を奪われながら門前まで歩く。二人を見つけた守衛がセゴナ語で声を掛けてくる。守衛とはいっても、門番といった堅苦しいものではなく、どちらかというとサービスの行き届いている百貨店の店員といった面持ちだ。

『そこまで根回しをされているのですか』

『ええ。ミナヤ様に招かれたお客様は、よくお驚きになられますよ』

 守衛はハハハと笑う。ままあることのようだ。

『少しお待ちになって下さい。もうすぐ使用人が来るはず……ああ、来た来た』

 前の通路から、黒のツーピースを纏った若い女性が、何時の間にやら姿を見せた。何時の間にとは云ったものの、それはヒオビのものとは気配遮断とは別種である。こちらは、道に落ちている小石のように、意識をしない限りそれが人間であることを信じられぬほど影が薄い。ヒオビは、その個体を識別できなくなるほど完全に隠密と化する。

「先日はどうも。言われた通り、券を見せるだけで便宜を図ってもらえました」

 カサツシは礼儀正しく使用人へ挨拶をする。数日前、研究所まで一人で来たあの使用人だ。こちらはレチクラ語が使えるので、そちらで話し掛けてきた。

「遠いところ、ご足労おかけします」

「いえいえ。こちらから望んで来たのですから」

「ミナヤ様は今すぐ面会してもいいとおっしゃっておりますが、お二方もこの長い旅でお疲れになったことでしょう。一度お部屋で休憩なされてから面会なさいますか?」

「メモリはどうする?」

 大人の会話はカサツシに任せておけばいいとなんにも考えずにいたから、いきなり話を振られて少し狼狽した。すぐに「カサツシがしたい方で」と言った。興奮していたせいで今になって原初の目的を忘れかけていた。もうすぐ記憶を取り戻すことができる。そう思うとなんだか別の興奮をしてしまい、途端に居ても立ってもいられない。

「それなら、今すぐ会いたい」

「はい。それでは今から、ミナヤ様のお待ちするお部屋までご案内いたします」

 使用人に率いられ、セゴナの城を歩く。これがまた、なんともおかしな城だ。熱気が籠ることはなく、気温は暑くもなく寒くもないといった、自然な温度で保たれている。……というよりは、気温を全く感じない。この城の内部だけ独自の空調が効いているようにさえ思える。魔によるものか、技によるものか。それすら分別できない、不思議な空間。

 照明器具は点いているものの、部屋のどこも均一な明るさを保っているため、影というものができない。むしろ、影を作るための照明器具が存在するほど。

 城のどこへでも敷き詰められている絨毯は、体重を全て受け止める。おかげで歩いていても膝を動かしている感覚しかなく、まるで雲の上でも歩くかのようにふわふわした心地がする。

 この空間は、違和感を人間に覚えさせることを知らない。それこそが違和感となってしまう。普通とは違う、乖離された箱庭。神秘性すら感じる。

「ずいぶん入り組んでますね。これでは城で業務をするのはさぞ大変でしょう」

「セゴナ城はまだ戦乱の時代、十万五十七人の国民を守るため、ミナヤ様が建造なされました。外敵の侵入を防げるよう巨大な城壁を築き、また、もし侵入を許したとしても、迷路のような構造で罠を各所に仕掛け、各個撃破できるような設計となっています。政治の中枢として機能するようになっても、そのころの名残は随所に見受けられるのです」

 そんな観光案内紛いの説明を受けながら、二人は応接間へ通される。ちょっとした球技ならできそうなほど広い。巨大なテーブルが中央には設置されていて、上座にある席に座らされる。まるで体重を全て吸収していると思えるほど座り心地がよかった。

「少々お待ち下さい。ミナヤ様を呼んでまいります」

 使用人は応接間を出ていく。

 それから数秒も待たないうちに、蜂蜜色の髪を持った女性が現れた。

 白いドレスを身に纏っている。装飾などが少なくとても簡素なものであったが、豪奢に飾り立てようとも、それは無駄というもの。ミナヤ自身が一つの芸術品。髪の一本、血の一滴に至るまで、人工によって調整されているとしか思えない。そうでなければ、ここまでの美があってたまるものか。

「お初にお目にかかる。妾はミナヤ=クロック」

 これが世界の全てを操る、ミナヤ=クロック。イフラの記憶を取り戻すかもしれない女。

「すまないな。何分、レチクラ語は不慣れなものである。どうしても堅苦しい言葉遣いにしかならんのだ。あちらの使用人の方が、よほどこなれている」

「…………」

 まるで声が届いてこない。いや、鼓膜は震わせているし、流麗な音楽が心を震わせていることまでは感じる。ただ、これが人類の発明した「言語」を喋っているとは信じられるものではない。イフラはその声に、ただただ聞き惚れる。

「…………。…………、お初にお目にかかります。カサツシ=ミケンシです。とんでもない。そこいらのレチクラ人よりも綺麗な発音をしていますよ」

 なんとかすぐに意識が帰ってこれたカサツシは、何事もなかったように挨拶をする。背筋を伸ばして一礼。イフラも同じことを、たどたどしくなぞる。

「まあ席に掛けてほしい。堅くならないで」

 ふんわりと柔和な笑みで促されたのでカサツシは椅子に座る。イフラも一拍置いて座った。

 ミナヤ本人は下座へと座った。あくまでも、客人である二人を高めようというのだ。

「今は折角の公私の私。回りくどい遣り取りで無駄な時間を浪費するよりも、それぞれが本題を切り出した方が建設的と思う。ミケンシ教授の考えは?」

「教授はおやめください、誰かに教えを授けるほどの人物ではありません」

「よいではないか。妾がそう呼びたいから呼んでいるのだから。して、どう思う?」

「建前を使わなくていいのはとても助かります。腹芸は苦手でして。表面を賞辞で塗り固めなくていいなら、わたしも母に打ち明けられるというものです」

 普段では決して見ることの叶わない「大人」のカサツシは、イフラにはとても新鮮だった。

「そうだな。物事は迅速、簡素に、かつ丁寧に。これができてこそ、ようやく上に立てる。妾はそこまでできない。子らに助けてもらってばかりだよ」

「ははは。ご謙遜を。ミナヤ神の武勇伝は、【逆さ蕾】の比ではありませんから」

 それすらもイフラには回りくどいと感じてしまう。しかしたったこれだけで距離感を相手に完全な形で分からせるミナヤの話術と、なにより雰囲気。

「妾は記憶を戻すと約束した。有言実行は信条としている妾であるから、宣言したからには、守らなくてはいけない。メモリ助手、こちらへちこうよれ」

「は、……はい」

 少し心配で鼓動が早まるが、これで待望の記憶が取り戻せるのだとすれば、脚を止めるだけの障害はない。

 ミナヤはイフラの額に、優しく手をかざす。

「――――」

 白と黒の混沌とした爆発が、イフラの頭蓋骨を、脳みそを押しのけて埋め尽くす。

 圧倒的な情報の奔流。人が十四年掛けて小川のように少しずつ注いでいくはずのそれは、土石流となって一挙にイフラの身体を連れ去ってしまう。

 ミナヤは、イフラの肩をそっと抱き締める。母が子を慈しむ、とても温かい抱擁だった。本能的に、イフラは心の芯には、小さな灯が輝く。強烈な黒と、優しい白の狭間。

「……メモリは大丈夫、なのですか?」

「この子が落ち着くまで、まだ時間がかかる。記憶という情報は、とても大きな容器で受け止めなば、器が割れてしまう。少しずつ注がないといけない。だが、大丈夫。妾がいる。……ふむ、しかし時間を無為に過ごすこともあるまいな。この子を寝かしつけたら、そなたの研究内容について今一度、ご高説を乞いたい」

 ここはミナヤに任せるしかない。カサツシはそう判断し、けれど万が一も頭の片隅にちらつかせてはおく。ミナヤもその警戒心は解こうとしない。そんなことをしても、カサツシの不安は解消できない。イフラが無事、元に戻るまで。


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