【7】第十の場面「到着。仕込み開始」
「ほいほい。これっすねえ」
ヒオビが窓口の係員に入国許可証を見せる。いくらか確認事項をクリアし、ヒオビもまた無事にセゴナへの入国を果たした。税関を出ると、港町の特有の潮風と喧騒が出迎える。
「入国許可証兼特定の施設で使える優待券。神の世界へのチケット。そのくせ、随分ペラいわよね。こんな一枚で事足りるよう手配されてんだから」
イフラはカサツシが指で挟んでいるそれをデコピンの要領で弾きながら言った。表には異国の文字、セゴナ語が小さく並べたてられているが、材質そのものは普通の紙であった。
「ったーく。二人はいいっすよねえ。ミナヤさんから貰った券があるんすから。万能すぎるっすよ。どんだけ話が通ってるんすか。神さん、心遣いが極まってるっす。僕の旅費は自腹っすのに。そこも考えてほしかったっす。まあモリさんの笑顔が見れるんならロハも当然っすけど」
「セゴナの入国は誰でも可能だからな。出国は厳正な審査があるが。来るものは拒まず。ただし不利益は外へ出させない。そんな国だ。まあこいつは学者へ送られる招待状であるから、単なるチケットともまた違う」
これは大変に栄誉なことである。セゴナといえば学問の最高府が立ち並び、ミナヤ=クロックといえば政治家としてでなく知識人としても権力を持っているほど。そんなミナヤが住まうセゴナ城に招待されたということは、カサツシは一端の研究者として、様々な学者から認められたとも言える。
――イフラどころか【自分】ですらよく本質を掴み取れていない、森の奥深くでひっそりと研究しているその内容を、会ったこともないくせに知っているのですか。神とまでのは褒め称えられるのは、伊達では不可能です。
「ちなみに言っておくが、あまり権利を振りかざすつもりはない。城までは自分たちの足で行くことにしておいたから、交通費などは自腹だぞ。メモリの分は俺の財布から出る」
「なんで甘えなかったの」
「子供には分からんだろうがな、大人には見栄があるんだ」
大人、という単語をちらつかされてしまうと、どうしてかイフラは口を閉じることしかできなくなる。
「でさあ、カサツシ」
「なんだ?」
「思い切り無視してたけど、なんでバトがここにいるのよ」
招待されたのはカサツシ、イフラの二人であるので、ヒオビは全く関係ない。なのに、真昼の影の如く、なければ世界の不自然といった態で付いてくる。
「こんな健康的なモリさんを見れる機会なんて今や、ないっすからね! 少尉時代はもっとなかったっすけどね! ちくしょーもっと若いモリさんで見たかったっす!」
「十五は若いんじゃないんかい。もはや私が好きなのか子供が好きなのか判断できないわ」
慣れたやり取り。……ではあるが、やはりイフラの声は、不思議と弾んでいた。如何にもウキウキしている。なにもかもが楽しみなのだ。
「休日が余ってるんすよ。僕の部署は仕事がなきゃ、とことんないっすからねー。こんな機会でもなけりゃできない海外旅行を楽しもうぜ! って思ったんすよ。いやーそれにしても、ミナヤさんの便宜様々っす。楽ちんすぎるっすわ。海は船酔いをすると聞いていましたっすけど、思ってたより揺れなかったっすし」
イフラもそれは驚いた。一応、カサツシから貰った酔い止めの薬は服用していたが、時折ガコンと揺れる以外は、ロッキングチェアーに座っているように、規則正しい振動が段々と眠りへ誘っていた。
「豊かな証拠だ。それを肯定するように、物資が潤沢だな。生活水準が高いのも納得できる」
港町でぶらっと歩いているだけなのに、目に映るは商品の山。あちこちで輸入・輸出品を取り扱う行商人が出歩いている。各地方へ輸送していくのだろうコンテナの山が次々と貨物列車へ運ばれていく。
「セゴナはたとえ片田舎でも、新商品の発売日にはちゃんと販売店に商品が並ぶんすよ。都心だろうが辺境だろうが、商店に置いてある品に量や質の違いはないっす。レチクラじゃ欲しいもんがありゃ、街へ出なければならないっすからねえ」
カサツシが研究で使うようなものであれば、キゥカワのような都市でなければ揃わない。そんなものが、いたるところに転がっている。知的好奇心が満たされているのか、目がキラキラと輝いている。
「中佐。年甲斐もなくはしゃぐのは勝手っすけど、先日のキゥカワみたいな騒ぎ方はしないでくださいっすよ。僕も庇える限度があるっす」
「あれは俺も反省すべきだった。目立つものではないな。あの後、なにもないよな?」
「ええ。まあどっかで『観察』してるような輩が居ましたら、僕は蹴散らせるっすからねえ。僕が居る範囲で隠密する奴は餌食確定っす」
「ヘー。スゴイネ。カッコイイワア」
「僕はその気になれば骸骨になっても真っ暗闇に乗じれるほど闇に愛された男っす!」
「格好の付け方がおかしいんですけど」
それが棒読み丸出しであろうと、お世辞ともいえないお世辞であろうとも、簡単に調子に乗るヒオビ。こんな口の軽い男が情報部などをやっていて機密は保てるのか、イフラは真面目に心配をしてしまう。
「おうっ気持ちいい!」
その憐れみの目でさえ愉悦と変換する。
「ちなみに、イフラ少尉にだけは最高機密でも晒すような大莫迦者であったが、そうでなければ必要最低限しか手札を明かさない男だぞ、こいつは」
「さらっと心を読んで補足すんな。ヒオビの助けにはなっても私の助けになってない」
「いや、表情だ。目は口以上に、雄弁に語りかけてくるものだ」
そう言われたイフラは手で強引に表情を押し殺した。頬を手でぎゅっぎゅっと張り上げさせ、読めないように小細工をする。それこそが読まれる原因だ、とカサツシは隠れて苦笑いした。
「懐かしいっすねえ。その台詞ってモリさんよりかは、僕によく言ってましたっすか。その度に『僕はモリさんだけを見てたいんすよ! なんで僕が中佐の心情なんか読み取ろうとしなきゃならないんすか! 仏頂面すぎて感情読むの面倒なんすよ! ぶっちゃけ嫌なんすよ! モリさんと四六時中一緒に居れるよう、保護者たる中佐の機嫌を伺ってるこっちの立場を弁えてくださいっすよ!』って熱弁して反省房送りでしたっすねえ」
しみじみと、過去を懐かしむヒオビ。ただ、そのチョイスをイフラは理解したくない。
「……もしかして、カサツシがなんだかんだバトの世話をしてんのって、手のかかる子ほど可愛いみたいな、そういうやつなのかしら」
「ふ、ざ、け、る、な。ヒオビ曹長は人格に問題しかないがそんなものは些事となるほど情報は確かだから使ったまでであってそれ以上の理由はない!」
「ぬへへ」
カサツシの言ったことに、朗らかな笑みになるヒオビ。イフラを相手にしたニヘラとした笑みとは対照的であった。
「なんつーか、その言葉が嬉しいっすねえ。情報の重要性を理解してくれる人ってだけでも、僕の人生では二人だけっすよ。更になんのかんの言いつつ、【蝙蝠】を信じてくれる人も含めれば、それはもう……、っちゅうことっすよね」
――尊敬している者に褒められて、嬉しくない人間がいるものでしょうか。
「気持ち悪いな……」
「ひでえっす! 中佐の命令を最後まで正しく遂行した数少ない部下だったっすのに!」
「気持ち悪い……」
「背中ゾクゾクおなかプクプク!」
「放置しよう、というか、したい。意味わかんないし。……ん、カサツシ。あれ、なんだろ」
イフラの目に一つの屋台が映る。店名はもちろんセゴナ語であるので読めない。
そこからは、金型に流し込んだ小麦粉を熱した匂いが漂ってくる。やや固まってきたら、やや紫がかっている黒い粒々した塊を真ん中に乗せる。何も乗せられていない生地で挟みこむ。こんがりとした焼き色がしてきたら、それで完成のようだった。
「『金熱』……と書いてあるっすね」
「いや、違うな。語感から察するに、『大判焼き』くらいだ。あの商品も、そういう見た目に取れなくもない。おそらくはそこから名前を取ったってところだろうな」
「カサツシは読めるのに、バトはあんまり読めないのね。だっさー」
「中佐ぁ! こっそり答えを耳打ちしてモリさんの僕評価を高めるぐらいのお膳立てをしてくれてもいいじゃないっすか!」
「先に金熱とか言ったのはお前だろうが……」
カサツシはセゴナ語の読み書き話しまで完全にできる。論文を読み書きするには必須スキルだからだ。出来ないと話にならない。
――生憎【自分】は、軍によって会話しか習ってこなかったので、カサツシの答えで正しいかどうか判断することはできません。セゴナ語は口伝によるコミュニケーションだけ学習しました。文字にまで手は回りませんし、時間もありませんでした。
「こうなったら僕の株は上げるには手段は一つ! モリさん、僕が買ってあげるっす!」
「また露骨な……いくらメモリでも誤魔化せるはずが……!?」
あった。
「買って、くれるの? ……んー、でも……いやいや、でも……食べたい、なあ……」
酷く控えめにイフラはそう呟く。その、少し目を潤ませた少女ぶりときたら。ヒオビに頼みごとをするのは癪ではあるが、食欲と好奇心は押さえることはできない。
「(……ヒオビ。これ、どう思う?)」
「(……多分、中佐と同じっすよ。こればっかりは中佐の心も読めるっす)」
男二人の三秒だけの秘密会議の結果、三人の手には紙で包まれた暖かい大判焼きが握られることとなった。代金は男二人の折半で。お互い、こちらが払うと必死であった。
「美味いか」
「ん、……はむっ、」
一心不乱にかぶりつく。表面はカリッとしているのに、中はもちっとしていて、歯触りがとても楽しい。熱気と共に口全体へと広がる、仄かな甘み。はふ、はふと外から冷気を取り寄せながら、少しずつ喉へと流していく。何度も飽きなき作業を繰り返す。
「(ははは、夢中っすね。中佐の声なんか聞こえねえみたいっす)」
「(ふむ、しかし、いいなこれは。甘すぎず、かといって甘くないわけでもなく)」
「(ほんとっすよ。男の軍用食も、こんぐらいの甘味はあってもいいと思うっす。さすがに塩辛すぎっすわ、あれは。舌を休めるものが欲しくなるんすよねえ)」
「(味の良さなど二の次三の次にせざるをえない軍用食だと、その問題はどうしても抱えるな。俺の部隊も食には拘っていたが、高が知れていたな。味を解決できるほどの技があれば、その軍隊は最強だよ。勝てる気がしない)」
なにやら理屈をこねているようだが、イフラには最早、異次元の話でしかなかった。
熱い食べ物は熱いうちが一番美味しい。イフラは少し猫舌なせいで熱い食べ物は苦手なのだが、小さな口で一生懸命頬張る。火傷しそうになるのを押さえて、なんとか喉まで通り越す。そうしたらまた次の一口を。
「(食べ歩く文化というものも、俺からすれば珍しく映るな。座って食った方が行儀が悪いなどと。郷に入りては郷に従うが)」
「(食べ歩き専用の食べ物に限るみたいっすけどね。これみたいに、片手で持てるぐらいの。そうじゃないものを歩きながら食べてると、今度はそっちのが行儀悪いみたいっす。きっちり区別をするのがセゴナ流の粋ってやつっすかね)」
男二人は大判焼きの味そのものよりは、そこに纏わる文化を話しのタネとしていた。しかしそれも、イフラの次の言葉で突然の終息を迎える。
「ふう、美味しかった。……もう、なくなっちゃったよ……」
「…………」「…………」
男たちは揃いも揃って沈黙した。それぞれ自分の大判焼きに目をやる。食よりも会話に重きを置いていたため、二人とも一口二口しか齧っていなかった。大人の大口といえど、半分も胃の内に入っていない。
「メモリ。俺の分も食いたいか?」
「僕らのでよければ、好きなだけ食ってくださいっす」
「……いいの? いつもカサツシ、『間食などをすれば正しい食生活を送れないから駄目だ』とか言うのに」
「今日のような特別な日にまで、そんな無粋なことを言うものか」
「ってか、僕は当然ですが、中佐ですら使命感に駆られるほど、さっきからモリさんの破壊力が高いんすわ……意識してないんでしょうけど……」
そう言われても、イフラにはなんのことやら。
「なんか今日はやけに結束してるけど、……ん、ん、……男同士の友情ってやつなのかしら。なーんか、私ってあんたたちを、上官部下とも、友達とも思えないんだけど。……はむ……んぐんぐ……私の語彙の中にないっていうか」
まだ口のつけられていない反対部分から千切り、イフラは二人から受け取った。またもぐもぐ食べ始める。ただし今度は、口の中がなにもない時だけ会話に参加する。
「モリさんが思ってるほど、僕と中佐は深い関係じゃないっすよ。モリさんみたいに中佐を呼び捨てにしたら、ぶっ殺されてるっすから。そんだけペラいっす。ねーカサツシー♪」
「メモリ。やってみたいこととやらがあったんだろう。やれ」
あえてカサツシの表情は確認しなかったが、その声色だけで感情を把握できた。当たり前すぎるが、口が目ほどに物を言っている。
「許可じゃなくて命令系なんだ」
そう言いながらも、イフラは覚えたての魔、【熱掌】で、掌に熱を蓄える。
体温を凌駕し、生卵が目玉焼きになる温度まで跳ね上がる。触った物体にだけ熱移動が起こるよう、熱を持たない部分は空気の膜で覆う魔も同時に発動させることで、事故防止策とする。
最高に熱の乗った掌で、ヒオビの顔面を鷲掴みにする。
「熱い熱い熱いっ、熱いっすモリさん! 熱いっす苦しいっす!」
言葉とは裏腹に、ヒオビは恍惚の表情を浮かべていた。
「……喜びやがるこいつめは」
「モリさんの深い愛情のようでしたので!」
痛かったり苦しかったりすることに愉悦を感じる。イフラには全く理解できない世界だ。
習得できそうだから練習してみたら、簡単に使えるようになったのだ。……というよりは、折れ線のついてしまった紙を再び線に沿って折るのように、自然と身体の方から、使えるよう誘導してくれた、とした方が正確か。
もっとも、日常生活で使い道はない。中途半端すぎるこの温度では、料理の一つも作れやしない。故に、一カ月ほど前に覚えたっきり、なにかに活用することなく、封印状態だったのだ。せいぜい、この大判焼きを冷めないようにするのが関の山。
「あ~、でも昔よりもちょっと弱まって、単純に熱さだけを感じれるっすね~。あのころは水瓶に手を突っ込むと、全部水蒸気になるほどでしたっすから。やっぱり僕はモリさんのストレスを溜めないようするために産まれてきたんっすよ!」
そして機会が少しでもあれば、イフラと出会うべきして出会ったと強調するヒオビ。ついでのように付け加えられても、なんにも嬉しくない。
「昔のメモリの魔ですらこいつは喜んでいたんだ。メモリがどこかで聞きかじったぐらいの弱い魔で満足させられるものか。せいぜい精進するように」
「もしかしてカサツシ、バトの処理を私が一人でできるように誘導してない……?」
「なんのことだ?」
とても白々しい。面倒くさいものを女に擦り付けるなど。男のすることではない。
「俺がけしかけることで、メモリの更なる飛躍と、ヒオビ曹長の沈黙が得られる。一石二鳥、……いや、一石一鳥一虫だな。問題は、鳥と虫は同一の種別ということか」
「【蝙蝠】は虫じゃねえっす! 鳥っす! ここは譲れねえっすからよお!」
蝙蝠は鳥と獣の戦争で、有利な方に「翼が生えているから」「毛皮と牙があるから」と理屈をこねて有利な方へついた。イフラは齧った書物にそんな逸話があったことを思い出す。『卑怯な蝙蝠』とかいう題名だったか。
「僕は誰よりも自分を偽ることは得意っすからね。だから【蝙蝠】の名で通っているのは確かっすけど。でも虫扱いはひでえっすよさすがに」
「この虫野郎」
「ありがとうございますモリさん僕は虫ですモリさんという花に群がる蝶なんすよ!」
「蝶なんて。せいぜい芋虫がいいとこでしょ」
「ああっ、いつかは羽を生やし、モリさんの元へ飛んでいきたい!」
「あれよね、分かりやすいってこういうことを言うのよね」
嫌だ嫌だと言っている傍から、イフラがなじるだけでこの通り。むしろイフラですら許せない罵詈雑言を知りたいくらいであった。本当はウジ虫あたりを言いたかったが、それだと群がられている自身は……となるからやめておいた。イフラには被虐趣味も自虐趣味もない。
「メモリが俺の手の内で守られている限り、お前は『虫』を名乗ったままだろうがな」
「…………。――まあ、所詮僕は軍人っすからね。任務は愛よりも優先すべきなんすよ。いくらモリさんと中佐を大切に思っても、っす」
「急に真面目になったな。して、オチはなんだ」
「そうキリッと言いながら最後に、『僕は何者にも縛られねえ、愛する者を守れずなにが軍人だあ!』と命令を無視して格好よく吐き捨てるのが僕の役回りっす!」
「言わなきゃいいのに」
本当に格好いい男は、語らずとも行動で示すものだ。ヒオビはこの上なく格好悪かった。
「ほら、くだらんこと言っとらんで、さっさとアレに乗るぞ」
カサツシが指を指した先にあるものを、視線で追いかける。
そこは駅であった。道路の真ん中に線路が敷設されている。路面列車。
「ぐえ、悪名高い環状線。あれだけの航海術があるなら、こっちに技をかけろとすら言われてるやつじゃないっすか」
「そうなの?」
「しかしこれが一番安く、かつ早い。なんなら歩いていくか? 俺らは規定の時間を守らなければならないから使わざるを得ない。環状線なら余裕を作れるが、城まで歩きなら、森からキゥカワほども、とぼとぼと歩かなくてはならない。建設的ではないな」
「分かったっすよ……」
悪名高いと言われようが、そんなものを知らないイフラは、カサツシに従うのみであった。
切符を買い、路面列車に乗り込む。ヒオビが嘆いていた理由は走り出して三十秒で分かった。
揺れる。とにかく揺れる。
まだ酔い止めの薬は体内に残留しているためか、車酔いもそこまでしなかったが、それでも視点が激しく上下するのは気分が良いものではない。
「船はあんなに静かだったのに、なんでぇ……?」
「さあ。僕も訊きたいっす」
「俺も訊きたいな」
しかも周りを見渡すと、セゴナ人だって目を瞑って耐えていた。ツレが居る客は雑談でもして誤魔化しているが、そうでもない客は眠っているかのように微動だにしなかった。
「な、なにか気を紛らわせられるようなことを……」
「モリさんがあんなことを言っちゃってるよーミケンシー」
「俺がヒオビ曹長を縛り付け、窓を叩き割って外へ放り投げたあと、その紐をそのまま持って犬の散歩ごっこなんかはどうだ?」
「陸軍式歓迎会で有名なあれっすね」
「なにに驚いたってカサツシが似合わないこと言ってると思ったら実際にされてたことだよ!」
軍隊の扱きとは、一般人には知らなくてもいい世界のようだ。
「ヒオビ曹長。馴れ馴れしく俺の名前を呼ぶのはやめろ」
「いいじゃないっすか。セゴナは名・姓の順なんすよ。それに乗っ取れば、カサツシが名前でミケンシが名字なんすから」
「それに乗っ取るのならミケンシ=カサツシだろうが」
「私は……メモリ=モシツ=イフラでいいの? 変な感じ」
「いや、モシツは後生に戸籍を取得した者に与えられたことを示す中名……蔑称に近いものだから、他国ではモシツなんかつけなくていい。メモリ=イフラでいい」
「私って戸籍を届けられないような生まれだったんだ」
イフラは未だに自身の由来を知らない。それもそのはず、カサツシが教えないからだ。そしてそのカサツシだって、イフラがどこの夫婦から生まれたのかを知らない。
――イフラの全てを把握しているはずの【自分】すら知りません。この世界には、イフラがどのように生まれおちたのかを知る手段はないのです。
「気分的なもんかもしれないっすけど、外国式に並べ替えた名前にすると、ちょっとは気安く呼べるような感じがするっすよねえ。不思議っす。やあフラフラ! みたいにっすね」
「なんかそれだと私が常に千鳥足みたいじゃん」
「中佐は、カサカサ?」
「両手両足を抜け出せないように縛り、線路に放り投げたあと、どれだけ迫りくる列車から逃げずにいられるか、またどれだけ素早く身をくねらせて完全に回避できるかを競う、芋虫走でも久しぶりにするか?」
「陸軍式忘年会で有名なあれっすね」
「先日のあれを見ちゃった私には、ひょいひょいと避けるバトしか想像できない……」
ぴょんと跳んで列車の屋根に引っ掛かる、そんな非人間的な行動をするヒオビ。……どうしてかそんな映像を、「再生」するイフラであった。軍に直接は関係ないから覚えていたとでもいうのか、と自問する。そんなもので大切な記憶領域を使用しないでほしい。もっと伝えるべきものがあるのではないかと。
「でも僕、報告書とかで【カサツシ】とか【イフラ】とか、下手すると僕自身だって客観性を保つということで【ヒオビ】なんて書いたりするっすけど、こういう呼び捨てはアリっすよね?」
「お前の報告書は無駄な表記が多すぎるんだよ……。俺の記録だったはずなのに、俺の行動を二の次にしてメモリのことばかり書きおって。それが細かい挙動などならまだ実観隊として利用価値も生まれたかもしれないが、『イフラ少尉はヒオビのことを嘲りながらそのしなやかな腕で剣を振るい、大木の幹のような腕を叩き折った』とか、自分のことを第三者的にしている意味がないほど主観的だったではないか」
「だって、モリさんの活躍を見てる方が楽しいんすもん。筆も滑るっすわ」
「…………」
「はいカサツシ、この薬だよね?」
「……すまんな、手を煩わせて」
背嚢から薬を取り出して渡す。甲斐甲斐しくカサツシの世話するその様子は、病弱な兄を献身に看病する妹ともとれる。そう見られてしまうほど、カサツシはぐったりとしていた。
その時、「次は、セゴナ広場です」という放送が列車に通達された。
「ぐえ、もう次っすか。残念なんすけど、モリさんが大好きな僕は、最後までお供できないんすよ。セゴナについたら、『広間』とやらに行ってみたいもので」
セゴナには、各所に「○○広場」という地名がある。仕事を終えた大人たちは、夕方になるとそこへ集まり、それぞれの交流を行う。その地域の中でもこの場所は、この世界のすべての情報が集まる、だとかなんとか。営利目的ではなく、ただ知識欲を満たさんがために、人々は情報をそこに集める。
「常になにかしら情報に囲まれて生きている僕としては、一種の職業病として、知らない知識があれば貪欲に仕入れたくなる性癖があるんすよねえ。とても一日じゃ回りきれねえっす。休暇いっぱい、公私混じりのことするつもりっす。いざとなったら情報こそ最強の武器。伊達や酔狂で情報部をやってませんっすよ」
「…………自ら私と離れるだなんて」
どこか薄気味悪さすら覚える。
「さよならも言わずにいなくなったら、きっとモリさんは寂しがるでしょうからね……僕は、そんなモリさんを見たくないんすよ……ふっ」
「ワー、スッゴクカナシー。ワタシ、ばとガドコカニイッチャウトナイチャウー」
「ごめんなさいモリさん僕はそんなモリさんを裏切らなきゃならないんす!」
「ああ。かねての予定通り、好きなだけ行ってこい。そして帰ってくるな」
そうして開け放たれた扉から、外界へその身を乗り出すヒオビ。
「……知ってたの? 途中で別れるって」
「ああ。船上で今後のことを話していた。それの一つで、広間へ行きたいというのがヒオビ曹長の目的だと吐いた」
「情報部……なにをやるのやら」
きな臭さはどうにも拭えない。ヒオビという男は、イフラはどうしても只者ではないとしか感じないのだ。
現に今も、ヒオビがそこいらに居る気がしてならない。
「時にメモリ。ヒオビ曹長には秘密にしていたが実は、時間は割とあったりするんだ。次の駅で降りて、ゆっくりと歩いていかないか? なに、二時間も掛からん」
この列車に乗り続けない選択肢があるのなら、それを拒否する理由はなかった。数分ほど我慢すると、列車は速度を緩め始める。完全に停止して扉が開く。二人は閉じられた空間から出ることで、やっと新鮮な空気を味わった。
――【自分】は、そんな二人を『観察』します。
・・・
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