【6】第九の場面「和やかなる封印したい過去」

 ゆらゆらと揺れる船体に、イフラは甲板の先端に設置されているデッキチェアーに腰掛けつつ、どこか揺り籠のような安らぎを覚えていた。空気が磨かれているようにも思われる、ツンと潮の香りを乗せた爽やかな風が、イフラの額を叩く。

 空の青と海の青。どちらも同じ言葉で表現される。目に映る映像はどちらもその一色でべた塗りされている。だのに、どうしてここまで差異が生まれるのであろう。雲の白がアクセントとなってより青みが強調される空と、波により動作が加わって躍動感を与える海。イフラはどちらがよいか選べなかった。

 見事な青天でよかった。雨の海は荒れると聞く。それではこんな安穏たる気持ちにはならなかっただろう。この海は、なにもかもがイフラを歓迎してくれている。

 ふと、頭に一つのフレーズが流れる。

「――空を穿つ黄色い小刀 照らしつける」

 どこで聴いたのかイフラ自身すら覚えていない歌を口ずさむ。

「すでに馴れた それももう許すよ」

 一か所を口が通過すれば、すぐに次のフレーズが沸き起こった。身体が覚えている。

「黒のない世界 これこそ世界」

 イフラが自我を得てからも唯一覚えていた曲がこれ。出所は不明。カサツシにこれがなんの曲なのか訊いたら、何故か笑いを堪えた表情で「……ま、まあ、俺は、知らないな」などと、明らかに知っているのに教えてくれなかった。ヒオビに訊けば「それこそ、モリさんが望んだモリさんなんすよ」と真剣な顔をし、それ以上は語らない。

 もしかしたらこれから向かう地では、どのようにこの曲を聞き、どのように覚えたのか、思い出すことはできるのだろうか。楽しみでもあり、また、不安でもある。

「前を見れば 道は広く 当たり前に 自分が真に」

 ……しかしまあ、この曲が象徴しているのだが、なくなった記憶にはある共通点が見受けられる。それはカサツシも気が付いていない、イフラの憶測である。

 軍と直接関係のないことならば、それほど消されているわけではない。そうでなければ、イフラは十五歳の少女ではなく、零歳の赤ん坊として人生を再始動させていただろう。……それでも記憶がほとんど残っていないということは、イフラ少尉は軍によって育ち、軍によって生かされていたことの証でもあるが。

「蔑む過去の自分 君は隣に 君は微笑む」

 実験観察部隊。それが過去にイフラが所属していた部隊。

 公式の記録から抹消されたその部隊は、どのようなものだったのか。今となっては確かめる術はない。知っているはずのカサツシやヒオビは、絶対にイフラへ教えない。ヒオビはまあ現役の軍人なので守秘義務があるから納得こそできるが。

「満天の光 すでにこれが今の僕 背中が落ち着く居場所 僕も奪うな――」

 歌い終わる。それと同時に、後ろから拍手が聴こえた。さしたる意味もなくイフラは振り返る。誰が拍手したのかは明白だったからだ。

 ――それを歌うのは、やめてほしいのです。

「いやー、眼福耳福っす。モリさんの女の子したその恰好、清流たる声だけでも癒されるというもんっすのに、歌まで上手くなったっすからねえ」

「メモリの歌は筆舌に尽くし難かったからな。あの衝撃は忘れられない」

 二人してくっくっと笑いあっている。

「……なによ」

 上手くなったと言われているのに嬉しくもなんともない。この男二人が女心を理解していないからだとイフラは決めつけることにした。

「密談とやらは終わったの?」

「ああ。今の俺には益体ないものが大半だったがな」

「中佐ったら怖いんすよ。僕の身体を値踏みするようにべっとりねっとり目で何度も舐めた後、『ヒオビ。俺、実はメモリよりも』って言いながら僕の軍服に手を掛けて――ちょうど僕のこの演技を叱ろうとする、この目でずっと僕を睨んでくるんすよ?」

 無理矢理再現をしようとしたヒオビの勇気にイフラは敬礼の一つもしてみた。左手で。

「貴様には灸を据えてやる」

「待ってください! 僕はモリさんが騙されてる証明のためにっすねえ――」

 ヒオビの襟を掴んで船倉へズルズル引きずっていくカサツシ。「うわあああああっすっすぅ!」としばらくは断末魔を挙げていたヒオビだったが、徐々に弱々しくなっていく。

 そんな男どもを無視して、イフラは再び、眼前に展開する澄み切った一面の青を心に取り入れる。なにもこのような環境で嫌な気分になることもあるまい。鬱屈した想いは、イフラの髪を靡かせるこの潮風も味方となって吹き飛ばしてくれる。

「あのバカどもは……せっかくの旅でも変わらないんだね」

 少し、眠くなってきた。瞼をそっと閉じる。


   ・


「ほう。俺をセゴナへ招待したいと」

「私の主人たるミナヤ様は、貴方の研究内容を評価したいとおっしゃっています。談合して、意見を交換しあいたいのだと」

「ミナヤ神と。まさか、俺なんかを認めるとは思いませんでしたな。ただまあ俺も、いつかは学問の探究としてセゴナへ旅をしてみたかった。渡りに船といったところです。……それにしても、俺の論文などはもう、評価されないものだとばかり思っていました。自分の欲求を満たしているだけですからね。どうしてレチクラの学会ではなく、セゴナへ渡ったのです?」

「ミナヤ様にそのような些事が通用するとでも?」

「失礼。全ての人間のことを知っているのでしたな、【人類の母】は」

「ミナヤ様は、そんな貴方と知識を交換したいようなのです」

「俺などよりも超越した戦術……さらには戦略の眼を持っていると解釈しているのですが。幾千もの時を過ごした彼女が、今さら俺のような子供に、聞くべきことなどないように思えます」

「であるからこその、意見交換です」

「それなら俺でなくてもいいでしょう。論文くらい、俺でなくても後世になれば似たようなものを書く者は現れます。俺を名指しで外国へ呼び出す危険性を犯すまでの利点は、俺のような若輩には理解できません。国全体に災厄を呼ぶことになります」

「ミナヤ様は、兄弟で分け隔てして育てる方ではありません。賢い子でも悪さをすれば身を呈して怒りますし、愚かな子でも母のお手伝いをすれば暖かく抱きしめてあげます。子離れできないミナヤ様は、誰かのために働いているのに、誰よりも報われない子に救いの手を差し出したくなってしまうような、子煩悩な方です。そのための苦労は厭いません」

「…………。いやはや。そういうことですか。分かりました。『母に甘えさせてもらいます』と、そうお伝えください」

「ありがとうございます。これで私も肩の荷が下りる……と思いきや、私の要件はこれだけでもありません。実はもう一つ、お伝えすることがあるのです。それはカサツシ様ではなく、そこにいるイフラ様宛のものなのです」

 ここでイフラは、大きく息を吸ってしまった。思わぬ部分で自らの名前が出て動揺した。

 ヒオビが提案した社会勉強とは、盗聴のことであった。最初こそ、「カサツシに怒られるから」と拒否していたイフラであった。だが応接間に近づくとカサツシの声と、それとは違う、澄んだアルトが聞こえてきたその時には意見を翻す。心臓が痛い。こんな時間に、女と一緒に居る。もしかしたら、と疑心暗鬼に陥る。イフラからこうして扉に耳をそばだてていた。ヒオビはその横で眼を瞑りながら、じっと直立の姿勢を保っていた。

「まだまだっすね、モリさん」

「うるさい……だって、無理でしょこんなの」

「僕はこれが職業なんすけどねえ。これができなきゃ、オマンマ食いっぱぐれてるっす」

 そうヒオビが軽口をかます間に、カサツシは扉を開ける。

「あ、」

 怒られる。そう思ったイフラは、咄嗟に身をかばった。

「はあ。メモリ。バレバレだ。最初から気づいておったぞ。どうやって離れてもらおうか考えていたが……」

 だが、イフラの想像とは全く違った反応が返ってきた。ヒオビを見ると……消えていた。頭が追い付いていけない。ヒオビ諸共、叱られるビジョンしか浮いてこなかった。

「え、ちょっと、バト、どこ行ったの?」

「ヒオビ曹長? ……居たのか?」

「うん、だって、バトが誘ったから」

「…………。それが本当だとしたら、なにを考えているんだ、あいつは」

 冷静になっていれば、それは拙い言い訳にしかならないことは、イフラとて分かる。けれど、信じられなかった。こんな場面で、ヒオビがイフラを見捨てたことが。

「イフラ様。我が主、ミナヤ様からお言付けを預かっております」

 そんなやりとりを無視するように、これまで口出しせず黙っていた女がイフラの前へ立った。

 禁欲的なまでにその身体を包む黒いツーピース。彫像のように、口元以外は一切変化しない表情。長く、燃えるように赤いその髪以外は、色という色がまるで存在しない。

 彼女は、この世界で最も尊い存在とされる、ミナヤ=クロックの使用人だった。

 ミナヤは、ざっくりと表現すれば、全能ではないが、全知の神。

「【もしも来城すれば、記憶を復元することが出来る】とのことです。これを信じるかどうかは、貴方次第」

「――――」

 記憶を、たとえ少量でも取り戻すことができる。乾季に雨が降る歓喜。

「メモリ。やはり……イフラ少尉の記憶が欲しいか?」

 慎重に、くれぐれも丁重にカサツシは問う。

「当たり前でしょ。私の【為替】は、なにかを捨てなければ発動しない。だから記憶は一生返ってこないかと思ってた。……でも、返ってくるのなら話は別」

 頭で考えられる理屈ではないのだこれは。誰でも等しくお菓子を貰っているのに、自身だけが貰えなくて、どうして文句の一つも垂れずに済む。

「ふう。難しいな。俺は女の扱いなど慣れていない。――ヒオビ曹長。メモリのこの意思を尊重すれば、かのイフラ少尉の尊厳を破ることとなるだろうか」

 いつから戻ってきていたのだろう。イフラは知覚できなかった。突如にして現れたヒオビが、カサツシの問いに答える。

「…………。モリさん命な僕の意見を聞いてくれるんならいくらでも言うっすけどね。でもそれは軍人イフラ=モシツ=メモリ少尉であってここにいるモリさんではねえっす」

「かまわない。俺は、お前ほどイフラ少尉のことを知っているわけではなかった」

「それなら。……モリさんは、中佐の喜ぶ顔が見れればそれで十分でしたっすよ。悲しいっすけどね。で、中佐は誰がどうするのが一番の喜びであるか。誰の願いをかなえてやることが嬉しいのか。その辺りは、悩まなくても答えは出るっすよね。出ないと言わせないっすよ」

 相談というものは明確な応答が欲しいのではなく、意思決定の方向性を定めたいからするものだ。ヒオビがそこまで背中を押してやれば、もう結果は決まり切っていた。

「そうか。なら、俺はまた少しだけ、【逆さ蕾】となる」

 こうして、イフラとカサツシは、セゴナ行きを決めた。

 …………。

 ――イフラが過去を思い出すことで、心の奥深くに眠っている、実験観察されていた頃の記憶まで蘇ってしまうのではないでしょうか。可能性が僅かでもあるならば。【自分】はこれを、止めなければなりません。『彼』にばれようとも……前面に出ざるをえないのです。


   ・


 セゴナへ行く最短の方法は、船を使うことであった。

 レチクラとセゴナの間には、かのモヴィ・マクカ・ウィが位置している。東西にとても長い国で、陸路にてセゴナへ行こうとするのなら、大きく迂回しなければならない。交通手段にもよるが、一ヶ月は覚悟しないといけない。だが船なら二日もあれば到着できる。モヴィ・マクカ・ウィは船の技を持たないため、領海が小さい。

 三人はミナヤの計らいによって、無料で船に乗せてもらっていた。

 そのおまけとして、イフラという少女が初めて目にした『海』という自然の一風景は、不思議な高揚感を齎している。どれだけ眺めていても飽きることがない。揺りかごに入った安心感。

「(どうやら気に入ってくれたようだった。よかったよかった)」

「(実を言うと、僕もモリさんに先輩面できるほど海を知らないんすよねえ。完全に大陸の育ちっすから。僕も存外、喜んでるっすよ)」

「(お前が喜んで誰が得する)」

 カサツシと、背中を擦っている以外はけろっとしたヒオビの二人は、イフラを起こさぬよう声を潜めて、会話する。

「(明るく元気なモリさんが見られるなら悪くないもんっす。中佐だってそうっすよね?)」

「(発言を控えさせてもらう)」

「(またまた。そう言いながらジットリした眼でモリさんを観察してるじゃないっすか)」

 青いワンピースで着飾っているイフラは、まるでそのまま海へと還るのではないかと思えるほど、自然環境と馴染んでいた。

 イフラは服を見る目がない。この服は先日、ヒオビが調達してきたものだった。ことイフラに関するものとなると趣味全開を発揮するヒオビであるが、だからこそ、ヒオビは自らの好みを押し殺し、イフラが最大に似合う服を提供する。イフラだってそういった服は気に入るのだから、それを着ない理由もない。……ほんの少しだけ、服からヒオビっぽい匂いがするのは頭の片隅に追いやっておくこととして。

 袖からちらりと覗かせるイフラの細い腕は、空に浮かぶスポットライトによって白い肌を輝かせられ、生命の強さを観る者に教えてくれる。

 イフラは知る由もないが、この「女の若さ」というものは、男にとっては毒そのもの。

 少尉時代と比べて虚弱であるし、また、少女となっているイフラは、男からすればなににもまして庇護欲が出てしまうのだった。

「(勘違いしてくれるな。俺とて、久しぶりの大海原の広大さを楽しんでいるだけだ)」

「(モリさんの前にある海だけを指して『大海原』っすか? 随分範囲狭いっすねえ。……久しぶり? 中佐は海見たことあんすか?)」

「(十年前に。海兵隊と合同演習した時のことだ。当時の俺はまだまだ下っ端。訓練では扱き使われていたものだ。訓練時に、愛用している武具の使用は禁止されていてな。むかついた俺は、海兵隊の誰よりも長距離を無装備で泳ぎ、矜持を叩き折ってやった)」

「(うっひゃあ、【逆さ蕾】がなくっても反則じゃねえっすか)」

 カサツシの武勇伝は、嘘かどうか判断がつかないほどである。

――【自分】は常に間近でカサツシのことを見続けていましたから、それは本当なのだと知っています。

「(ああそうそう、中佐からは曹長と呼ばれるのが当たり前でしたからあれですけど、僕、昇進して准尉っすからね。少尉だったモリさんにようやく届きそうっす)」

「(ん、そうなのか、それはめでたいな。何故報告しない? 拍手の一つは送るぞ)」

「(祝ってくださいっすよ拍手だけじゃなくて!)」

 ヒオビの突っ込みに、実は起きていて聞き耳を立てていたイフラはくすくす笑ってしまう。外から見ているだけなら、カサツシがするヒオビ弄りは、正直言って笑えてくる。漫才を見ているようだ。いけないいけない、と意図的に寝息を強く呼吸する。それがまた、外から見るとわざとらしすぎて滑稽だ。

「(だってっすねえ、やっぱ中佐からは、曹長と呼ばれ慣れてるっすから)」

「(それでも階級を下に呼ぶこともあるまい。それこそ俺は、お前が二等兵であった頃から面倒を見ている。その都度呼び方を変えてきた。最初こそ違和感を拭えないが、そのうちに慣れるようになるものだ)」

「(それを言い出したら、僕は中佐を栄誉少将とか言わないといけないんすよ?)」

「(殉職したみたいだからやめろ。縁起でもない)」

「(だから僕も嫌なんすよ。ってか、中佐はマジで故人っすけどね、公式的には。ははは)」

「(まあな。そうなっていなければ、こんなところで呑気に海など眺めていない。……俺が将官、な。どれほど俺を『都合良く』美化させたいのだか)」

 カサツシは船の進行方向とは逆、母国レチクラを遥かに望む。

「(軍への未練は断ち切れないっすか? でもいくらそれがクソ女だったとしても、フラれてぐちぐち悩む男は見てて情けねえっすよ? 男はスパッと切り捨てなきゃ)」

「(そんなわけあるか。佐官とは言っても所詮は中間管理職。クビを切られるときは切られる。俺はたまたまそれに当たっただけだ。酷い話であるとは思うが、もう諦めている)」

 頑張っているというのに、切られたその悲しみ、悔しさとは如何ほどのものか。

 ――カサツシのその感情に【自分】は共感してしまい、心に染みて痛いものでした。

「(……戦場で生き残るために必死で訓練していたあの頃は若かった。あんな碌でもないものでも、青春と呼べるものなのだな)」

 イフラには、そのように懐かしめる記憶がない。が、十年前ということはカサツシだって、今のイフラと似たような年頃である。前向きに考えれば、イフラはこれから思い出を作ったとしても遅くはない。……もっとも、イフラが前向きにばかり考えることができるのなら、この旅に参加していないのだが。ここは悪い方向に思春期の少女である。

「(海を見れたこともそうだが、今日この日のことも、俺の思い出となりそうだ)」

「(良くも悪くも、波乱のある旅になりそうっすねえ。ま、モリさんのためなら、僕はどんな苦難だろうが甘味だろうが舐めつくしてやるっすよ。そのための僕の人生っすわ)



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