【5】第八の場面「余計な知識の上書き」
結局、ヒオビに根負けした二人は、ヒオビを臨時教師として雇ったのだった。
気持ち程度に身なりを整えたカサツシは、こんな夜遅くに訪問した客と応接間に入っていった。それがヒオビの主張を受け入れざるをえなかった理由でもある。粘られた時点で負け。
「モリさんの専任教師……なんかすっごい脳髄ズビビするっすね!」
「同意を求めんな」
イフラは扉が閉まらないよう、開け放した状態にさせながら言った。もし何かあった時、素早く逃げることができるように。身の危険を感じる。
「中佐がどこぞの馬の骨とも知れぬ輩と接触している間、僕は情報部によって仕入れまくった知識を、イッツア教師タイム!」
意訳をすれば、「モリさんに勉強を教えてしんぜようっす」といったところ。ちゃんとそう言えば、そして、変な言動はしないと誓えば、最初から素直に頼んだのにと思うイフラだった。
「それじゃ、なにを教えることとするっすかねー。……お、これは。モリさんの手垢が新しい」
「変態やめい」
ヒオビは教官として、イフラがどんな勉強をしているのか確認をする。本棚に並んでいるうちの一冊を取り出し、ぱらぱら捲るようにして見ていく。ちなみにそれは、夕食前にイフラが読んでいた本だった。イフラのように雑誌感覚で……というわけではなく、次々と捲れていくページに、全神経を集中させながら読む。
「……あー、駄目だこの本。近代史はともかく、現代史のことを全く分かってないっすねえ」
一分も経たないうちに読み終わったのか、そんなことを言ってきた。
「そうなの?」
その本は最後まで読んでいなかったので、合っているかどうかすら定かではない。
「はい。かなり憶測混じりっす。特にここ数十年の『かの国』の侵略は褒められたものではないのに、べた褒めっすよ。まあ、そういう著者、なんでしょう」
「へえ。カサツシってあんま歴史は教えてくれないから知らなかった」
「理系っすからね中佐は。なら、僕はこのあたりを攻めてみましょうっすかね。どうせ軍人を生業としているわけっすし。まだ中佐から軍でやってたことと、なんでそれをやってたのかを教わってないっすか? 変な知識を得られる前に、是非とも僕色に染めたいっすからね。中佐との盟約に引っ掛からない程度なら、大丈夫っす」
「うん。カサツシ、あんまり軍のことは話そうとしないし。軍時代も、軍そのもののことも」
「こほん。それじゃあ始めさせてもらうっす。ちなみに僕の感情が一部混じることを参考までに」
ヒオビはそう前置きをして、滔々と語り始めた。
「もともと草原が多いために遊牧民だったことに起因しているのかは定かではありませんが、自らの威信を掛けるぐらいなら、今日のご飯の心配をする気質があるんすよねこの国、レチクラは。現代では都市も発展してきて、昔ながらの生活をしてる地域こそ少ないっすけど、国民性はそうそう変わらないっす。そんなレチクラっすけど、この方針を気にくわない……という名目で危機に晒されていたりもするんすよ」
「うわ、いきなり真面目に語りだした」
やろうと思えばやれるのなら、最初からそうしてほしかった。だが考えてみれば、ヒオビとここまで堅い話をするのは初めてだ。カサツシ以外の人間はどのような意見を持っているのか単純に興味あった。そこにいる男がヒオビということも忘れて、イフラは耳を傾けていた。
「モヴィ・マクカ・ウィ……だっけそれ。なんか長い名前だから、逆に印象が強い」
世界でも有数の侵略国家。この数年で急激にその支配地域を拡大している。反発している国を封じ込めるのに武力で抑え込むような国だ。そんな国とレチクラは隣接している。
イフラ。カサツシ。ヒオビ。誰にとっても因縁の大きすぎる国。
「どこの国にも難癖つけまくってるんすよ。あの国を完全に押さえることができるほどの超大国もあるんすけど、そこは絶対に自分からは攻撃しない、専守防衛な国だから皮肉っすよねえ。レチクラを含むそれ以外の国は、おどおどびくびくしながら最後の一線だけは守りつつ外交してるっす」
気にくわないという理由から攻められて、「しょうがない、自分たちが悪いんだ」となる国がどこにあろう。主権を守ろうともしない国は国として機能できない。
「それこそ僕たちの御先祖様の時代から、モヴィ・マクカ・ウィはちょっかい出してるらしいっすね。数で攻めては略奪し放題。モヴィ・マクカ・ウィの国王が平和外交をしてた時期は落ち着いたもんだったんすけど、王が代わってから反動がきたのか、滅茶苦茶攻め寄せてきたんす。それがここ数年っすね。レチクラも黙ってるだけではないっす。どうせこれ以上仲が悪くなりようがないし、こちらからも作戦を打ち立てたんす。その作戦の立案者は、言わなくても分かるっすよね」
勿体ぶった言い方。立場を考えれば、自然と一人に絞られる。
「これが『スレタム戦争』勃発の背景っす」
一年前レチクラ軍が死力を尽くし、そのせいでイフラが記憶を失った戦争の名称。
――【自分】はこの世から完全に消え去るまで、あの戦争を決して忘れることはありません。愛する者と離れ離れにならなくてはいけなくなった戦いを、どうやったら記録だけの出来事にすることができるでしょう。
「その戦争を勝利に導いた立役者こそカサツシ。……そんな凄い人だったんだ」
「伝説の男だったんすから。【陽浴の造花】っつう最強の部隊を率いて、自身も最前線に立ちながら戦い、幾つもの勝利をもぎ取ったんす。アイツの目が黒いうちは何人たりとも本土侵攻できないと、敵さんに称されたぐらいなんすから。今は退役っつうかまあそんな感じで、しがない研究員になっちゃったすけど、当時はそんだけ凄かったんす」
こんな人知れぬ森の中、研究に没頭している男の正体はそれほど大層なものなのだ。
ふとヒオビは、その眼球がイフラの机の上にある写真立てを映した。それを両手で持ちあげて「ほー」と感嘆の息を吐く。
「懐かしい。現役時代じゃないっすか。僕たちが三人だけで映った、唯一のものっす」
「そうだったんだ。なんとなく気に入ったから飾ってたんだけど」
「うをあああヲああヱああモリさんの心の中に僕の居場所があるっすうううウうううう!」
さりげなくイフラの布団へダイブしようとするヒオビ。イフラはヒオビの足を持ち、百八十度回頭させ、壁へ投げる。かろうじて寝床にヒオビの匂い分子を擦り付ける行為の阻止成功。
その写真、先ほど森を歩いていた時のように、イフラを中心として、カサツシとヒオビが横に立っている姿が映っていた。それぞれイフラの肩に手を置いている。
ぶすっとした実直そのもの。軍服に何十もの勲章を身につけている、レチクラ共和国南方防衛軍司令官カサツシ=ミケンシ特務少佐(当時)。通称【逆さ蕾】。二十三歳。
ニヘラとした変態以外の何者でもない笑顔を浮かべている、レチクラ共和国本部直属情報部諜報課ヒオビ=バト二等兵(当時)。通称【蝙蝠】。十八歳。
頑張って笑顔を作ろうとしているが、結果として引きつってしまって、なんだかとんでもないことになっている、レチクラ共和国南方面軍カサツシ直轄実験観察部隊隊長イフラ=モシツ=メモリ軍曹(当時)。通称【為替】。九歳……もとい、十歳。
表情こそ違えど、そこには信頼できる者通しだけが発することのできる独特な親密の空気が、インクを通して鼻孔を叩く。
「モリさんは写真嫌いでしたっすからねえ。証明写真のようなものは素直に撮られたっすけど、僕が盗撮しようとすると殴ってくるんすよ。嫌いにもほどがあるっす」
「喜んだら私、女として駄目すぎると思うわ」
壁から垂直に身体を生やしているようにも見えるヒオビは、なにごともなく会話を続ける。
「……ってかさあ、少尉とか曹長って、中佐と個人的に仲良くなれるような階級なのかしら」
「モリさんの場合は『実観隊』の隊長を務めていたことが大きいからっすよ」
実観隊を、あくまでも風の噂としてイフラは知っている。そこいらの町の人に聞いても、同程度の情報しかでないだろう、ごく僅かに。
正式名称、実験観察部隊。
レチクラ屈指の年少兵、そして少数先鋭隊であった。当時のイフラ少尉ですら最年長であったことが、どれほどに子供だけで構成された部隊なのか伺える。
「英雄として語り継がれるほど活躍していた中佐っす。ある程度のことが権限で許されてたんすねえ。実観隊という強力でも扱いにくい性質を持った部隊を、自分の配下にするよう手回ししたんす。ついで同時期ぐらいに、十把一絡げな兵士だった僕は、中佐のお眼鏡に適って、中佐の配下の部隊所属となったっす。いやあ、あんな辛辣なこと言うくせに、僕の力が必要なんすからあ」
「…………」
「お、あ、なんでモリさんそっち行くんすか!」
部屋の対角線まで逃げるイフラ。ヒオビがイフラに付き纏うのとはこれまた違った、気持ちの悪いなにかを感じ取ったから。
「とまあ、そんなこんなで繋がりのできた僕たちは、よく中佐に割り当てられた指令室に呼び出されたんすよね。こうして、三人による付き合いが始まったわけっす」
そんな馴れ初めであるのか、とイフラは少し驚いた。
『軍人』として箱に括れば共通点はあるのかもしれない。だが、箱は内部では立体的に道が作られている。真上から除けば交わっているように思えて、角度を変えれば全く接点がないこともざらである。その三本の道がどんな運命か、見事に重なり合うことで、交差点を成したのだ。
人はどんな出会いがあるのか予想することはできない。
――どんな別れがあるのかも予想することはできません。
「そもそも、私はよくそんな立場だったよわね。信じらんない」
「実観隊の中でも、尉官を務められたのはモリさんだけでして。それにはやっぱり、それなり以上の理由があるんすよ。最年長であったことなどもたしかにそうっすけど、一番大きなものが、【為替】っすね。扱いこなせるのはモリさんだけでしたっすから」
イフラは特殊な魔を扱うことができる。「自らにとって価値のあるものを失う代償に、等倍の対価を得ることができる」というものだ。他人にとっての価値などどうでもいい。イフラが大切に想っているものをそれだけの『元金』として、相応の差額を受け取ることができる。この身体を全て捧げれば、惑星だって滅ぼせよう。したところで意味はないのでやらないだけだ。独創的であるのに利用方法によっては汎用性溢れる代物。
それこそが【為替】と呼ばれたイフラ少尉の由来である。
イフラは、記憶を失ったのは「記憶」を元金に【為替】したからだと推測している。
記憶は人間そのものだ。人を構成するが水やタンパク質のような形はない有機成分。幾億もの時が流れようとも、記憶にさえ留まっているのなら、その人間はまだ「生きて」いる。
……では何故、単純に自らの命を絶つのではなく、抜け殻だけは残していったのか。
イフラには、昔の自らが何を考えているのかも、まるで手が届きそうになかった。
「おっと、話がかなり逸れたっすね。でも、あと話すことも少ないんすけど」
一年前までの流れをここまでこれたのだから、残りはここ一年間のことだけだ。
「戦線を大きく引かざるをえなくなったモヴィ・マクカ・ウィは、暫くレチクラ攻略に裂いた戦力を補充するために、停戦条約を結んだっす。その直前、前線で陣取っていたカサツシ=ミケンシ中佐は、クネホファ遺跡で名誉の戦死を遂げてるっす」
「……は? 生きてるじゃん」
「世間一般では、の話っす。まあこっから先だと、どうやっても中佐との約束に反するんで言えませんから、話はここで終わらざるをえないっすけど、色々とめんどくせーことがあるんすよ、政治と軍事の間で。そりゃあもう、血生ぐっせえのが。こうして鬱蒼とした森の中で暮らしてるのも、そういった事情があるからなんすよ。物好きでこんな辺鄙なとこに居るわけじゃないっす。中佐という人間は、意外と視野が狭いっすからね。それが目的を達成するための手段と決めたなら、それしか見えなくなるんすよ」
ヒオビは笑って話したが、イフラはどうしてもそんな気楽なものには思えなかった。
それほどの死線を掻い潜ってきたのに、忘れてしまっていることを悪とさえ思ってしまう。
「……この私と今の私は、繋がりなんて全然ないのに。私はこんな顔、絶対にしない。ヒオビはそれだけ私のことに執着するけど、どうして私に失望しないのか、分からない」
イフラは写真の中の、未来永劫複雑な表情を浮かべている自らを見ながら言った。
ここで一つ。『カサツシがこの場で記憶を失って、ヒオビの性格に変貌してしまったとしたら』と仮定をしよう。その場合、おそらくイフラはカサツシに興味を失ってしまうだろう。もはやその人物は「カサツシ=ミケンシ」という、イフラの知っている同一人物ではないからだ。所詮、イフラはその程度しか絆はない。
それなのにヒオビときたら、ここまで別人となっている「イフラ」に接し続けている。
……別方面から見れば、それは本当に「イフラ」が大切と言えるのだろうか?
記憶を失う前の、ヒオビが好きだった「イフラ少尉」を裏切ることにはならないのだろうか?
イフラはそう思ってしまって仕方がないのだ。
「はは。心外っすねえ。僕はイフラ=モシツ=メモリの身体には興味ないんす。僕が必要なのは『イフラ=モシツ=メモリ』という、その孤高の魂。その魂を、僕はモリさんと出会ったその日から、ずっと追い求めているんすよ」
「だから、記憶を失った私なのに、それでも付き纏うの?」
「そうっす。嘘は言ってないっす」
ヒオビははっきりと言いきった。混じりっ気のない、純粋な言葉だった。
残念ながら、イフラはヒオビの想いに答えることなどできない。あくまでもイフラは、カサツシのことが好きなのだ。ヒオビとは、出会いの時点からしてスタートラインが切り離されているのである。だからか、運命の残酷さがイフラの心に伸しかかる。
断るにしろなんにしろ……そういった意味でも、イフラは記憶を取り戻したいと、そう思ったのだった。
「……いい頃合いっすね」
「なにが?」
「ちょっと、社会勉強しに行きませんか? 下の階にある、応接間に、ね――」
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