【4】第七の場面「運命を選択」
青年の名はヒオビ=バト。イフラとカサツシの旧知だ。そしてとても困った性癖がある。
イフラが大好き。愛してやまないのである。
三人が共に軍人であったころから、ヒオビはイフラを好きだ好きだと叫んでいた。イフラはそれを片手間で受け流し、カサツシがヒオビを処分する。そんな流れが定番だった。二人が研究所で暮らし始めてから暫くは音信不通であったが、半年ほど前に突然研究所を訪ねてきた。記憶を失ったイフラからすれば、その時が初対面。同時に、唯一の知人となった。
そのヒオビはヒコヒコと、刷り込みをされたヒヨコのように付いてくる。さりげなくイフラの隣をキープ。ヒオビの反対にカサツシ。イフラ中心とした横並び順になる。この三人組、見ようによっては何になるのだろう。イフラは諦めの境地に達した頭で考えた。少なくとも、上司や部下には見えない。三兄妹。……絶対に御免である。
そんな暇潰しの想像も、森に足を踏み入れた時点で意味をなさなくなってしまった。人目を気にできるほど、人がいないのだ。
「未だに南基地では【逆さ蕾】が語り継がれているんすから凄いっすよねえ。かの伝説を語ると、衛生班の女の子とか喜んでくれるんすよ?」
ヒオビはカサツシから受け取った除虫剤を、身体に吹き付けながら言った。いくらヒオビが変人だからといって、虫すらも近寄らないというわけでもない。人間としての節度は絶対に守るのがカサツシ。まあヒオビにだけは最低限しか守ってやらないが。
「へえ。よかったわね。でも、女の子を喜ばせるだけの会話をしてるのに、どうしてわざわざ私にトリモチするのかしらねえ?」
にっかり、華々しい笑顔を見せるイフラ。太陽のように明るいのに、どこか冷風が漂う。
「ひゃっほうモリさんの笑顔ごっちゃんす!」
「効かねえし」
どうして私じゃなくて他の女にもっとかまってくれないの? という逆嫉妬も、ヒオビには皮肉にすらならない。むしろ、灼熱の砂漠で氷水を貰って嬉しくない者がどこにいよう。ヒオビからすれば、罵詈雑言は十分にご褒美なのだ。
「情報を集めるためには、どんな手段でも使わざるをえないんすよねえ。撒き餌として中佐を話題にするのってやっぱ、かなり便利っす。ほら、中佐は伝説のヘッドっすから。一人でレチクラを守りきったと。納得いきませんが、世間的にはそうなんすよね。その影には、【為替】こと、モリさんがいたっすのに! ついでに僕も」
「だからさー、なんで伝説になってるの?」
ヒオビはカサツシの顔を伺う。「言ってもいいっすか?」と顔だけで合図をした。「いいや、やめろ」と、カサツシは首を横に振って意思表示。
「メモリは知らなくてもいいことだ。むやみやたらな殺傷を誇るのは、俺の美学ではない」
「そういった気高い精神があったからこそ、中佐は人気なんすけどねえ」
戦場でどのような活躍をしたのか、カサツシはあまり語りたがらない。有名な軍人であったことは知っているが、そんなことは外国の子供ですらイフラより詳しい。森の中で暮らしている上に、カサツシに密着している身では、世間体は残念ながら聞こえてこない。
「でも私が知るのは駄目なのに、私以外の女にミケンシの凄さを教えるのはいいの?」
「よくないに決まっているだろうが。ただ、与り知らぬところで遣り取りする分には、俺にはもうなんの問題もないからな。そのぐらいの情報なら流してもよいと許可したんだ。そこいらの女どもが俺のことを英雄扱いするのは構わん」
「そう」
イフラはそっけなく相槌を打った。……カサツシのことを知っている女が、他にもかなりの数がいる。そのことにどうしてかイフラは、心に蟠る正体不明の嫌な感情を覚えた。
「モリさん。大丈夫っすよ。そんな女たちってのは大抵、中佐の表面をなぞっているにすぎないっすから。中佐を本当に理解できたやつなんて、僕とモリさんしかいないんすよ」
「……人の心を読まないでよ」
「だってモリさんっすからねえ。すっかり別人になろうとも、僕の観察眼からは逃れられないっすよ。このぐらいできねえで、モリさん好きを名乗れないっす。モリさんの脳なんて、僕には透明の箱に仕切られてるようなもんっす」
真っ直ぐ。ただ只管に真っ直ぐ、ヒオビのその想いはイフラにぶつかった。
「はあ……本命を諦めてくれてもいいのに。粘着力長持ちすぎ。ネズミもびっくり」
「愛しているモリさんを諦められるわけないじゃないっすか」
「物好きここに極めり、だな」
「カサツシ。それ、どういう意味?」
先ほどの笑顔と同じものをイフラはカサツシへ。しかしびくりともしない。そのまま首を動かして、再びヒオビへ向ける。「ヲ!」と太陽を直視したかのように目を細め、そのまま電流を浴びたように身体をビクンビクンと痙攣させる。
「ったく、中佐は不感症っすねえ。モリさんの笑顔に感じないなんて、人間じゃないっすよ」
「部屋で鏡の前に立ってニコヤカな顔の練習をしていた件で見飽きた」
「アレっすか。アレはすごかったっすねえ。通算千三百二十四回目の惚れ直しっすよ」
「なにやっちゃってんの私」
想像しただけで「恥ずかしい」というよりは「痛々しい」感情に襲われる。
「俺からは何も言わん。ヒオビ。説明したければ好きなだけするがよい」
「よしきたモリさんまずお礼として僕を殴ってください!」
土下座をするヒオビの後頭部へイフラはノータイムで足を減り込ませ、小さな足の形を刻みこむ。
「外国で開かれた舞踏会に、中佐が招待されたことがあるんすよ」
そのまま説明を開始するヒオビ。地面により深く口づけさせてやりたい気分に駆られたが、それだと喜びのあまり、きちんとした説明してくれそうになかったのでやめておいた。飴と鞭というか、鞭こそ飴。飴は素直に飴。都合がいい、とも言う。
「お偉いさんの集まる大切なものでして、モリさんは中佐の護衛を任されたんすよ。でもほら、舞踏会に堅物表情なんて似合わないじゃないっすか。参列者の興が冷めること受け合いっす。そこで中佐はモリさんを使命して『女性としての嗜み』を勉強させてたんすよ」
この辺りでイフラは喫茶店でカサツシが言っていたものと同じだと気がついた。
「そうしましたら、真面目だったモリさんっすから、基地の中でも、訓練じゃない時間はドレスを着ながら優雅な立ち居振る舞いを研究してまして。……無表情で。中佐が『流石にそれはないだろう……』なんて呟いてしまったからにはもう大変。影で表情筋の筋トレをする毎日っす。で、僕と中佐がたまたまモリさんの部屋へ立ち寄ったら――」
そこで言葉を止めたヒオビ。まあ、後の展開は誰にでも予想がつく通りということで。
「僕はボコボコに殴られながらも、貴重品である写真機でばっちり撮りまくったっす!」
「その写真のネガを全て渡しやがれ。過去の私の仇を取る」
「ちょ、モリさんの願いでもそれは無理っすよお。あんな可愛くはにかんだモリさん、滅多どころでなく、当時は絶対に見られなかったんっすからあ。希少価値高すぎっす」
「こ、こんな奴らの前で恥ずかしげに笑っていたというの私は……。私を軽蔑するわ」
記憶を失う前後で性格などががらっと変貌したとはいえ、本質はそう変わらない。「イフラ」も「イフラ少尉」も、ヒオビの行動は力づくでも止める。
「でもまあモリさんは自然のままが一番っすけどね。あんな演技のモリさん、モリさんじゃねえっす。その時その時で、素のモリさんが魅力的なんすから」
恥ずかしげもなくさらりと言ってのけるヒオビは、その性格を直した上で相手を選べば、きっとその女は好きにならざるをえなくなる、とイフラは思った。生憎イフラは、カサツシ以外の男は眼中になかったが。多数に想いを振りまけるほど器用ではない。
「…………。じゃあやっぱりネガを全て渡しやがれ。私じゃないんでしょうが」
「いやっす! モリさんじゃないっすけどモリさんではあるんす! ……ネガといえば、僕が初めて会った時のモリさんもよかったっすねえ。混じりっ気のない瞳に僕ぁ、身体がびびっと痺れたんす。今思えば、あれは運命のベルだったんすね」
「『ネガ』で『目が』を連想させるな」
「あ、駄洒落だったんだ……しかも微妙……」
カサツシの突っ込みにより、どこが「といえば」で転換できる話題なのか共通点を理解した。話が宙に浮くことこの上ない。筋が通ってるだけマシか。
「それにあれは、メモリに電撃を喰らっていたからな」
「しかも物理的になのね……」
身体に走った電気を恋の始原と勘違いする。吊り橋効果と似たようなものだろうか。でも「ヒオビだから」の一言を加えると、それだけで納得できてしまう。
「確信しましたっすよ。この女性は、僕の運命の人だって。その証拠として、部署が違うのに、よく遭遇したじゃないっすか」
「俺がイフラ少尉を必要として指令室まで呼ぶと、どこかからかお前がその噂を聞きつけては要件をでっち上げてまで俺のとこまで来ていたからな」
「中佐! あんたは夢がないっすよ!」
「ふん。夢なんぞ、とっくの昔に覚めているからな」
その後はくだらなくも、イフラかカサツシの怒りの臨界スレスレな会話を繰り広げた。日が落ちて程なくして、三人は研究所まで帰ってくる。
「ふう。いつも思ってるんすけど、なーんか中佐っぽくないんすよねえこの家。もっと殺風景な、禁欲的といえる家を想像してましたから」
ヒオビが背もたれを前にして椅子に腰かける。勝手知ったる他人の家。両手の指で数えられるほどしか訪れたことがないくせに、カサツシやイフラ以上にリラックスしている。図々しいとしか言えないかもしれない。
「しょうがないだろう。思いついたことをすぐさま実行に移せるこの環境は、俺にはあまりに快適なものなのだから」
二人の住処たるこの研究所は、お世辞にも清潔とは言い難い。一応は暇をみつけては掃除などもしているが、目の届かないところなどはどうも放置してしまいがち。
カサツシは部屋の隅にある掃除用具入れから箒を取り出し、角から中心へ向かって掃き出した。埃がどんどん集まっていく。これだけ放置していたのかとカサツシは自己嫌悪した。
「中佐はモリさんの前では、生の自分を開放していると……うー、嫉妬の炎が巻き起こるっす。僕だって、生の僕をモリさんに解放したいっす!」
「【蝙蝠】は虫の仲間だったっけ? 飛んで嫉妬の炎に入って死ね」
「おおうすっごく気持ちのいい一撃がぁ!」
真後ろにぴょんと飛んで椅子ごと倒れるヒオビ。ぶつけた頭から凄く軽快な音がしたが、それが脳みその詰まってる物体が発する空気の振動には、到底思えないイフラであった。
「それはそうと、今日は九時ごろに客が訪問する予定でな。大切にしたい客人なんだ」
蛙のように足を開いているヒオビへ、何事もなく話を切り替えられるカサツシに、なんだかシュールを覚えるイフラ。傍から見れば、イフラとヒオビの会話もそうであろう。
掃除を始めたのは、ヒオビという客がいるから。それ以上に、そのような約束が既にあったから。カサツシは対面を大切にする。
「お客? 聞いてないけど」
「言ってないからな。先日、伝令鳩が飛んできたんだ。今日の深夜に来る旨の手紙が括りつけられていた。信頼できる相手だ」
「そうっすか。そりゃあよかった。僕は騒ぎまくればいいんすね? で、客人を怒らせれば。いやー、何事も完璧を目指す中佐の青地図を破壊するのは楽しいっすからねえ」
「お前は外で野宿。除虫剤の使用は許可しない。この家の敷地内に居ることも許可しない」
「ひでえっす!」
夜行性の生物も多いので、昼以上に除虫剤が必須である。要するに、死ねと。
「それに僕は、暖かい布団と暖かいモリさんに包まれながら寝る予定だったんすよ!? 人の予定を壊して何が面白いんすか!」
人を邪魔しておいて、人に邪魔されたくない。ここまでの厚顔無恥にイフラもなりたい。
「包んであげようか?」
「お願いするっす!」
前後の流れという名の地面など、蛙跳びからそのまま空を飛ぶ【蝙蝠】と化したヒオビには関係ない。イフラが甘い事を言えば、檻が見えていても罠に飛び込んでこそのヒオビ。
「じゃあまずこの寝袋の中に入って」
「はいっ! モリさんも一緒に入ってきてくれるんすね!」
カサツシが保持していたサバイバル用寝袋をどこからともなく取り出してヒオビに投げた。それだけで十分。純情に、無垢に。イフラのことを、尻尾を振る子犬のように信じてくれる。
「……ふん!」
顔だけがすっぽり外へ飛び出す姿となったヒオビ。首の部分をぎゅっと締める。
「あ、あれ? ちょっとモリさん! そこ縛りあげたら蟻の子一匹侵入できないっすよ!」
うるさいので口をテープで塞ぐ。ムームーと唸ることしかできなくなる。そんな、「蛙」から【蝙蝠】、【蝙蝠】から「犬」、「犬」から「芋虫」に順風満帆に栄転しているヒオビを、イフラは窓の外へ放り投げた。家にある全ての窓の鍵を締め、これで完了。壁や窓ガラスには防音処理が施されているので、外からの雑音が研究室に入ることはない。
「よくやったぞメモリ」
「【蝙蝠】? 芋虫の間違いじゃないの……?」
「あの一点だけに絞ってしまえばそうかもしれないが。ヒオビ曹長を【蝙蝠】と渾名したのは、別の部分が故に、だからな。それ以外は個々人が勝手に解釈して呼んだに過ぎん」
蝙蝠っぽさ……顔が蝙蝠に似ているとか? と思うイフラだが、しかしヒオビの顔はそこまで歪なものではない。黙っていればそこそこ見れる。黙っていれば。黙ってくれれば。
「ってかさあ、泊まるつもりだったんだ、あいつ」
「休暇が出ているのは本当だろう。自分から申請したのか、それともお上が授けてくれたのか。そのあたりは定かではないがな。まあ数日は居座るつもりだろう。……メモリには余計な気苦労をさせてしまったな。お詫びに夕食は俺が用意するから、あとは好きにしていいぞ。掃除もしなければなるまいから、今日は少し遅くなるか」
時計を見ると七時ほどであった。カサツシは大体一時間ほどで食事の用意を終えるから、それまで少しだけ手持無沙汰であった。なにやら実験でもしているのでなければ、机に伏してぼーっとしている意味もない。
「ん、部屋に戻って本でも読んでる。もしかしたら一眠りぐらいしてるかも」
「了解。時間が来たら起こす。ああ、一応、【蝙蝠】の超音波には注意しておけ」
「外からの怪奇音で眠れなかったらたまったものじゃないわ。十分にしておく」
イフラは研究室の本棚にある本を適当に見繕って持ち出す。研究室を出て階段を上がり、二階にあるイフラの私室に入って鍵を締める。日はすでに落ちているから暗く、ぼんやりと部屋の輪郭が見えるだけだった。
右手親指の爪を噛む。イフラにとっても爪は女の身だしなみ。それを噛んで形を歪にする。その結果としてイフラの周囲は、柔らかな黄色い光に包まれた。照明の蝋燭を点すのが面倒くさいからの代用。【為替】。
椅子に座り、机の上に置いた本を突っ伏しながらぺらぺらと適当にめくる。雑誌を眺める程度の気楽さで。試験があるわけでもないし、根を詰めないくらいでちょうどいい。
『魔』というものは、持たざる者にとって、対抗する手段が存在しない。それこそ物理的な壁が相手であるなら、たとえ素手であろうとも、殴り続けて疲労を蓄積させれば、悠久を経てついには破壊させることだってできよう。だがそれも、殴る相手が空気なら?
持たざる者、すなわち、男。男では魔が使えない。進化の不都合か、神の気まぐれか。嘆いても仕方がない。事実は変わりようがない。
人間が力を持つ者と持たない者に別れてしまった時。
そこに人権という単語は有って無いも同然となる。
男は千年もの長い間、女に隷属して生かされた。その立場に甘んじるしかなかった。そうだろう。純粋な腕力では優っているとはいえ、空気すら操るような者を相手に、どう戦えと命じることができる。それはあまりに酷というやつだ。
……しかし万能と思われた魔にも欠点はある。
全く零の状態からは、新しい命を作ることができないのである。
鉛から金を精製することはできようとも、土くれから人間を捏ねることは不可能。稀代の天才と呼ばれた女ですら、その境地に辿り着くことはついに至らなかった。
増やさなければ種の存続はできない。減らさないためには。子を産むしかない。
これだけ。ただこのためだけに。男という、たしかにそこに存在している一つの生命は。
だが。男は魔を持たない。その代わりなのか、知能は女よりも遥かに優れていた。生物学的見地に立って比較してみても、男の脳は女のものより一回り大きく、また、女にはない「改膜質」という部位がある。それによって、男は知力のみでなら女に勝てた。戦術で負けても、戦略で勝てばそれでいい。一部が負けても、全体を勝たせる。
戦力は均衡した。そこから長い時に渡り、現代に至るまで男と女は対立する。
「……ふう」
要約をすれば、この本の内容はこんなところだったか。半分ほど読んだところで一息つく。
「女と男の対立は防ぐことができない、ねえ……」
イフラは机に伏せながら、あまり深くならない程度に、世界の不条理を考察する。
女は魔を過信しすぎる。絶対的な力を持っているのだから、これに頼っていればいい。そういう考えの者が多すぎる。故に、知識を得ようとしない。生きるのに必要最低限の知識さえ持てば、あとは豚の餌にもならない低俗なものと唾棄する。「呼吸をするのは空気中に散在する、酸素という気体を取り込むための行動である」という知識ですら、知識人階級でも高級でなければ知らないほど。肺胞で二酸化炭素と交換? なんのために? そういった世界。
反対に男は、魔などは所詮、人間の周りに纏わりつく付属物でしかない、という考えを持つ。指の先から炎を灯すことが、どうして地位が高いことの証明となる? 道具を使って火を起こせばいいではないか。むしろそういった女は、それ以外の火を点ける方法を知らない。より柔軟に、何百もの手段で火を点けることができる『技』を手に入れた男こそ、理性を持った動物である人間として進んでいる、といった主張もある。
女には男が、男には女が、それぞれいなければ種の存続は図れない。全滅してどうとなる。いくらかは共存を考えなくてはならない。女には女、男には男の特徴があり特長がある。上手く組み合わせれば、片方の性別しかいない集団よりもずっと成功する。
もしも男女が完全に同権利を得てしかも相互を補助しあうような社会ができたら。
「……所詮は絵空事。不特定の誰かの幸せよりも、自らの幸せを、ってね」
イフラは目の前にあった写真立てを指でピンと弾いた。イフラ、カサツシ、ヒオビの三人が写っている。そのうちの一人、ヒオビ。
この三人で作られる信頼の関係図は、「イフラ―→カサツシ←→ヒオビ―→イフラ」になると、イフラは思っている。ヒオビは、カサツシほど信頼に値できない。だから三角ではなく直線となる。イフラ側からヒオビと結ぶ矢印はない。
……それなのに、あくまでもイフラを好きだと豪語できるヒオビの気持ちこそが、イフラには決して理解できない。イフラは「カサツシが他の女と仲が良かったのかもしれない」と考えただけで、とても黒い感情が心のほとんどを占めてしまった。たった一年、寝食を共にしているだけでこれなのである。戦場で苦楽を分かち合い、常に背中を預けあってきた三人。なのに、一人だけ除けものにされかけようとしたら……普通は、恨むどころの話ではないのではなかろうか。しかしヒオビときたら、カサツシがイフラと同居していることを嫉妬ぐらいはしているが、底抜けに明るい。いくら目を明かそうが、暗さなどどこにも出てきやしない。
「なーに考えてんのかしら、あいつは……」
今も外で必死にもぞもぞしているであろうヒオビへ向けて、イフラは霞んでいく思考を少しだけ我慢して、憐憫ともつかない目線を送った。
――【自分】は、その目は間違った感情です、と伝える手段を持っていませんでした。
「おいイフラ。起きろ。夕餉が整った」
「……んぅ?」
意識が黒い。カサツシの声なのは認識できるが、それを一つの言語として処理できない。
「あー……、……ふぁ……。……やっぱ寝てたんだ、私」
これだから勉強をすると。これでもまだ、自分のペースだからこのぐらいの量をこなせるのだ。たまにカサツシが授業を始めると、ただの子守唄となってしまう。
「ほら、締まりのない顔をするな。涎が垂れているぞ」
「うが」
すぐさまごしごしと服の袖で口元をこする。カサツシに情けない姿を見られると、なんだか恥ずかしくて仕方がない。
「……んぃ?」
ふと、視界の片隅になにかが映る。同時にコンコンと、なんの変哲もなく、窓が叩かれただけの音がイフラの私室に響く。
こんな森の中だ。仮に遭難した人がやっとの思いでこの研究所を見つけたとしても、わざわざ二階にあるこの部屋をノックする必然性がない。表に回って玄関を叩けばいい。人間でなければ、他のなにかの生物であることもないだろう。では一体なんだろう。……【蝙蝠】の存在を思い出すよりも先に、身体が謎の解明を急いでしまった。
「待てメモリ!」
がらっと、外開きの窓を開けた瞬間、黒く大きな物体が部屋の中へ飛び込んできた。
「……遅かったか」
「……ごめん」
寝起きは判断力がない。直せるものではないが、なんとかしたいと強く願ったイフラだった。これではカサツシが惰眠を貪っていることに文句は言えない。
「なーんで、モリさんの部屋ってこんなすっげえいい匂いがするんでしょうねえ。やっぱり女性って素晴らしいっすよ。そしてモリさんはもっと素晴らしいっす」
イフラの肩幅ほどしか窓をあけていないというのに、器用にその芋虫体をくねらせつつ、弾丸となって侵入してくるそのあまりの姿に、イフラは抵抗することまで忘却の彼方。
「……人間の尊厳をどこに置いてきたの? 私が取ってきてあげようか?」
冗談や皮肉でなく、本心が勝手に唇を支配していた。
「僕を舐めないでほしいっすよ。敵地に侵入して捉えられて、全身拘束されても一人で抜け出す術を独学で手に入れたんすから。……でも身体運動で僕にできることは、モリさんも大抵はできるんすよねえ。まだ少女と言える年齢で大人の男と対抗できるって、すんごい才能っすよ」
「人間やめたい。こんな芋虫と同等だっただなんて」
イフラ心からそう思った。可能であれば、当時の自らを呼び出して殴り殺したかった。
「少尉時代のモリさんの部屋にはよく出入りしたものっすけど、少女になったモリさんの部屋は初めてっすねえ。鉄壁でしたっすから」
芋虫のままゴロゴロと転がりつつ部屋を観察するヒオビ=バト(現役軍人)。
ことあるごとにイフラの部屋へ入ろうとするヒオビであったが、カサツシの援護などもあり、これまで一度も許したことがなかった。まさか、こんなところでヘマをするとは。
「はあ……飯が冷める。一階へ行くぞ」
大きなため息を吐いたカサツシは先にイフラの部屋を出ていく。イフラも、ちょっと小さく感じた背中に立ち歩いて追従した。続いて芋虫男が、イフラの見た目通りに小さな背中へ這って追従する。この絵面ときたら。
研究室は電灯で明るかった。掃除もしていたからか、ごちゃごちゃしていた研究室は、すっきり整理整頓されていた(電気は水力発電。供給を安定させられる水源が近くにある。これ以外のインフラもカサツシが整えていて、街中に住むよりよほど快適だったりする)。
中央のテーブルに今日の夕食が並べられている。今日は買い出しをしたばかりだから、保存のあまり効かない、生鮮食品を使った料理だった。保存が効くからといって毎日乾物ばかりなのも変化ないので、月に一度はこのような献立になる。今日は一人余分に居るためかいつもより皿の枚数も多く、大皿料理も二倍近くの量があった。一時間以内にヒオビがどうにかして研究所に乱入してくることは予測済みだったらしい。まさかそれがイフラのうっかりによって破られるとは計算外であっただろうが。
「じゃ、いただきますをするっすか。中佐の手料理ってのが心躍らねえっすけど」
「食うなお前が仕切るな」
「中佐は何気に家庭的っすからねえ。僕の舌を唸らせるのがモリさんじゃなくて中佐ってのは、いやはやなんとも」
そう言って笑ったヒオビはがさごそと寝袋の中で身動きをする。首の周囲に巻かれていた紐を自分の手で切り、寝袋から脱出した。一人で抜け出せるような代物では断じてなかったのに。
「ってかやれるならやりなさいよ」
「モリさんに『すげえ!』って思ってほしかったもんっすから。好感度ばっちりっすね!」
どちらかというと好感度は下がったが。
やっと人間に戻ったヒオビも含めた三人は適当な会話をしつつ、食事を進めていく。
「モリさんも普通の女の子になってしまったってことっすか。堕ちたものっすねえ」
「そのように仕向けたのはむしろ昔のメモリだっただろうが」
「そうなんすよねえ。最後の方は、少女になりたがってたっすからねえ。今のモリさんが、あのモリさんのなりたがっていた少女なのかは微妙に疑問っすが、まあ色々と経過を見る限りでは、……どうでしょうねえ。モリさんは花を愛でたりなんかしなかったっすから」
「メモリが花を育ててるなど、言ったことあったか?」
「え? …………。あの庭を見れば分かることじゃないっすか。まさか中佐が花なんか育てたりなんかしないでしょうし」
「それもそうだな。俺が花を栽培なんか、するはずがないな」
庭の裏手には、食糧のための畑と、研究用に栽培している植物園がある。植物園には花を咲かせているものもあるのだが、イフラはそのことを言わないでおいた。カサツシがそこで引くのなら、イフラは厄介な蛇を呼び寄せたくない。
「まだ一部、メモリは少女らしくない箇所は多分にあるのだがな。……少女と言っても個人差はあるだろうから、俺も強要はできん。自由気ままに振舞ってもらうだけだ」
「でも勉強は強要させてるくせに」
「それとこれとは話は別だ」
キッと、途端に実直そのものの口ぶりになるカサツシ。
「男であろうが女であろうが、考える力を放棄させてはならん。現状維持を望むような思考停止になったら本格的に終わるぞ。考えた末、終焉としての現状維持ならともかく」
「僕らはそれで痛い思いをしたっすからねえ。僕らが考えなかったんじゃなく、お上が日和見しただけっすけど。中佐のその考えには同意せざるをえないっす」
「なにも考えずに生きていけたら、世の中は簡単だ。だが、そうはいかない。必ずどこかにぶつかる。そういった時、知識さえあれば乗り越えることだってできるかもしれない。若いうちはその重要性には気づかないが、俺ぐらいの歳になれば後悔してくるんだ」
たかが十五のイフラには、そんなことを口酸っぱく言われたって、右から左へ受け流すだけであった。「変なこと言っちゃったなあ……」と全く違うところを反省しつつ、食を進める。ただイフラの気持ちも分かるため、カサツシもきつくは言わなかった。こういうことは頭に入れておくだけでもいい。大人が言って聞かすことこそが大切なのだ。
「そうだ。どうせ強要するなら、僕がモリさんの鬼教官をしてみたいっすねえ。教師と生徒のいけない関係……ものすごっく惹かれるっす」
「却下だバカ者。最初から下心を持っている男とメモリを一緒にできるか」
「えー? でも軍時代は僕の方がモリさんと居た時間は長かったっすけど、せいぜい着替え見ちゃったくらいしか色っぽい展開はなかったっすよ? 今さらそんなことを言われても」
「故意だったろうがあれは。しかもイフラ少尉はまだ十一歳で、男のなんたるかを知らない、まさに少女の年齢であった」
イフラは無言でヒオビにドン引きする。
「わ、違うっすよ! モリさんは羞恥心の欠片もなかったっすから、僕は頑張ってモリさんに『恥ずかしい』という感情を覚えさせてたんすよ! ついには甲冑の隙間から覗かせるその白い肌が見えるだけでも顔を赤らめるくらいにしたんすからね!」
もっとドン引きする。
「私ってなんなの……バカじゃないのかしら私……」
ヒオビの喜びそうなことを、無意識であろうがやってしまっていただなんて。
「どうせ今日、中佐は客の応対とやらがあるんでしょう? だったらその間、僕が教えてもいいじゃないっすかあ。広く浅くが中佐の思想っすよね? 一人の人間が全てを教えようとするよりも、たまには別の人間を入れた方が新鮮味があるんじゃないっすか?」
イフラは森の土のように水を吸収していく。○○戦争はヒオビ=バトのせいで起こった、などと間違って教えられていても、そのまま鵜呑みにしてしまう可能性すらある。
「駄目だと言っても、僕は持ち前の粘り強さで食らいつくっすよ!」
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