【2】第五の場面「憎しむ日常」

「メモリ。そこの万年筆を投げてよこしてくれるか?」

「…………」

 一秒に十度ずつ傾きを変化させていく時計の針を、机に伏しながら観察していたイフラは、カサツシの言葉に反応できるまで、針が五十度ずれる程度の時間を要した。

「……ん、ああ、これね、はい」

 目の前にあった一本の万年筆を、体勢をそのままに腕だけをぞんざいに扱い、机の向こう側にいるカサツシへ投げる。軌道で半分の孤を描いた万年筆は、カサツシが手を伸ばさないと取れない位置まで飛んだ。イフラの心情と同期したのか、やる気が無さそうにくるくると。カサツシは反射と運動神経で、なんとか掴んだ。

「む、これもインクがない。くそっ、まさか五本同時に切れるとは。これを確率とするのは、一体どのような計算をすればいいのだろう。座学も重視すべきだったかな」

 机のこちら側にいるイフラには、机の上にある物品が邪魔で、カサツシが書こうとしている紙を見ることができない。だが何度もペンを振っていること、「キッ、キッ」と掠れたような音がすることから、紙が汚れなき白を保ったままなのは想像に難くなかった。

「はあ……退屈……」

 ため息を一つ吐く。

「ほら、カサツシ。貸してみて。インク、吸入してやるから」

 そのぐらいのことなら率先してやってあげてもいいかな、とイフラは思った。無駄飯食らいなのは否定しようもないが、だからといってその地位に甘んじることもない。そしてなにより、暇なのである。刻一刻と変わりゆく時に身を委ねる。いつもなにやら実験か観察のどちらかをやっているカサツシを眺める。どちらの暇潰しを選ぶにしろ、イフラの若い身体は眼球以外に動かず、ただ持て余すのみ。刺激を求めてこそ若者だ。

「無駄に矜持があるのが負であるが、こういう時だけは助手が有難いな」

「遠回しでなく直接礼を言いやがれ。……助手であれば私じゃなくてもいいってこと?」

「まあな。優秀な助手がいたらメモリでなく、そちらを選びたい。たまたま拾えたのがメモリだけだっただからなあ。むしろ女子のがいい。あ、メモリが女子だったか」

「私は女子ですらないと?」

 くっくっと笑うカサツシ。彼を知る者からすれば珍しいことに、洒落を飛ばしてきた。普段は女に興味がないくせして、ジョークでは女好きを装う。

 それほど私は女っぽくないのか、と不安になったイフラ。壁掛けの鏡に顔を反射させる。自分では今一判断できなかった。

 全体的に顔のパーツが小さく纏まっているが、やや三白眼なせいで人相が悪い。相手を威圧するなら効果的なのだろうが、場面を選びすぎる。だがそれとは裏腹な、イフラの柔和な雰囲気。優しく微笑むと、少女特有の初々しさが全面的に押し出される。冷たいガラス玉のような瞳がふわっとした暖かさを持つと、この世に春が訪れたような気持ちにすらなる。鋏でザックバランに切られただけだった黒髪は徐々に伸びてきて、今では肩に届くほどになった。切り口もきちんと整えられている。手足もすらっとし始め、身体も凹凸が顕著になっている。

 日を追うごとに女へ成長して、男を誘惑する天性の才能を身につけ始めている。あと数年もすれば、立派に大人の魅力を出せるだろう(少女と大人の中間地点である現在も、今だからこその魅力は、視る者によっては十二分にあるが)。

「そう怒るな。白衣を着ている者に『女』を感じ取れないだけだ」

「着ないと研究室に入れてくれないのはカサツシでしょ。そうやって私を女扱いしないもん」

「私服を許可して暗器でも持ち込まれたら敵わん。今みたいにカッと怒ってブスリとされたらたまらない。【為替】の頃のお前は、ヒオビへ向けて、俺の身体ほどもある壺を投げつけたのだからな。まだやろうと思えばやれるだろうさ」

「ああ、あいつに。……それって最早、暗器関係なくない?」

「その壺の存在に、少なくとも俺は気付けなかった。十分にあれは暗器だ」

 イフラは年相応に小柄であるが、この年代の女子では平均的。それほどの大きさの壺を隠しきることの方が、投げることよりも難しいのでは。「実行できる私は一体……」と、理解できなくて頭を抱えるイフラ。

「ってか、そんなもんを持ち上げられるほど怪力女だったの……?」

 筋骨隆々な男が自慢として力瘤を作るように二の腕に力を込めてみる。しかしプルプルと震えるだけで、所詮は女の細腕であった。ちっとも膨れやしない。

「今見ても、よくもまあそんな貧弱な筋肉で、男と肉弾戦をやれたものだよ」

 カサツシはそう言って、イフラの全身をジトッとした目線で何度も周回させる。

「まあ必要最低限の動きで相手を千切っては投げた私だから」

「もしかして、そこは覚えているのか?」

「……そんなことをしてたの私ってば」

 冗談のつもりだったのに、冗談ではなく実際にやっていた。つくづく自らというものがよく分からなくなるイフラであった。世間一般の常識に当て嵌めれば、肉体派にも程度というものはあるだろう、と。

「これが『イフラ』の投法だ。正確には、俺たちが編み出した、だが」

 手首だけを気持ち程度に動かしたカサツシに、イフラは投げられた物を受け取ろうと、物体を見るよりも先に手を動かした。……ここで下手に動かなければよかったのだ。中途半端なその行動のせいで、イフラが元居た場所ならば、その物体こと万年筆はイフラの胸ポケットへ入っただろう。けれど結果は捻じ曲がってしまい、開襟服の胸元へ、ものの見事に投函された。されてしまった。

「…………」「…………」

 しかも悲しいことに、少しなにかに当たりこそしたが、服の裾からストンと落ちた。コロンコロンと万年筆が哀しげに転がる。心なしか、万年筆が同情している風情すらあった。

「偶然だからな。狙ったわけではないからな」

「こうなる可能性なことすんな!」

 むしろ余計なことをしたのはイフラだが、このような場面においた悪とは常に男である。

 至急、白衣の釦を全て閉じる。いくらカサツシは女を歯牙にもかけないと身体は覚えていても、心が許容できるわけでもない。イフラもやはり、少女である。そのついでにイフラは手元にあったビーカーを投げつけておいた。緑色をしている液体が入っていて、いかにも有毒っぽさそう。そういった意味でもちょうどよかった。どうなろうが知ったものか。怒らせるようなことをするカサツシなんか。

 ……なのに結果は、イフラの想像とは大きく掛け離れた。ビーカーの射線上から避けようともしないカサツシは、甘んじてビーカーを大きな身体で受け止める。

「すまん、これ、罰どころか、実験に協力も同義だ」

 液体はビーカーから零れなかった。それどころか、緑色しているその液体は、すでに黄緑に変色していて、カサツシがビーカーを逆さまにしても重力に負けることはない。

「容器に注ぐ。その容器ごと女が持ち、そして手放すと、このように容器を含めて硬化するんだ。理由は分からん。検証途中だから、当然といえば当然であるがな。まあ俺がやっても硬化せず、メモリがやれば硬化するなら、ごく単純に『魔』が影響すると思ってもいいだろう。しかもメモリは、潜在的には上等な魔を扱えるわけで、」

 気まずくなったのかどうでもいいことをペラペラと語りだすカサツシ。その低い声を耳に入れるのも鬱陶しくなったイフラは「はいはい頭いいわね」と怒鳴る。

 イフラは深呼吸をする。あまり騒ぎたくない。落ち着いてから、次の言葉を発する。

「まったく……また変な実験をしてるのね」

「心外だ。俺の実験へ対する姿勢はいつもと変わっていない。イレギュラーが起きただけ」

 カサツシの研究内容を、イフラは理解できない。「『魔』を無効化させる方法について」を念頭に研究しているようだが、そんなことができるものなのか。このようにどこかおかしなカサツシなら、いつかはやり遂げるだろうと思うイフラではあったが。

「さて、観察結果は書き留めておかねば……って、ああ。インクが切れていたのだった。そういうわけだ」

「どこがそういうわけなんだか……」

「頼む。手伝ってくれ、メモリ」

 ……ほんの少し前まで怒りがこみ上げていたのに、カサツシの落ち着いている声で、イフラがイフラである唯一の証を口ずさまれると、

「はあ。自分が嫌になるよ」

 すうっと、頭に昇った熱が、胸に温かいものとして降りてきてしまう。

「カサツシに言われたことやるの、癪なのになあ」

 精悍な顔つきや、意思の強そうなキリリとした眉、鋭い眼光。決して美男ではないが、男らしさにかけて、まずカサツシに勝てる者はいない。だというのに、すっかりこのだらけた研究生活に悪い意味で適応したのか。栗毛色の髪はボサボサ。白衣こそ白さを保っているが、その下は何日か着替えていないことすらある。身なりを整えたカサツシに命令されるならまだ、格好よさに惹かれただけだから、とでも言い訳の一つもできるのに。

「インク入れるのやめようかな……」

 ぐだぐだと文句を言いながらも、イフラは万年筆のインクを吸入するために、台所から柔らかい布を持ってくる。万一インクを溢してしまったら机が大惨事。それはそれでカサツシの慌てぶりが面白そうであったが、自らにも被害が及ぶので忌避したいところ。そうでなくても、最後にはペン先などについたインクを拭きとらないと、綺麗な見栄えにならない。折角やってあげるからには、なるべくでも完璧を目指したかった。

 尻軸を回して中のピストンを下げて、インクの瓶の蓋を開ける。

「…………。ふむ」

 インクの補充が終わるまで手持無沙汰なのかカサツシはイフラの目をじいっと見つめる。

 ……イフラがそれを認識したということはつまり、イフラだってカサツシの顔をほんの少しとはいえ、確実に見ていたというわけで。ばっちりと目と目が合ってしまう。それから逃げるため、首をぐりんとカサツシが視界から消えるまで回す。それは、慎重に取り扱う液体の前でする行動ではなかった。万年筆をしっかり押さえていたつもりだったが、イフラが動いた衝撃で瓶が大きく傾いてしまい、インクが零れそうになる。

「っ、」

 予期せぬ行動なのに反応することができたのか、カサツシは咄嗟に、向かい側まで机の上を跳躍する。その長い腕の片方はイフラの身体を拘束し、もう片方はインク瓶をキャッチすることで、無理矢理に阻止した。

「ふう、危ないな。洗濯するのは俺なんだぞ。そのインク、書き味こそ滑らかだが、一度白衣についたら落ちにくいんだ」

 カサツシにとって、あくまで貸出しているだけの白衣を汚されることが嫌でやったこと。

 だがイフラにとって、その意味するところは大きく違っていた。

 太い腕が、しっかりとイフラの細い身体を支える。その力強さたるや。

 カサツシの匂いが鼻をつく。薬品ではない、カサツシ固有のもの。

 これだからなるべく、顔を合わせないよう、どこかを見ながら会話をしていたのに。ちょっとでも目が合った瞬間に、インクを零す事態を招くほど動揺を見せる。それ以上に大胆な結果が待ち受けていた現状には当然ながら……、

「ん? 顔が赤いぞ。イフラはやっぱり子供だな」

「五月蝿い! 子供扱いなんかすんな!」

「あのなあ。零しそうになったのを恥ずかしがってるようなやつが、子供じゃないなんて嘘だ。親に悪戯を発見された子供そのものじゃないか」

 カサツシはイフラの心情とは異なった解釈を、さも「俺はお前のことを分かっているから」といった顔をして発言する。……ああなんで女の気持ちも分からないような男にこのような感情を持たないといけないんだと、納得がいかなかった。

「……ふむ、もうこんな時間か。ふう、結局書けなかったな。まあいいか。明日に書けばいい。プロットは頭に浮かんでいる」

 頭が真っ白となっているイフラは、その意味を理解するのにすら時間を要した。少しずつ霧が晴れていく頭に、カサツシの心音に混じり、ゴーンゴーンという硬質な音が聞こえてきた。暇な時にイフラがじっと見つめる小さな時計は、その矮小な体躯に似合わず、巨大な時計台にも負けない重厚な音を捻りだす。カサツシの研究品だ。

「あっ、」

 イフラを解放したカサツシは、イフラが半ば放置していた万年筆の吸入を代行する。五本全てを終えたあと、白衣を脱いでハンガーに掛け、まる問題もなかったかのように扉へ向かってしまう。その扉はカサツシの私室へと続いている。

「明日は月一の外出だ。あまり夜更かしなどせず、早く寝ろよ」

 一日の生活リズムは乱さない。例え、イフラの心音が乱されていようとも。例外なのは、戦場にでもいる時だけだ。そしてカサツシは今や、軍人ではない。

「ふん!」

「おっと、危ない」

 蓋の取れた万年筆を全力投筆。馬鹿正直すぎるその軌跡は見ていれば避けるに難くない。

「ってああああああ! 服が、わりと気に入っている服がああああああ!」

 だが、インクが飛び散ることまで計算に入れられるわけはなく。

 こちらの気持ちなんて知ったものではないカサツシには、攻撃されるだけの理由はある。誰が許可の捺印をしたか? それを訊くのは野暮だ。


 記憶が欲しい。それこそ記憶を失った者が第一に沸き起こる欲求なのではないだろうか。

 だがイフラは少々捻くれた理由で、しかしやはり大多数と同じ欲求、記憶が欲しかった。

 イフラを助手にしたのは顔見知りだったからだが、イフラでなければ助手はそもそも取らなかった、とカサツシは公言している。それだけカサツシと過去のイフラの絆は強かったことは想像に難くない。少なくとも、今のイフラの関係よりは。どの深度まで関係を創り上げたのか。

 いつだってカサツシは遠くの消失点だけを探している。イフラだけを見ているように思えたとしてもその実、奥深くにある一点だけを見通し、それ以外に目もくれない。カサツシが本当は、イフラをお情けで家に置いてやってるからだろうか。そのように思い悩んでしまう。

 ならば、もしも記憶を取り戻し、その「イフラ少尉」とやらの頃の自分に戻ることができれば、カサツシはイフラだけを見てくれるのだろうか。

「ミケンシが私だけを見る……ぃゃー!」

 なんたる恥ずかしさ。そんなことを想像するだけでイフラの心は砂糖で溢れかえり、口から漏れ出しそうになる。ベッドに落ちない程度に転がりまわる。激しく動いたから、では説明がつかないほどの熱さがイフラを襲う。

 たしかにカサツシのことは好きだ。それは認めてやってもいい。だがカサツシにこの気持ちが伝えたい気もするし、伝えたくない気もした。こんな恋慕を抱いているとカサツシが知られて、カサツシが拒絶をしたら……そうなれば、行くあてもない自分にはどうしようもなくなってしまう。そういった意味でも怖い。

 今となって思えば、この世界に自分の存在を認識したとき、かすかにあったイフラ少尉の残滓が「この人に付いていけば大丈夫」と背中を押してくれたのだ。そうでなければ、あれほどすんなりとカサツシのことを信頼できた理由がない。

 ……と、イフラは自分自身に言い聞かせる。なにせそれを否定すれば「一目見たときからカサツシに恋をしていた」という答えが手招きして呼び寄せている。

 理屈でもこねなければ、頭が桃色一色にしかならなくなる。

「あー、記憶があれば……記憶さえあればなんとかなるんだろうけど……でも、私の『魔』の特性を見る限り、奇跡が起こっても無理なんだよなあ……」

 ――そんな、ベッドの上で転がりながら悶々としているイフラを、【自分】は外から、静かに見守ることしかできませんでした。


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