第36話 モブと大樹と小さな背中


 ◇◇◇



「じゃあ、早速行こうか」



「うん! ……なんだか緊張するね!」



「なんだ、やっぱり残る?」



「絶対ヤダッ! トモエの意地悪!」



 俺たちは軽口を叩きあいながら、セレーネを頭に乗せてスルスルと崖を登っていく。



「うわわ……すごい、もうこんなに高くまで」



「おっとッ……! ちょっとセレーネ、急に身体を乗り出すと危ないぜ?」



「あ、ごめんごめん」



 初めて谷底を出ることになるセレーネはやっぱり落ち着かない様子で、せわしなく視線を彷徨わせているみたいだ。



(ああ、頭が揺れてなんだか気持ち悪い……早く慣れてもらわないと、毎回これはちょっとキツいかな……)



 そんなことを考えていると、セレーネが話しかけてくる。



「ねぇトモエ? 外に出たら何からやろっか??」



「そうだな〜、昨日セレーネが聞いた音の正体を確かめたいから、まずはキャラバンの野営地キャンプを調べに行こう。もちろん、よく安全を確認してからね」



 少し考えてから、俺はセレーネの問いに応える。



「う……うん、わかった」



 彼女の声は少し震えていた。


 キャラバンに近づくということは当然、セレーネが苦手なヒト種と接触することになる。そういえば、キャラバンの隊員達は獣人族だった。同じ獣仲間ってことで少しは苦手意識がなくなればいいんだが……



「セレーネ、人が怖いって言っていたけど、相手が獣人でも怖いのか?」



「え? あ、そうだね。うう〜ん。やっぱりちょっと……でも、わかんない。トモエが私の方が強いって言ってくれたから、頑張ってみる!!」



「そっか、今回は安全を確認しないといけないから仕方ないけれど、人間にはちょっとずつ慣れていけばいいと思うから、精神的に無理そうなら早めに言ってね!」



「わかった。ありがとうトモエ」

 


「ほらセレーネ、そろそろ到着するよ?」



「うん!」




 ◇◇◇




 崖を登り切れると、俺達の視界が一気に拡がる。

 急に眩しさを増した太陽に、一瞬だけ目が眩んだ。



「……眩しッ」



 セレーネが小さく呟く。



「ついたよ? ほらほら、目を閉じてちゃもったいないぜ?」



「〜〜ッ、うん」



 彼女は俺の頭から飛び降りて、そっと目を開いた。



 

 空はどこまでも高くて、谷底から見ていた色を変えるだけの細長い天井とは全然違う。

 

 丘を吹き抜ける風は、草原に自生する様々な植物の香りを運んでくる。谷底で浴びた陰気なガスの臭いなんて、あっという間にかき消えてしまった。



「わああ……」



 セレーネの口から思わず声が漏れ出していた。



「さぁ、周りを見てごらんよ」



「う、うん」



 俺の言葉に従うように、セレーネぐるりと辺りを見回している。だがその視線があるところへ差し掛かると、こくんと息を呑んでその動きを止めた。

 

 彼女の見つめる方に目を遣れば、そこにあったのは天まで届かんと真っ直ぐに伸びる大樹であった。


 空を遮る新緑の隙間から、金色の陽が差し込み木陰を照らしている。太い幹から幾本も伸びた立派な枝の上で、風に揺れる葉音に合わせて鳥達が歌っている。



 その光景は、生命の営みが全く感じられない《死の谷》の底とは、何もかもが違い過ぎていた。



 セレーネはそれを見つめたまま、茫然として立ち尽くしている。



「どう? 来てよかっ……」



 俺はその背中に向かって声をかけようとして、やっぱりやめておいた。




 セレーネは泣いていた。ポロポロと、その大きな目から涙を流していた。




 どうして泣くのだろう。



 いったいどんな思いで、彼女はここに立つことを決めたのだろう。



 俺と出会ったことで友情を、そして孤独を知ったと彼女は言っていた。では、生まれて初めて谷底を飛び出し、外の世界に触れた彼女の胸には、いまどんな感情が溢れているのだろう?



「あ……あれ? どうして、わた……あれ?」



「いいんだ。セレーネ、大丈夫だから」



 そう、大丈夫だ。

 その気持ちをいますぐ、急いで言葉にしなくたって良い。



 話したくなったらいつでも聴くぜ、友よ。俺たちはこれからいつだって、側にいるんだから。



 願わくば、この涙が彼女にとっての呪いではなく、これから始まる素晴らしい旅への祝福でありますように。



 心の中でそう祈りながら、俺はセレーネの小さな背中に寄り添った後、二人でしばらく大樹を眺めていた。


 

 ◇◇◇

 

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