第6話
放課後、湊を第二体育館まで送ってから凉水は編纂部に向かった。
校舎から渡り廊下に出ると、晴天だというのに急に色褪せた景色が広がる。心細さを覚えるのは、生徒を見かけないせいかもしれない。
相変わらず開け放たれた入り口から部室に入ると、既に結愛先輩と静太君が定位置に座って教科書とノートを広げていた。
「お疲れ様です。ここ開けっぱなしで寒くないですか」
「閉めて欲しい。寒い」
困り顔の結愛先輩に懇願されたらやるしかない。
ところが取っ手に手をかけて動かそうとしても、木製の引き戸はびくともしない。
「あ、あれ?」
戸が何か噛んでいるのかと凉水が確かめると、引き戸の上下には釘が打ち込まれていた。
「編纂部は怪異の記録があるでしょ。だから部屋を閉め切ると悪い気が溜まって色々出るみたいなんだ。寒いのは我慢してもらうしかないね」
「色々出ちゃうなら仕方ないですね……」
もはやここは異界だ。校舎の常識は通じない。
「先輩、寒いなら私が温めてあげます」
下心なんてあるはずがない。ちっちゃくて可愛い先輩が寒いというのなら、後輩としては身体を使って温めてあげたいという純粋な親切心で結愛先輩に駆け寄ると後ろから抱きついた。これは合法だ。
くせ毛が暴れている結愛先輩の髪の毛からは甘い香りがする。さすがに香水は校則で禁止されているからシャンプーの匂いだろうか。
「静太、すずみんが私にセクハラしてる」
「そんな! セクハラじゃないですよ。秀吉みたいなものです」
「つまり、僕のために先輩を暖めてくれているのかな」
「温まった私になにするの?」
「ふ、不純です!」
「失礼します」
凉水の叫びに重なるようにして、部室の入り口に女子生徒が現れた。
恥ずかしいところを見られた凉水は、何事もなかったかのように結愛先輩から離れる。
「ほらすずみん、お客だから案内して」
言われるがまま「こちらへどうぞ」と椅子を引く。
「三年の
椅子に座った栄川先輩は武道でもやってそうな凛々しい人だった。高い位置でまとめたポニーテールは侍を思わせ、切れ長の目に背筋を伸ばした姿勢や所作からは良家育ちのオーラを感じる。
「少しばかり相談、いや、ここは話を聞くだけだったか。とにかく自分ではどうしたものかと分からない事態に直面してしまい、力になって欲しい」
落ち着いた力強い声に、凉水まで椅子の上で背筋が伸びる。
「ところで栄川先輩は、確か卓球部の部長ですよね」
静太君が質問して思い出す。そうだ、昨日斉藤さんが、栄川先輩は呪われたと言ってたけど、まさか。
「君は新入生だろう。よく私なんかのことを知っているね」
「三年には栄川という綺麗な先輩がいるって、新入生の間で噂されています」
澄ました顔で静太君は褒める。そう言えば凉水も初日に可愛いと褒められたことを思い出す。もしかしてこの男、誰でも褒めているのでは。
「ふふっ、そんな世辞はいいよ。この学校のアイドルといえばそちらの川乃さんだろう」
栄川先輩は嫌味のない笑みを結愛先輩に向けると、珍しく恐縮したように結愛先輩がおじぎした。
「では栄川先輩、準備ができたのでお話をお願いします。」
書き留め道具を並べ終わった静太君が、本題を促した。
「実はこの数日、学校にいると視線というのかな、感じるんだ」
「視線というと、誰かに見られているわけですか」
静太君がペンを動かしながら聞き返す。
「実際、視線を感じたりするものなのか分からないが、強烈に見られている気配のようなものを感じるんだ。大抵は背後から感じて振り返ると誰もいない、ということが続いて不思議に思っていた」
「面白いですね、この学校だと変な物を見たって報告が多いのに先輩は姿の見えない何かから見られていると」
「ただそれだけなら気のせいだろうと思うこともできたのだが……」
栄川先輩は目を閉じて、間を置いた。
「では、心して聞いてくれ」
そして語られた内容は、凉水を震わせた。
昨日の放課後、部活動後に更衣室で着替えているときのことだった。
栄川先輩は脱いだ運動着をたたみ、スポーツバッグの中に入れた瞬間、バッグの中で右手首を掴まれたのだという。バッグの深さは30センチはあるが、床に置いてあるので人にできるいたずらではない。
栄川先輩は反射的に右手を引き抜こうとした。すると自分の手首を掴む真っ白な手が見えたという。
さすがの栄川先輩も狼狽して力が抜けたところで、右手が強く引っ張られる。手首がバッグの中に引き込まれると、前腕も掴まれたのが感触で分かった。
咄嗟にこのままではマズイと感じた栄川先輩は、自身の左手をバッグの中に突っ込んだ。(榮川先輩曰く、痴漢でも捕まえる感覚だったとか)
次の瞬間、掴まれていた感触は消え、バランスを崩した栄川先輩は床に転んだ。
一緒に着替えていた女子卓球部員は、心配して駆け寄ってきたが誰もそのときの様子を見ていなかったという。
短冊一枚がもたらした結果に、凉水は言葉を失う。
「右手を見せてもらってもいいですか」
話を書き留めた静太君が、興味深げに栄川先輩に頼む。
「あまりに目立つから今日は部活を休んだ」
先輩が制服の袖をまくり上げると、右腕にはくっきりと人の手に掴まれた痕が二箇所残っていた。
凉水は息を飲み、静太君は眉をしかめ、結愛先輩は物珍しそうに見ている。
「卓球部はもうすぐ交流試合があると聞きました。大丈夫なんですか」
思わず凉水が尋ねると、
「少し痛むけど、試合までには完治しそうだ。心配してくれてありがとう」
それならよかったと凉水は胸を撫で下ろすが、一歩違っていたら大怪我をしていたかもしれない。そう思うと、呪った人間に怒りが湧いてくる。
「そのとき部室には、卓球部員が全員いたんですか」
静太君が思案顔で質問する。
「二年と三年は全員居たな。一年はまだ体験入部の者がいて、全員居たとは言えない」
「掴んできた手は男と女、どっちの手だと思いました?」
「直感になるが、女だと思った」
スポーツバッグの中に潜む女を想像して、凉水はまた震える。
「女は嫉妬深いから怖いね」
結愛先輩が訳知り顔で言うと、栄川先輩の表情が少し曇ったように見えた。
「バッグの中に顔を見たりはしなかったんですか」
「実は左手を入れたとき、頭に触れたような感触があって、そのときに見えたような気はしたがハッキリとは」
もう聞きたくないと凉水は耳を塞ぎたくなった。栄川先輩はそんな体験をしていながら普通に話しているのが信じられない。
「机の中を見たらおじさんがこっちを見てたって記録があったけど、それに似てるね」
更に結愛先輩が重ねてくる。
「もういいです、十分に分かりました。次に行きましょう、次に」
耐えきれず凉水が声を上げると、栄川先輩は「すまないと」と謝る。
「ここでは目撃談を語り、部員が供養して終わりらしいが、あの腕の持ち主がなぜ私を狙ったのかは分からないだろうか」
「分かりません。もしなにか心当たりがあっても、それは勘違いです。あとの供養は僕達に任せて、栄川先輩はこんな体験忘れるのがいいですよ」
静太君は、呪いのことを一切伏せて断言した。斉藤さんから依頼を受けた以上、完璧に仕事をやり遂げる姿勢に、少しだけ凉水は見直した。
「そうか、君達のことは信じているし、気も楽になった。去年あんなことがあったからナイーブになっているんだろうな」
「あんなことって、なんですか」
気になって質問すると、栄川先輩は「すまない、失言だった」と頭を下げたのに、結愛先輩が引き継いだ。
「去年ね、夏に女子生徒がそこの雑木林で自殺して、冬に男子生徒が失踪したの」
「はい?」
なんだそれは、大事件じゃないのか。州峰高校に於いてそれは霊とか呪いとか祟り案件じゃないのかと凉水は静太君の顔色をうかがうが、まるで意に介した様子はない。
「去年自殺した女子生徒がいて、バッグの中には女がいた。もし栄川先輩が関連付けて考えていたのなら見当違いです。人は怪異を目の当たりにすると、その理由を身近なものに求めてしまうのは分かりますが」
「やはりそういうものか」
「はい。得体の知れないモノを目撃して、近いうちに怪我をすると、これは呪いだ祟りだと思い込んでしまう。ところが実際は何も関係ないです。せいぜい集中力が散漫になっていたとかです」
静太君の説明に、凉水と栄川先輩は一緒に頷く。
「なので栄川先輩は当面不注意な怪我に気をつけてください。もう大丈夫だと思っていても、意識の底ではまだ動揺が収まっていないものです」
なんだか今までで一番的確なアドバイスに感動すら覚えてしまう。やればできるんじゃないか。なんで私にもそれを言わないのか分からない。
「オカルトの道理は分からないが、言われてみればそうかもと思わされてしまうな。ありがとう、君の口車に乗るとしよう」
「よかったね、妃栞先輩に褒めてもらって」
どこか皮肉が込められた結愛先輩の言葉にも、静太君は動じない。栄川先輩の前でも堂々とした物言いだったし、大したものだ。
栄川先輩は最後に流麗な署名を残すと、カバンから紙包みを取り出した。
まさか栄川先輩の手作りお弁当が食べられるのかと期待したが、どうにもお弁当箱には見えない形状だった。
「昼休みに学校を抜け出して買ってきた。相談に乗ってもらったお礼だ、口に合えばよいのだが」
「嬉しいです! ありがとうございます」
まっさきに凉水が感謝を述べると、栄川先輩は立ち上がる。そこに静太君が思い出したように呼び止めた。
「最後にひとつだけ。最近普段と変わったことはありませんでしたか。たとえば何か送られてきたとか、無くしたとか」
意図の分からない質問に、栄川先輩は少し考え込む。
「ああ、そう言えば昨日の放課後、古いシューズが片方だけ無くなっていた。誰かが間違えて持ち帰ったか、捨てられたのだろうと思っていたが」
栄川先輩のファンが、盗んだのだろうか。さすがにそれはマナー違反だろうに。
「それが今回の件に関係していると?」
「いえ、稀に物が消えたり増えたりすることもあるみたいなんで、確認したかったんです。古いシューズが片方だけなら、関係ないと思います」
栄川先輩が部室を出て行くと、早速結愛先輩は紙包みを解き始め、静太君はペンを指先で回しながら考え込んでいるようだった。
「栄川先輩はもう大丈夫なんだよね?」
「うん、最悪でもあと数回怖い目に遭うくらいじゃないかな」
「全然大丈夫じゃないよ! あと数回って、私なら一回で心が折れる自信があるのに」
「気丈だったよね、栄川先輩。おまけにお礼のクッキーまで持ってきてくれる気遣いの人だし。斉藤さんが泣いてお願いするほどの人だけあるよ。ね、先輩」
呼ばれた結愛先輩は、包み紙の上にクッキーを広げていた。どれも動物や魚の形をして可愛らしい。
「マルヤのクッキー、チョコ味。妃栞先輩は分かってる」
結愛先輩はひと口で亀っぽいクッキーを口に入れると、顔がほころびだした。
「とにかく、栄川先輩が呪われたのは確かみたいだし、これ以上なにも起きないように何とかしてよね」
凉水が念を押すと、静太君は上の空でクッキーをひとつつまんだ。
「う~ん、呪いだとしたら、やっぱり去年自殺者が出て土地の穢れが強まったせいなんだろうなぁ。普通は呪ったからって、あんな効果は出ないんだけど、先輩はどう思う」
「本当の呪いだったらもう妃栞先輩は死んでる。だからジェネリック呪いだよ」
死ぬとか、ジェネリックとか編纂部の高度な会話は付いていけない。
「よく分からないですけど、部活を頑張っている栄川先輩には試合を頑張って欲しいですし、それを応援する斉藤さんの想いも救ってあげて欲しいです」
凉水の声が沈むと、結愛先輩が魚形のクッキーを目の前に差し出した。
「ほ~ら、すずみんも食べてごらん。美味しいよ」
口を開けようとして思い留まる。
「でも、それ食べたら、また私も狩り出されるのでは……」
危うくまた罠にかかるところだった。いや、結愛先輩に限って私を罠にハメようなんて考えはなくても、食べてしまえば自動的にそうなる。
心を鬼にして、お断りしなくては。
「お腹いっぱいだから、また今度……」
「ねえすずみん、あーんして。食べさせてあげるからあーん」
「で、でも……」
鉄の意志で顔を逸らすと、結愛先輩はしなやかに机に這い上がって私に近付いてきた。
「駄目ですよ、机の上に乗ったら」
諫めたところで結愛先輩にはどこ吹く風だ。
静太君に助けを求めると、考え込んでいてこちらにはまるで無関心。
「すずみんは私のクッキー食べれないの? 食べるよね? あーん」
「あの、先輩、でも……」
顔を逸らした凉水の頬に、クッキーが押し付けられる。
「あーんして、あーん♪」
結愛先輩の甘い声が、頭の中で何度も反響する。
「あーん」
クッキーは香ばしくて、どことなく上品な味がした。
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