第15話 手、大きくなったな……
そのあとも莉桜の様子はおかしかった。
昼食の塩焼きそばを難しい顔で食べている。
「塩焼きそばにトラウマでもあるのか?」
「そうなりそう」
「ふつうにうまいけど」
「ミスをしたの」
「どんな」
「塩の……」
悔しそうに表情を歪める。
「塩の、量が、多かった気がする……」
「そうか?」
「ちゃんとレシピを見ながら作ったの。麺二玉、豚バラ百グラム、キャベツ百グラム、ニンジン五十グラム、ごま油大さじ一杯、鶏ガラスープの素小さじ一杯。――塩、適量」
莉桜はテーブルをどんと叩いた。
「適量って何グラムよ!! こっちは右も左も分からない素人なんだから、玄人視点で『ちょうどいい感じに』って言われても分かるわけないでしょ! せめて目安を書いてよ!」
「て、適量なんだから適当でいいんだよ」
「『適当』は『あいまい』じゃなくて『ちょうどいい』って意味だから。その『ちょうど』はどこなのっていう話」
「難しく考えるなよ。俺はこれくらいの味で大丈夫だし」
「『大丈夫』……? ということは、少し濃いけど許容できる範囲、ということ?」
「ま、まあ、そうかな」
「やっぱり……! やっぱり多かったんだ……!」
莉桜はぷるぷると拳を震わせる。
「深刻に考えるなよ。これを基準にして次回はちょっと少なくすればいいだろ。それがうちの適量だ」
「……うん」
まだ釈然としない様子だが、莉桜は再び塩焼きそばに手をつけはじめた。
しばらくして莉桜が目をあげて俺の皿を見た。
「もう食べ終わったの?」
「ああ、なんだかんだ言ってうまかったぞ? おかわりしたいくらいだ」
「おかわり……?」
莉桜の手がまた震える。
「足りなかった……?」
「え? まあ、余裕あるといえばあるけど」
莉桜は頭を抱えた。
「やっぱり……! 成長期の食欲を見誤った! 二人分って書いてあったから疑いもせず、わたしは……!」
「ネガティブすぎる」
ガチャで有り金全部溶かしたひとの思いつめ方だ。
「腹八分っていうだろ。これくらいのほうが健康的なんじゃないか?」
「でも塩分が多いから相殺でしょ……」
「大丈夫だよ、若いんだし。運動で汗でもかけばちょうどいい」
「食べたら身体を動かさないと駄目だなんて、それってもはや毒なんじゃ……」
怒濤のマイナス思考だ。
「お前、いったん深呼吸してリセットしろ」
「はああ~……」
「それは深いため息だ」
莉桜は渋々といった様子で深呼吸した。
「よし、もう気にするな。前にも言っただろ、気楽にやれって。もっと手を抜いていいんだからな?」
「うん……」
莉桜は空になった皿を重ねて持ち、立ちあがった。
「足りなかったら、朝食の玉子焼きが残ってるから温めて食べて」
「ああ、分かった」
台所のほうへ歩いていった莉桜が途中で立ち止まり、振り返った。
「そういえば橙也」
「なんだ?」
「今朝、寝坊したよね?」
「……」
――うやむやになってなかったあ……!
「し、してない」
「じゃあなんで起きてこなかったの?」
「二度寝が長引いたんだ」
「同じ!」
「違うだろ! 一度はちゃんと起きたんだから」
「でも自分の意志でもう一度寝たんだよね?」
「……」
俺は顔をそむけた。
「もうこの話やめないか?」
「いいけど、最後になにか言うことは?」
「本当に申し訳ありませんでした」
「よろしい」
莉桜は満足げな笑みを浮かべ、台所へ向かった。
俺はほっと息をつく。
――よかった、いつもの莉桜にもどった……。
しかしその安堵は束の間のものだった。
週に一度の買い出しから帰ってくると、莉桜がちゃぶ台に参考書とノートを広げていた。
勉強をしている、ように見える。しかしシャープペンを持つ手がまったく動いていない。視線は参考書に向いているが、焦点は合っていない。しばらく観察していたが微動だにしない。
「なにしてんだ?」
声をかけると莉桜はびくりと顔をあげた。
「ちゃんと勉強してました!」
「いや、べつに責めてないけど。というかなんでわざわざここで?」
「そ、それは……、ひとの気配とか雑音があったほうが集中できるから。ほら、カフェで勉強するとはかどるっていうでしょ?」
そんなもんか。そのわりに集中できてなかったようだが。
「俺はうるさくても静かでも集中できないけどな」
「それは単なる勉強嫌い。橙也は少し頑張れば――」
「あ、あー、早く食材を仕舞わないとなー」
これ以上は薮蛇になりそうなので話を打ちきる。
「ちょっと、橙也――」
莉桜がなにか言いたそうだったが、俺はわざと大きな音をたてて野菜やらを冷蔵庫や床下収納に仕舞い、さっさと茶の間を退散した。
部屋にもどったあと、莉桜に触発されて教科書を開いてみたり、すぐに飽きてノートPCを開いたり、なんやかんやと時間が過ぎていく。
と、そのとき、がちゃん! となにかが割れる音が聞こえて、俺は弾かれたように戸口を振りかえる。音はおそらく台所だろう。
俺は勢いよく部屋を飛びだした。
「大丈夫か!?」
茶の間へ駆けこむと、莉桜が台所で立ち尽くしているのが見えた。足元には陶器の破片が散らばっている。
「え? あ、だ、大丈夫。手が濡れてて滑っちゃった」
と、苦笑いを浮かべた。しゃがみこみ、破片に手を伸ばす。
「おい、危な――」
「いっ……!」
莉桜はすぐに手を引っこめた。引きつった顔で自分の指を見ている。中指の先に赤い血がぷっくりとふくらんでいた。
「大丈夫か!?」
俺はティッシュ数枚と、戸棚に仕舞ってあった絆創膏を持って駆け寄る。
莉桜は紙のように白い顔をしていた。もともと色白ではあるが、ちょっと病的だ。
「じっとしてろ」
「うん……」
こくりと頷く。
――ああ、混乱してるな、これは。
許容量を超えるハプニングが起こると莉桜はフリーズし、妙に素直になる。それはまるで、硬いダイヤモンドが実は意外に割れやすいのに似ている。一定以上の衝撃を受けると案外簡単に壊れてしまうのだ。
莉桜を立たせて、血を水道の水で洗い流し、水気をティッシュで拭く。
俺は彼女の手に顔を近づけ、傷口に目を凝らした。
「破片は……入ってないな」
指先に絆創膏を巻きつけ軽く握る。こうして圧迫することで止血できるし、絆創膏が肌に馴染んで密着する。
十秒ほどそうしてから俺ははっと息を飲んだ。
――莉桜の手、握ってる……。
正確には指だ。それでも肌と肌の接触にはまちがいない。俺の鼓動は徐々に早くなる。
「と、いう感じでしばらく握ってろ」
ぱっと手を離す。
「うん……」
莉桜は言われるがまま自分の指を握った。顔にはすっかり赤みがもどっている。俺は胸をなで下ろした。
「座って大人しくしてろ。後片付けは俺がやるから」
「うん……」
莉桜は返事をするだけのBOTみたいになっている。茶の間のほうへ移動し、座布団にぺたんと座りこんだ。
俺はホウキとちりとりを持ってきて、破片を集める。
「お前さ、最近調子悪くないか? 心ここにあらずっていうか」
「そんなことない」
断定口調のわりに声は弱々しい。
「昼は妙にいらいら――というかネガティブだったし、勉強に集中できてなかったし、皿は割るし」
「それは……」
「今朝も洗濯カゴを落としてたし」
「あれは違う!」
「なにが違うんだよ」
「ぼーっとしてたわけじゃなくて、
はっと口をつぐむ。
「……?」
「じゃなくて! 手が滑ったの!」
「要するにぼーっとしてたんだろ?」
莉桜は悔しそうに顔を歪めた。
「……ぼーっと、してました」
――なぜ一回否定した。
まだ混乱してるんだろうか。その原因はなんとなく察しはついているが。
「お前さ、ちょっと根を詰めすぎなんだよ」
「べつに詰めてない」
「詰めてるって。あのメモ帳を見せてみろ」
メモ帳に書かれた分単位のスケジュールを追及してやろうと考えた。
莉桜はむっつりと黙っているが、視線がちらと台所のテーブルに向く。
俺はそちらを見た。
――……?
一瞬、俺の目がおかしくなったか、あるいは頭がおかしくなったのかと思った。
――でかくなってない?
あのメモ帳はせいぜい手のひらサイズだった。いまテーブルの上にあるのは、どう見てもB5のノートだ。しかも開かれたページは几帳面な文字と図形でびっしり埋め尽くされている。その様相は魔術書ネクロノミコンかなにかのようだ。
背筋がぞわぞわとした。
「なにこれ、キモっ……」
「ひとのメモ帳を見て気持ち悪いは失礼でしょ!」
「メモ帳ってもっと小さくて取り回しのいいやつのことだろ!」
「だって前のは小さくてあまり文字を書けなかったから、だったら大きくすればいいって思って」
「なぜアナログにこだわる。スマホにメモればいいだろうが」
「ペンで書いたほうが脳に刻まれる感じがするから」
「というか手を抜けって言っただろ」
「だからどうすれば効率化できるかを考えてメモしてるんじゃない」
「メモってレベルじゃねえ……!」
手を抜くための努力が過剰で本末転倒になっている。莉桜の様子がおかしい原因はこれだろう。
つまり頑張りすぎなのだ。学校では優等生、家でも家事に勉強。気力、体力ともに回復する余裕がない。
親元を離れて不安なのは分かるが、そこまで気を張る必要はないんじゃないか。誰に見せるわけでもあるまいし。
と言い含めたところで、完璧主義の莉桜が受けいれるのは難しいだろう。
ならどうするか。
――……そうだ。
俺は閃いたアイデアを口にした。
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