第14話 臭いのが好きなんじゃなくて

 そんなふうにして睡眠不足の日を重ね、次の休日を迎えた。


 いや、正確に言えば、気がつくとすでに休日の朝だったのだ。


 まあ早い話が、寝坊した。


「ほあっ……!?」


 俺は弾かれるように上半身を起こした。


 見ると照明はつけっぱなし、充電しようと思っていたスマホはバッテリーは一桁%になっていた。


 昨晩、ちょっと休憩するつもりで布団に寝っ転がったのだが、そのまま気絶するように眠ってしまったらしい。


 時刻はすでに八時を過ぎている。


 血の気が引いた。スマホに莉桜からの通知はなかった。先週、寝坊したときはしつこいくらいRINEにメッセージを送ってきたのに。


 かなり怒っている。あるいは怒りを通り越してあきらめられたか。


 慌てて飛び起き、茶の間へ向かう。


 いや、待て。また飛びこんでびっくりさせたら余計に機嫌を損ねてしまう。かといって匍匐前進するのは問題外だ。


 俺はそろりそろりと歩みを進め、茶の間を覗いた。


 莉桜はいない。


 ――台所か……?


 ちゃぶ台を迂回して進み、ちらっと台所を見る。


 奥のほうに気配があった。どうやら脱衣所のほうにいるらしい。俺はさらに首を伸ばす。


 莉桜がいた。洗濯機の前に立っている。蓋は開いていて、足元にはカゴがある。洗濯物を投入している真っ最中のよう――なのだが。


 莉桜は静止していた。手に持った白い布を凝視し、固まっている。


 俺は目を細める。そしてすぐに大きく見開くこととなった。


 莉桜が持っている白い布、その正体は――。


 ――俺のTシャツ……!?


 あのV字ネックのシャツは俺のでまちがいない。しかし莉桜はなにをやってるんだ。なにか酷い汚れでも見つけたのだろうか。


 それとも、まさか。


 莉桜の腕が動いた。Tシャツがゆっくりと持ちあげられる。彼女の顔のほうに向かって。


 ――いや、マジか、おい……!


 莉桜は俺のTシャツに鼻をつけた。


 ――おおい……!


 息を吸い、シャツを離す。しばし考えるような顔をしたあと、もう一度、鼻をつけた。


 ――おおおおおおい……!


 シャツを離す。そして今度はほとんど間を置かずに三回目を嗅ぐ。


 ――おおおっほほほおおおい……!


 なぜか俺はとても興奮していた。どういう種類の興奮なのかは自分でもよく分からない。


 莉桜はシャツから顔を離した。表情はあまり変わらない。しかし少しだけほっとしているように見えるのは気のせいだろうか。


 シャツを洗濯機に投入し、次の洗濯物を取りあげようと身を屈めたとき、茶の間から覗く俺と目があった。


「――――――っっっ!!!???」


 今度は以前のような悲鳴はあげなかった。息が詰まったみたいな声をあげ、彫像のように固まる。


『まずいところを見られた』。まさにそういう表情だった。


 しばし見つめあったあと俺は頭を引っこめ、踵を返す。


「ちょ、ちょっと!」


 莉桜がどたどたと駆け寄ってきた。


「なにか言ってよ!」

「な、なにかってなんですか?」

「敬語やめて!」

「なにを言えばいいんだよ」

「責めるとかなじるとか罵るとか」

「お前、やっぱり下僕いぬになりたいのか」

「蒸しかえさないで!」

「別に責められるようなことはしてないじゃないか。――俺、分かってたし」

「………………え?」


 莉桜の目が大きく見開かれる。


「分かってた、って……。ど、どういうこと……?」

「どうもこうも、そういうことだろ」

「気づいてたの……」

「何年幼馴染みをやってると思ってるんだ」


 俺は肩をすくめて笑った。


「そっか……」

「そうだよ。お前、やっぱり――」


 莉桜は目を閉じ、俺の言葉に身構える。


「やっぱり臭いのが好きなんだろ?」


 莉桜は「ん?」というような顔をした。


「今、なんて言ったの?」

「臭いのが好きなんだろ、って」


 ぽかんとする莉桜。


「え、違うのか?」

「違う!」

「じゃあどういう――」

「じゃなくて! 違う! いえ、違わない!」

「お前なに言ってんだ?」

「ちょっと待って」


 俺のほうに手のひらを突き出し、自分の額に拳を当ててなにやら考えこんでいる。しばらくそうしたあと、莉桜は苦々しい顔で宣言した。


「そう、わたしは……、わたしは――、臭いのが好きなのお!」


 そして悔しそうにぎゅっと目をつむり歯噛みした。


「うん、だから知ってたって。でも大丈夫、責めたりしねえよ。趣味や性癖なんてひとの数だけあるんだから。俺はそういうちょっとはみ出してる奴のほうが面白いと思うぞ?」

「……ありがとう」


 莉桜は激高した犬のように歯をむき出しにして俺をにらむ。


 ――ええ……? こんなに言葉と表情がマッチしないことある……?


「ま、まあともかく、誤解するひともいるだろうし、見つからないようにな」

「……そうだね」


 莉桜はむっつりとして靴下を洗濯槽に放り投げた。


 ――怖え……。


 俺は顔を洗おうと、莉桜の後ろをこそこそと通って洗面所へ向かう。


 と、そのとき、ふわりと甘い匂いが香った。それは莉桜のほうから漂ってきた。


 ――いい匂いだよな……。


 落ち着くと同時に、どこか心がざわざわするような感覚が湧き起こってくるような。


「あ、あのさ」

「なに?」


 莉桜は不機嫌そうな顔を振り向けた。


「い、いや……。莉桜って、なんか制汗剤的なものは使ってるのかなって」

「は?」


 不機嫌が怪訝に変わる。


「使ってない」

「え、いっさい?」

「いい匂いは好きだけど、周りのひともその匂いが好きとは限らないから」

「じゃあ柔軟剤は?」

「使わない。理由は同じ」

「でも、前にタオルの匂いを嗅いでアヘってただろ」

「『アヘって』ってなに?」

「あ、ええと……、はなはだしく恍惚としてただろ」

「甚だしく恍惚とすることを『アヘる』と言うの? へえ」

「つ、使うなよ!」

「別に使わないけど。なに慌ててるの?」

「俺が教えたなんて知られたら命が危うい」

「……? よく分からないけど。――わたし、お日様の匂いが好きなの。だから」

「でもあれダニの死骸の匂いだぞ?」

「それ迷信だから」

「……そうなの?」

「太陽光に含まれる紫外線が布の繊維の一部を分解することで発生するのがあの匂い」


 ――さすが匂いに詳しい……!


「それで、なぜ急に制汗剤の話を?」


 莉桜の顔がさっと青ざめる。


「もしかしてわたし、臭い……?」

「全然まったく! いい匂いしかしない!」


 莉桜は目を丸くした。


 ……あれ?


 ――いやいやいや! なに口走ってるんだ俺……!


「そう、ならいいけど」


 莉桜は向きなおり、作業を再開した。俺の発言はとくに気にならなかったようだ。


 俺はほっとして洗面台へ向かった。冷水で顔を洗う。


 制汗剤も柔軟剤も使っていない。つまりあれは莉桜の身体の匂いということだ。


 教室で女子が話していたことを思い出す。科学的に相性のいい人物の体臭はいい匂いに感じる、とかなんとか。


 ――よかった、嫌いな匂いじゃなくて。


 安堵している自分に気づき、俺ははっとした。


 ――い、いや、なに安心してるんだ。俺よりあいつのほうが相性いいに決まってるだろ……。


 熱くなった顔に冷たい水をばちゃばちゃとかけて冷やす。


 がたん、と激しい音がして、俺ははっと顔をあげた。


 莉桜の足元に洗濯カゴが転がっている。手が引っかかって取り落としたらしい。


「大丈夫か?」

「なんともない」


 カゴを拾いあげてラックに置き、洗濯機のスイッチを入れる。そして脱衣所を出ていった。終始、俺に後頭部を向けたまま。


 なんだ、あの妙な動きは。鼻毛でも出ていることに気がついたのか? いや、莉桜にかぎってそれはないな。じゃあなんで……?


 まあいいか。寝坊したことがうやむやにできたし。俺は几帳面に畳まれているタオルを取り、顔を拭いた。


 お日様の匂い。たしかにいい香りだ。


 ――でもアヘるほどではねえな。


 それなら莉桜の匂いのほうがよっぽどアヘられ――。


 ――い、いや、それはもういい!


 俺は殊更のようにごしごしと顔を擦った。

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