第13話 嗅ぎたい

「よおっしゃあ……、やっと着いたあ……」


 俺はふたつの買い物袋を玄関にどさりと置いた。背負っていたリュックも下ろす。こちらも重い音がした。


 中身は米や水、豆乳、液体洗剤の詰替など、重量のあるものばかり。


 俺は上がり框に座りこんだ。


 ――思いのほかしんどい……。


 両腕がぷるぷるだ。実家から自転車も持ってくるべきだった。


 三つの荷物を引きずるようにして茶の間へ行くと、莉桜がちゃぶ台に五つもの芳香剤を並べ、にまにまと笑っていた。


「そんなに買ってどこで使うんだよ」

「これは玄関でしょ、こっちは下駄箱。あとトイレと、茶の間と、わたしの部屋」

「なんで玄関にふたつも」

「玄関と下駄箱。それぞれ役割が違う」

「下駄箱はまだ分かるけど、玄関なんてそんなに匂うか?」

「出かけるときはいい匂いで気分が盛りあがるし、帰ってきたらいい匂いで気分が落ち着くでしょ」


 と、芳香剤のフィルムを剥がし、鼻を近づける。


「はあ~……、いい匂い」


 莉桜は恍惚とした表情を浮かべた。


「そりゃよかった」


 俺はなかば呆れながら、荷物を引きずって台所へ向かった。


 その後、風呂とトイレの掃除を終えて廊下を歩いていたところ、庭の物干しのところで莉桜が取りこんだバスタオルに顔を埋めて胸いっぱいに息を吸いこんでいるのが見えた。


 顔を離す。うっとりとした表情。また顔をつける。吸いこむ。うっとり。


 ――ジャンキー……?


 一応莉桜のお母さんに報告したほうがいいだろうか。


 部屋にもどり、小一時間ほど昼寝をして茶の間に行くと、莉桜が紅茶を飲んでいた。


 いや、飲んではいなかった。紅茶の入ったマグカップの匂いを何度も何度も嗅ぎ、そのたびに「はあ~」とか「ん~!」とか「ああ……」などと感嘆の声をあげている。


 俺は言った。


「お前の前世は鼻か?」

「パーツ!? せめて犬にしてよ!」

下僕いぬになりたいのか? 変わった趣味だな」

「……なにか違うイヌのことを言ってない?」

「足の爪にさ、黒いカスが溜まってることあるだろ?」

「いきなりなに?」

「あれ嗅いでみ? めちゃくちゃ臭いぞ」

「なんでそれを言おうと思ったの!?」

「だってお前、匂いを嗅ぐのが趣味なんだろ?」

「いい匂いが好きなの。臭いのはふつうに嫌い」

「嫌いなのに嗅いじゃうのか。難儀な性癖だな」

「嗅がない!」

「とか言って、お父さんの革靴を嗅いだことくらいはあるんだろ」


 莉桜は目を逸らした。


「――ないよ?」

「なんだよ今の間」

「ないってば! ただの知的好奇心だし!」

「あるんじゃねえか」

「ど、どれだけ匂うか気になったの。あるでしょ、怖いもの見たさみたいな心情」

「『臭っ』って言いながら何度も嗅ぎにいくのは重めのフェチだぞ?」

「何度もなんて一言も言ってないでしょ! 試しになんだから一回しか嗅がない!」

「それにしても――」

「はあ忙しい忙しい!」


 莉桜はマグカップを持って、逃げるようにばたばたと茶の間を出ていった。





 翌日の月曜日。俺は教室の机に突っ伏していた。


 ――眠ぃ……。


 土日に寝溜めしてリフレッシュする習慣を阻まれてしまったため、頭がまったく働かない。授業中はなんとか堪えるが、休憩時間に入ると緊張が解けてダウンしてしまう。


 午前中、そんな状態を繰りかえし、ようやく昼休み。睡眠欲が食欲に完勝し、昼食ではなく昼寝を選択した。


 ふと顔を上げる。昼食を食べに行ったのだろう、教室にいるクラスメイトは半分ほどになっていた。莉桜も静樹もいない。俺は再び腕を枕にして目をつむった。


「めっちゃいい匂い~」


 今まさに寝入ろうとした瞬間、すぐ隣から聞こえてきたその声で現実に引き戻された。俺は多少の物音がするくらいなら気にせず寝られる。しかし目が覚めてしまったのは、おそらく『匂い』というワードが莉桜と結びついたせいだろう。


「なにこれ、新しいデオドラント?」


 ああ、制汗剤の匂いの話か。そういえば莉桜はそういうの使ってんのかな。妙に甘くていい匂いがするけど。


 今のおっとりとした声は斜め後ろの席の広山さんだ。ならば相手は柴さんだろう。ほわほわした雰囲気の広山さんとやんちゃっぽい柴さんは、なぜかとても仲がいい。


 ふたりの会話が耳に入ってくる。


「桜の匂いだよ。限定のやつ」

「やっぱり~。なんかお腹が減るもん」

「いや、なんでだよ」

「桜餅的な」

「食いしん坊かよ」

「そういえばさ~、思い出したんだけど。言っていい?」

「いいよ」

「……」

「……」

「……」

「いや、言えよっ」

「なにを思い出したんだっけ?」

「知るかっ!」

「というか、なんの話だっけ?」

「大丈夫かお前。保健室行くか?」

「あ、そうそう! 相性がいいんだって」

「主語を言ってくれ」

「遺伝子の」

「どういうこと?」

「もう、匂いの話でしょっ」

「なんでわたしが怒られてるんだ……?」

「なんかで見たの」

「なんかって?」

「なんとかかんとかってやつ」

「情報がまったく増えない……」

「相性が良い相手からはいい匂いがして、相性が悪いと嫌な匂いがするんだって」

「へえ」

「だから科学的に『運命のひと』が分かるんだよ」

「ああそう」

「透子ちゃん」

「なんだよ」

「透子ちゃんの匂い、わたし好きだよ」

「………………。でっ、デオドラントのな!?」

「じゃなくて~――」

「そ、そろそろ学食行くぞ!」


 がたっと音がして、足音が戸口へ向かう。


「ふふ……」


 広山さんが低い声で笑った。


「やっぱり透子ちゃん、かわいい……」


 ねっとりとした声でつぶやき、教室を出ていった。


 ――ええ……? なに今の豹変ぶり……。


 背中がぞわぞわとしている。柴さんは大丈夫だろうか。


 身体を起こす。おかげですっかり目が覚めてしまった。すると今度は食欲が顔を出し、腹がぐうと鳴った。


 ――飯、行くか……。


 俺はあくびを噛み殺しながら教室を出た。





 学校が終わって帰宅したあと、疲れをとるためにちゃんと布団で仮眠をとろうと考えていたのだが、どうやら茶の間で力尽きてしまったようだ。気がつくと俺はちゃぶ台に伏せて寝ていた。


 ――いいや、ここで……。


 再びまどろみの中に落ちかけたとき、気配を感じた。


 おじいが化けて出たのでなければ、家の中にいるのは空き巣か莉桜以外にない。念のため薄目を開けて確認すると、プリーツのスカートと生白い脛が見えた。莉桜にまちがいない。しかし――。


 ――なにやってんだ?


 莉桜は戸口にじっと立っている。まるで俺の様子を窺っているかのように。


「……寝てるの?」


 莉桜の囁くような声。


 気を遣って立ち去るか、あるいは「だらしない!」と叱るか。三:七で後者とみた。


 しかし莉桜の行動はそのどちらでもなかった。


 そろり、と歩みを進め、近寄ってくる。そして身を屈めた。


 俺は慌てて寝たふりをした。


 顔の皮膚がぴりぴりするような視線を感じる。覗きこまれているようだ。


 ――もしかして、これは……。


 くちびるを奪われるやつでは?


 い、いや、待て、落ち着け。莉桜は静樹に気があるはずだ。俺とキスしたいわけがない。というか役割が逆だろ。居眠りしている莉桜に俺がキスするなら分かるが。


 いや分かるかっ。俺はそんなことしない。それで一度、大きな後悔をしてるんだから。


 やがて気配が背後のほうに移動した。そのまま部屋を出ていくのかと思いきや、そこで立ち止まる。


 莉桜の甘い香りが近づいてくる。俺の首筋あたりに顔を近づけている……? なんのために。


 そのとき、うなじに莉桜の吐息がかかり、俺は反射的に身じろぎしてしまった。


 ――やべっ。


「う、ううん……」


 俺はゆっくり身体を起こして伸びをし、今起きたばかり、といった演技をする。


「……ん? なにやってんだ?」


 振りかえると、莉桜は後ろに手を組んで突っ立っていた。


「別になにも」


 と、そっぽを向く。しらばっくれる気だ。


「いや背後霊かよ」

「背後霊は呪ったり祟ったりするじゃない。わたしはなにもしてない」

「じゃあなんで後ろに立ってたんだよ」

「むしろ橙也がわたしの前で寝てたんでしょ」


 ――それはさすがに無理筋だろ。


 自分でも説得力がないと感じたのか、莉桜の目はうろうろとさまよった。明らかに動揺している。


「というか橙也、だらしがない! こんなところで寝たら風邪をひくでしょ! 寝るならちゃんと布団で寝なよ!」


 なんともきれいな逆ギレだ。しかも俺の予想も正解だったし。


 莉桜は大股の早足で茶の間を出ていった。


 どうして莉桜は俺を起こすでもなく観察していたのだろう。悪戯をするような茶目っ気のある奴じゃないし、俺を気づかってタオルケットを掛けてくれるとかそういうわけでもなさそうだった。


 ――頭が回らねえ……。


 寝不足のせいで考え事なんてできる状態じゃない。お言葉に甘えて少し寝させてもらおう。


 俺は足を引きずるようにして自室へ行った。

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