第12話 匂いの授業

 キンコン! と音が聞こえた。RINEの着信音だ。


「………………」


 キンコン!


「…………」


 キンコン!


「……」


 キンコン!


「う……」


 キンコン! キンコン! キキキキキンコン!


「うるせえ!」


 俺は掛け布団を跳ねあげた。


 スマホを確認する。すべて莉桜からの通知だ。


『おはよう』

『朝ご飯できた』

『おはよう』

『起きなさい』


 以下、空白のみのメッセージが連続している。なんともきれいな『仏の顔も三度まで』だ。いや、莉桜はふだんから怒りっぽいからこの言葉は当てはまらないか。


 今の時刻は七時二十五分。最初のメッセージが届いたのは五分前だ。


 いつも七時十五分に起床し、朝食を食べ、身支度を整えて登校する。それが俺たちのルーティーンだ。


 しかし登校する必要がなければそのルーティーンは必要ない。


 そう、今日は休日なのだ。


 俺はふらふらしながら茶の間へ向かった。


 ちゃぶ台にはすでに朝食が並べられており、莉桜は正座して緑茶をすすっていた。


「おはよう。遅かったね」

「おはよう。いや早いだろ。今日休みだぞ? ゆっくり寝たいって言ったよな?」

「五分多く寝かせてあげたでしょ」

「そういうことじゃねえんだわ」

「いつも『あと五分寝たい』って言ってたじゃない」

「お前……、平日五分の二度寝の満足感を甘く見るなよ?」

「どういう怒り……?」

「平日の五分は休日の三時間に相当するんだよ」

「五分は五分でしょ」

「少なくとも十時までは寝るつもりだったのに……」

「朝ご飯が食べられないじゃない」

「好きな時間に起きて、朝食でも昼食でもない飯をだらだらとむさぼるのが休日の過ごし方だろうが」

過ごし方、ね」

「というか朝食はいらないって言っただろ」

「朝食を抜くのは身体に悪い」

「寝不足のほうが身体に悪い」

「朝に起きるほうが健康的でしょ」

「いいんだよ俺は、爽健○茶を飲んでるし。健康だ」

「なにその爽健○茶への信頼。さすがに不規則な生活まで帳消しにはできないでしょ」

「お前、爽健○茶に文句でもあるのか?」

「橙也に文句を言ってるの」

「休みの前日は夜更かしするもんだろ」

「わたしはいつもどおり就寝するけど」

「休みの日くらい時間を有意義に使えよ」

「使ってる」

「どんなふうに」


 莉桜はポケットからメモ帳を出してページを開いた。


 ――うわっ……。


 文字でページが真っ黒だ。


「午後十一時、就寝。午前六時三十分、起床。午前六時四十五分、朝食準備開始。午前七時十五分、朝食準備終了――」


 以下、


・午前七時四十五分、朝食終了。

・午前八時、食器洗い、片付け終了。

・午前八時五分~午前九時十五分、洗濯。

・午前九時二十分~午前十一時三十分、学習。

・午前十一時三十分~午後十二時、昼食準備。

・午後十二時~午後十二時三十分、昼食。

・午後十二時三十五分~午後三時、学習。

・午後三時五分、洗濯物取りこみ。

・午後三時十分、学習(家事、炊事などの)。


「それから午後五時、献立を――」

「ぶはあ!!!!!」

「『ぶはあ』?」

「息が詰まる! スケジュールぎっぎぎち過ぎるだろ。お前はお笑いグランプリを受賞した芸人か」

「違うけど」

「知ってるよ! ものの例えだ」

「これでも項目をかなり絞ったんだけど」


 と、難しい顔で顎に指を当てる。


「絞り足りない。休日のスケジュールじゃねえ」

「じゃあ休日のスケジュールってどういうの?」

「紙とペンをくれ」


 莉桜はメモ帳を一枚ちぎり、ボールペンとともに差し出した。


 俺はさらさらと円グラフを描き、莉桜に突きつける。


「こうだ!」


・十時まで睡眠。

・十一時まで二度寝。

・起きたり起きなかったりする。

・適当に飯を食べる。

・~夕方までだらだらする。

・飯を食べる。

・風呂に入る。

・だらだらする。

・寝る。


 莉桜はじっと見たあと、真顔のままメモ紙をくしゃくしゃに丸め、くずかごに放り投げた。


「さあ、朝食を食べましょう」

「せめてなにか一言言ってくれよ!」

「馬鹿なこと言ってないで、早く食べてね?」


 と、笑みを浮かべる。しかし目がまったく笑っていない。


 ――笑顔超怖え……!


 般若をくすぐって無理やり笑わせたような歪な表情だった。


「い、いただきます……」

「召しあがれ」


 俺は顔を伏せ、目玉焼きに箸を入れた。結局、完食するまで一度も莉桜の顔を見ることができなかった。





 夜、喉が渇いたので台所にお茶を取りに向かったところ、茶の間で莉桜は正座をし、テレビに釘付けになっていた。画面に映っているのは『宇宙一受けたい授業』とかいうバラエティ番組だ。


「お前、バラエティなんて観るんだな」

「観ないよ」

「じゃあ俺が見ている莉桜は幻……?」

「そういうことじゃなくて、家ではお母さんとネットクリックスで海外ドラマばかり観てたから、バラエティ番組はほとんど観たことがないってこと」

「まあ分かってたけど」

「なんだったの、今の意味のない会話……」

「そんなに面白いのか、それ」

「すごく興味深い」


 莉桜は真剣な表情で、ときおりこくこくと頷き、メモをとりながら番組を視聴している。ここまで意欲的に視聴する者がいると知ったら制作者は『軽いバラエティなんだけどなあ』と、かえって申し訳ない気持ちになりそうだ。


「バラエティばかり観てたらバカになるぞ」

「因果関係が逆でしょ。わたしはバラエティばかり観ているわけではないし」

「バカはバカであるが故にバラエティばかり観るってことか……? お、お前、ひどいこと言うな……?」

「あ、あくまでわたしの習慣の話だから」

「ときに正論はひとを傷つけるんだぞ?」

「それ橙也も酷くない?」


 テレビから爆笑の声がした。莉桜はそちらに視線をもどし、再び集中しはじめる。俺は台所で喉を潤してから自室へ引きかえした。


 ――さて、なにするかな。


 まだ開けてなかったダンボール箱の封を切ってみた。中には化粧箱が入っている。


 小型ドローンのDIYキットだ。


 ――そうだ、まだこれ途中だったな。


 キットを机の上に広げ、半田ごてのプラグをコンセントに差しこむ。


「おっと」


 俺は窓を開けた。半田付けの際に出る煙は有毒だし、匂いもあるから換気が必要だ。少し肌寒いが手がかじかむほどではないので作業に支障はないだろう。


 温まった半田ごての先端をスポンジで清掃し、半田付けを開始する。


 二箇所目に取りかかろうとしたそのとき、引き戸がノックされて驚きのあまり半田ごてを落としそうになった。


 引き戸の向こうから莉桜の声がした。


「橙也?」

「ど、どうした?」

「焦げたような匂いがするんだけど、大丈夫?」


 ――まじかよこいつ……!?


 戸はちゃんと閉まっていたし、換気もしてるし、なにより作業を開始してまだいくらもたってない。どんだけ鼻がいいんだ。


「あ、ああ、ちょっと、プリント基板のろう接をしてた」

「半田付けね」

「よく分かったな!?」

「別にやましいことしてるわけじゃないんだから堂々と言えばいいのに」


『臭い!』とか『勉強もしないでそんなことばっかり!』とか怒られると思ったんだよ。


「なにか作ってるの?」

「ま、まあ」

「ちょっと前は詰め将棋にはまってなかった?」

「まだやってる」

「その前はタロット占いだっけ?」

「それもまだやってる」

「ふうん。――気をつけてね」


 戸の向こうの気配が離れた。俺は大きく息を吐く。


 ともかくこれで心置きなく没頭することができる。半田ごてを持ちなおし、作業を再開した。


 切りのいいところで手を止めて時間を確認すると、時刻はすでに午前〇時を過ぎていた。


 いつもなら構わずに作業をつづけるところだが、早めに就寝しないと明日の朝がつらくなる。


 ――くそお、夜はこれからなのに。


 俺はぶつくさ言いながら布団に潜りこんだ。寝不足だったこともあり、案外すんなりと眠りに落ちたようで、次に気がついたときにはすでに朝。


 はっとして飛び起き、スマホを見る。


 七時十四分。アラームが鳴る一分前に目が覚めた。


 ――よく起きた、俺……!


 莉桜のあの笑顔に生命の危機を感じた俺の脳が防衛本能を働かせたのだろう。


 茶の間に行くと、スマホを持った莉桜がきょとんと俺の顔を見た。ちゃぶ台にはすでに朝食が並べられている。今まさに俺を起こそうとしていたようだ。


「ど、どうだ! ちゃんと起きたぞ!」


 莉桜はつんとした表情で言う。


「それが当たり前」

「そうですか……」


 別に褒められたいと思ったわけではないからいいけど。俺は座布団に腰を下ろした。


「まあ――」


 莉桜が再び口を開いた。どんな嫌味が飛びだすかと身構える。


「わたしは、橙也が本当はやればできるって知ってるから」


 と、目を細めて微笑む。


「……お、おお」


 ――なんだよ急に……。


 俺は照れくさくなり、顔を伏せたまま意味もなく延々と納豆をかき混ぜつづけた。

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