第11話 やっぱり変わってない

 廊下の板を踏むと、みしっ、と音がして慌てて足を引っこめる。


 少し考えたあと、俺は腹ばいになり、這って廊下に進み出た。


 さらに進むとトイレが見えてくる。明かりはついていない。念のためドアノブをひねってみる。鍵はかかっていなかった。少し開けて隙間から覗き見るが、中に莉桜はいない。


 具合が悪くなってトイレで倒れたとか、そういうことではなくてほっとする。


 ――でも、じゃあどこだ?


 外か? それとも茶の間……?


 俺は再び匍匐前進を開始し、玄関へ向かった。莉桜の靴はちゃんとあり、鍵も施錠されたままだった。俺はくるりと転進し、茶の間のほうへ移動する。


 廊下に明かりが漏れていた。なにやら物音も聞こえてくる。


 俺は息を殺し、ゆっくりゆっくり襖を開く。照明がついているのは台所だった。ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉める音。そして、


「う~ん……」


 と、なにか思案するようなうめき声。莉桜の声だ。出ていったわけでも倒れたわけでもないと分かり、ひとまずほっとする。


 でもこんな朝早くからなにをやってるんだ? 喉が渇いたのか、小腹が空いたのか。具合が悪くなった可能性もある。一応様子を見ておこう。


 俺は畳の目に沿って身体を滑らせ、茶の間を進む。そしてちらりと戸口から顔を出した。


 莉桜とがっつり目が合った。


「ひあああああああああああ!!??」「うおあああああああああああ!!??」


 莉桜は後ずさった拍子に足がもつれてどたっと尻餅をついた。と同時に、手に持っていたなにかが宙を舞って俺の目の前に落ちる。それは彼女愛用のメモ帳だった。


「な、な……」


 莉桜は大音声で言った。


「なにしてるの!!!」

「腹ばいで台所を覗いてる」

「なぜそうするに至ったのか聞いてるの!」

「物音がしたから様子を見に。でもまたびっくりさせたら悪いと思って腹ばいで」

「腹ばいで覗かれるほうがびっくりする!」


 それはそのとおりだ。俺は冷静さを欠いていたようだ。


「というかお前こそなにしてるんだ。こんな朝早くに」

「そ、それは……」


 莉桜は目を泳がせた。髪をポニーテールにし、エプロンをつけているのは料理の格好だ。しかし小腹を満たすためにそこまでするか?


 俺はメモ帳を拾いあげた。その瞬間、莉桜の顔が青ざめる。


「ま、待っ――」


 立ちあがろうとするも、腰が抜けたのか再び尻餅をついてしまった。


 開かれたページには細かい文字でびっしりと文字が書かれている。読むともなく、いくつかの文章が目に入ってきた。



『卵(Lサイズ)を溶いておく』

『長いも(100g)の皮を剥き、おろす』

『――薄力粉は振るい、ダマにならないよう混ぜる』

『――中火。焼き目がついたら裏返す』



「これ……」


 お好み焼きのレシピ、だよな?


 隣のページは、以前に朝食として出されたチーズオムレツのレシピだった。


 なぜ、こんなに詳細なメモを?


 莉桜は身体を横に向け、膝を抱えてうつむいていた。顔も耳も赤く染まっている。


「笑っていいよ」

「なにを」

「だから……」


 莉桜は悲鳴にも似た声で言った。


「わたし、本当は料理なんてできないの!」

「…………え?」

「料理だけじゃない。洗濯機を使うときはおっかなびっくりだし、ここを掃除したときだって、偉そうにアドバイスしたけど全部受け売り!」


 俺は身体を起こし、あぐらをかいた。


 メモ帳のページをめくる。黒、赤、青に色分けされた文字が、まるで教科書のように整然と並んでいる。料理のレシピ、効率的な掃除、洗濯機の操作、衣類の干し方、アイロンのかけ方、整理整頓、収納……。


「なんでそんなこと」


 しばらく無言でいた莉桜は、やがてふてくされたみたいにぼそりと言う。


「橙也のせい」

「俺? なんで」

「言いたくない」

「なんだよそれ」

「ああ、もう!」


 莉桜は膝に顔を埋めた。


「ほら、笑ってよ! 見栄っ張りってバカにすればいいでしょ!」


 小さくうずくまるその姿からは、教室で見せたあの凛々しさは微塵も感じられない。内気で無器用な、昔のままの莉桜だった。


 俺は額に手をやった。


 ――参ったな……。


 遠い星に旅立った姫君が、また地上にもどってきてしまった。もう手が届かないからとあきらめをつけたのに。


 メモ帳を莉桜のほうへ滑らせた。足の側面に当たり、ちらと顔をあげる。


「あ~……」


 俺は言葉を吟味しながら言う。


「料理はできてるだろ」

「手際がよくないし、時間がかかる」


 なるほど、料理する姿を見られたくなかったからこんな朝早くに起きていたわけか。ということは買い物に同行されるのを嫌がったのも同じ事情だろう。


「入念に下調べしておかないと作れないし」

「言っておくけど俺はなにを下調べしていいかも分からないレベルだぞ?」

「偉そうに言わないでよ……」

「莉桜が言ったんだろ、俺の『現状がゼロ』って。それに比べてお前は一か二なわけだ。だろ?」

「かもしれないけど」

「だったら、やっぱり料理は莉桜に頼らせてもらいたい」


 莉桜は上目遣いで俺を見た。


「わたしに……?」

「ああ。だって俺よりずっとましだろ。もちろん頼りっきりにはならないようにするけど」

「……そう。別にそれでもいいけど」


 などと澄ました顔で言う。しかしちょっと前後に身体を揺すっているところを見ると、内心悪い気はしていないようだ。


「ふたりとも親元を離れて暮らすのは始めてだ。最初から全部うまくいくわけない」

「うん……」

「だから……、――あ~……、『相棒』だ」

「相棒?」

「そう、俺たちは協力してこの難局を乗り越える。だから相棒」


 勢いで口に出た言葉だったが思いのほかしっくりときた。そう、別に距離を置く必要はない。『最高の同居人』を目指す。シンプルにそれでいいんだ。


 莉桜は何事か考えるように自分のつま先のあたりを見ている。


「ま、気楽にいこうぜ。少しずつ慣れていけばいいんだから。焦る必要はない。ここは俺の――いや、俺とお前の家なんだから」


 すると莉桜は、はっとしたように顔をあげて俺を見た。


「……なんだよ」


 俺の問いに返事もせず、しばらくじっと見つめたあと、


「橙也、やっぱり変わってないね」


 と、自分の膝を枕にするみたいに頭をもたれ、微笑んだ。


 気取らない、遠くを見るように少し目を細めた、柔らかな笑み。久しぶりに見た表情だった。今の関係になる前――小学生のとき以来かもしれない。


 今度はこっちが横を向く番だった。俺の一番好きな表情を、正面からまともに見れるはずもない。


 俺はぶっきらぼうに言う。


「と、とにかく! こんなに早起きをするのはもうやめろ。体調崩すぞ」

「でもご飯の準備が」

「凝ったものじゃなくていい。俺も手伝うし」

「……」

「それより寝ろよ。俺も眠ぃ」

「うん……」


 莉桜はテーブルを支えにして立ちあがり、エプロンとヘアゴムをはずす。


「おやすみ」

「ああ、おやすみ」


 莉桜はなにか言いたげな顔つきで俺を見たが、結局なにも言わないまま、茶の間を出ていった。


 足音が遠ざかるのを確認したあと、俺はほっと息をついた。


 ――乗りきった……。


 気持ちを悟られてはいけない。俺たちの関係が壊れないように。


 安心したら急に睡魔が襲ってきた。俺はふらりと立ちあがり、寝床へもどった。





「ごめん! 寝坊した!」


 と、莉桜が台所に飛びこんできた。


「寝坊じゃねえよ。これくらいがふつうだろ」


 今まで毎日早くに起きていたから疲れが溜まっていたのだろう。もっと寝ててもいいくらいだ。家を出なければならない時間までまだ一時間以上ある。


「でも朝ご飯が」

「もう作ってる」

「え、料理できないって言ってなかった?」

「トースターくらい使える」


 そのときガスレンジの上でヤカンがピーッと鳴いた。


「お湯だって沸かせるし」

「パンを焼いただけ? でもなにか別の匂いが……」

「まあまあ、見てのお楽しみだ。お茶の用意を頼む」


 釈然としない様子で莉桜はマグカップが仕舞われている戸棚へ向かった。


 しばらくしてトースターがチンと音を鳴らした。できあがったを皿に載せ、茶の間で待つ莉桜の元へ運ぶ。


 正座して待っていた莉桜は、俺が持ってきたを見て怪訝な顔をした。


「なに、これ」

「これか? ――分からん」

「『分からん』!? 橙也が作ったんでしょ」

「ほんとに分からないんだよ。俺が作ったかも定かじゃないし」

「それは定かでしょ……!」

「適当に作ったからな」

「それにしたって……」


 莉桜は眉をひそめ、を観察する。


 基本的には食パンのトースト。くぼませた真ん中には目玉焼きになった卵。その目玉焼きの中にちぎられたキャベツやウインナーが沈んでいる。


「底なし沼みたい」

「へへっ、だろ?」

「褒めてはない」

「パンを適当に潰して、生卵を入れて、適当に具を入れて適当に焼いたんだ」

「卵のときだけは慎重なんだ」

「これに醤油をかけて食べる」

「わたし、目玉焼きには塩なんだけど……」

「ああ、はいはい。なんにでも醤油をかければおいしいと思っている人間をうっすら見下しているお洒落な塩派ね」

「塩派への偏見がすごくない?」

「醤油も合うぞ。固定観念に囚われるなよ、この塩派が」

「それは塩派への固定観念じゃないの?」

「とにかくこれには醤油と決まってるんだ!」

「適当に作ったのに……?」


 俺はトーストに醤油をかけてかぶりついた。


「ん? おおー! ふめー!」


 莉桜は疑わしげな顔で、しかしちゃんと醤油をかけてトーストの角をかじる。しばしもぐもぐと口を動かしていたが、


「……おいしい、かも」


 と、その表情は意外そうなものに変わった。


「だろ? 俺、トーストに目玉焼きを載せて食べるのが好きなんだ。付け合わせのキャベツとかウインナーも挟んだりしてさ。だったら一緒に焼いちまえって思ってな」


 莉桜はもう一口食べた。


「ウインナーの脂質がちょっと気になるけど、バランスもそれほど悪くないし」

「だろだろ!」

「でもキャベツの薄いところが焦げてる。ここは一考の余地あり」

「し、シビアだな。でもゼロのわりには健闘しただろ!」

「まあね」


 莉桜は薄く微笑むような表情でじっと俺を見る。


「な、なんだよ」

「別に。――少しずつ進んでいけばいいって、そう思ったの」


 莉桜は機嫌が良さそうにトーストを食べる。


「そうそう、今は無理でもそのうちなんとかなる。俺にどーんと任せておけ」

「橙也には言われたくない」


 一転、莉桜の眉間にしわが寄る。


 ――ええ……? なにが逆鱗に触れたんだ?


 莉桜はむっつりとお茶を飲んでいる。俺はちらちらと様子を窺いながら、トーストをちびちびとかじった。

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