第10話 見られたくない作業

 自室でスマホゲーのデイリー任務を消化していると、莉桜が引き戸越しに声をかけてきた。


「ちょっといい?」

「ど、どうした?」


 またなにか小言でも言われるのかと思い、慌ててスマホを座布団の下に隠す。


「これからお夕飯を作るけど」

「あ、ああ」

「絶対に覗かないでね」


 そう言い残し、莉桜は廊下を歩いていった。


 ――鶴……?


 いや、鶴を助けた覚えはない。この前、部屋に入りこんだワラジムシを庭に逃がしたが、あれだろうか。


 なんの恩返しにしろ、禁を破った先にあるのは悲劇的結末だ。それに台所へ行ったところで手伝えることはなにもない。


 俺はなんて無力なんだろう。今の俺にできること、それは――。


 ――これだけだぜ……!


 座布団の下からスマホを取りだし、デイリー任務の消化を再開した。





 デイリー消化を終え、ウィークリー消化にも手をつける。腹がぐうっと悲鳴をあげた。


 時計を見ると、十九時三十分近くだった。


 ――今日はやけに遅いな。


 いつもは計ったように十九時の三分前には声がかかるのに。


 などと考えていると、甘く香ばしい匂いがかすかに漂ってきた。


「この匂い……」


 俺の大好きなアレの匂いだ。腹の虫がさらに騒ぐ。


 いや、でも莉桜は「却下」って言ってたし、まさか。


 しばらくそわそわとしていたが居ても立ってもいられなくなり、俺は部屋を出た。


 茶の間に近づくにつれてさらに匂いは濃くなり、予想は確信に変わる。


 俺は茶の間に飛びこんだ。


「オタ○クソースだろ!!」

「なに!? なに!?」


 台所の莉桜がびくりとした。


「オタ○クソースだな? ネタは上がってるんだ!」

「警察の突入みたいに聞かないでよ! びっくりするでしょ!」

「それについては一家言ある」

「どんな」

「なぜびっくりさせられると怒るんだ。駄目なのか、びっくりしたら」

「……ご飯、自分で作る?」

「わたくしがまちがっておりました」


 俺は畳に額をこすりつけて土下座した。莉桜は呆れたように言う。


「覗かないでって言ったのに。まあ、ほとんど完成してるからいいけど」

「そう、それだ! ネタは上がって――」

「それはもういい。――はいこれ」


 と、ちゃぶ台に大皿を置く。そこに乗っていたのは想像通りのものだった。


「お好み焼き……!」


 丸くて分厚い生地に、茶色いソースが照っている。


「どういうことだ。却下って言ってたじゃないか」

「それは……、食べてみたら分かるから」


 振りかけられた削り節が、お好み焼きの上でひらひらと踊る。俺はごくりとつばを飲みこんだ。


「そこまで言うなら食べてやろうじゃないか」

「そこまでは言ってないけど」

「シンプルに食べたいです」

「よろしい」


 莉桜が取り分けたお好み焼きを口に運んだ。甘いソースとふんわりした生地。ぷりっとした食感はエビだろうか。イカも入っているようだ。それからキャベツと……、この香りはニラかな? やっぱりお好み焼きはド安定だな。


「どう?」

「うまいけど?」

「そう」


 莉桜はほっとしたような表情をした。


「それで、分かった?」

「なにが?」

「お好み焼きを採用した理由」

「おいしいからでは?」

「それはありがとう! でもそういう話じゃなかったでしょ!」

「え、なんだろう。材料がセールになってたとか」

「違います」

「う~ん……。――じゃあいいや」

「え?」

「別にいいよ。食べることに集中したいし」

「気に入ってもらえて嬉しいけど! でもあきらめないで!」

「ええ……? いや分からん」

「もう一回食べてみて」


 促されるまま、今度は口の中に意識を集中してゆっくりと食べる。


「あ」

「分かった?」

「いや、改めてうまいなって」

「それは良かった! でもそうじゃなくて! ――って、さっきからわたし感情がぐちゃぐちゃなんだけど!」

「いったん落ち着けよ」

「橙也が答えないからでしょ……!」

「いやでもほんとに分からんし。――具にキャベツとかニラとか、あとほかにゴボウ? とかいろいろ野菜が入ってるのは関係ないよな?」

「気づいてたんじゃない……」


 莉桜はぐったりとした。


「生地を少なめにして野菜を多くしたの」

「でもちゃんとお好み焼きになってる」

「生地に長イモを混ぜてふんわりさせてるし、野菜も小さく刻んでるから」

「なんでそんな面倒なことを」

「献立のリクエスト、バランスが悪いからって却下しちゃったけど、あとで考えてみたらお好み焼きはアレンジできるなって」

「……」

「なんで無言?」

「え? い、いや。――くそっ、騙したな。悔しい……、でも食べちゃう……!」


 俺は残りのお好み焼きを頬ばる。


 莉桜も食事に手をつける。しかしその表情には、やはりどこか物憂げな色もにじんでいた。






 食後、いつもどおり莉桜のあとに風呂に入る。湯に浸かり、月の明かりでぼうっと白くなった磨りガラスをぼんやりと見つめた。


 ――すげえなあ、莉桜は……。


 学校ではすでに有名人。人気があり、頭もいい。家事、炊事も完璧。献立のレシピをアレンジする応用力もある。


 学級委員長への推薦を固辞したときの凛とした美しい姿を思い出す。どこか遠い星の姫君のようだった。


 小さいころ、俺と莉桜はいつも一番近くにいた。家も近いし、ほとんど毎日、一緒に遊んでいた。


 信じられない話だが、小さいころの莉桜は内気で無器用だった。俺はそんな彼女を無理やり外に連れ出した。最初は迷惑そうにしていたが、徐々に心を開くようになり、進んでついてくるようになった。


 莉桜が喘息を発症して走り回れなくなってからは、裏の林に遺棄されたコンテナに秘密基地を作り、そこでお菓子を食べたり本を読んだり、時がたつのも忘れ、おしゃべりをして過ごした。


 そんなふうに俺たちはもっとも気の置けない関係だった。なのに――。


 ――遠くなったもんだな……。


 一抹の寂しさはあったが、どこかで気が楽にもなった。ここまで手が届かない存在であれば、まちがっても俺とどうにかなることはないだろう。


 俺は風呂から出ようと立ちあがった。


「おっと」


 俺は浴槽や床をチェックして毛髪やらそのほか雑多な毛を取りのぞく。


 ――親しき仲にも礼儀ありってな。


 気持ちが軽くなって身体まで軽くなったようだ。俺は身体を拭いて部屋着に着替え、ふたり暮らしを始めてからもっとも軽快な足どりで自室へ戻った。






 熟睡していた俺は気配を感じて目を開いた。


 引き戸が音もなく開く。廊下に誰かが座っていた。


「莉桜……?」


 まぶしいほどの月明かりで逆光になり、姿がよく見えない。


 目を細める。莉桜はなぜか着物――十二単じゅうにひとえを着ていた。


「なにしてんの……?」

「帰らないと」


 俺は身体を起こした。


「家でなんかあったのか?」


 莉桜は首を振る。


「帰るって決まってたから」

「決まってた……?」

「今日、あそこに」


 と、指さしたのは空――いや、月だった。


「は? いや、かぐや姫じゃあるまいし」

「もう時間だから」


 ふわりと身体が浮かぶ。平泳ぎをするみたいに手や足をばたばたさせると、さらに高度を上げていった。


「ちょ、ちょっと待てよ!」

「なに?」

「迎えは?」

「いないけど」

「自力!? どれくらいかかるんだよ」

「十年ぐらい」

「気が長い……! 食料はどうするんだ」

「大きいお好み焼きを焼いたから」

「腐るだろ」

「宇宙は真空だから大丈夫」

「そ、そうか。でも休憩は? どうやって休むんだよ」

「わたし、泳ぎながら眠れるから」

「マグロかお前は。というか今からでも迎えを呼べいいだろ」

「来ないよ。予算も人員も足りないって」

「辛いな、世知が」

「じゃあ、そういうわけだから」


 莉桜は手足をばたつかせて月へ泳いでいく。その姿は瞬く間に小さくなっていった。


「ま、待てって!!」


 俺は裸足のまま庭に飛びだし、声を振りしぼった。


「せめてもう少し動きやすい格好にしろ!」






「宇宙を……舐めるな……!」


 急に空が暗くなり、月が見えなくなった。


 いや、これは……。


 ――天井だ。


 俺は布団に仰向けで寝ている。つまり今のは夢だったのだ。


 そりゃそうだ。あんな荒唐無稽で支離滅裂なこと、実際にあるわけがない。


 なのに俺の心臓はばくばくと暴れていた。


 悪夢と呼ぶには喜劇的すぎる。しかしこの寝覚めの悪さは完全に悪夢だった。


 ひとつ屋根の下に莉桜がいる状況にも慣れ、ようやく熟睡できるようになってきたというのに、すっかり目が冴えて今日はもう眠れる気がしない。


 スマホで時間を確認すると、時刻はまだ朝の四時を過ぎたところだった。


 布団を被って目をつむるも、やはり眠気はやって来ない。しかし少しでも眠らないと授業がつらくなると思い、なおもじっとしていると、みしっ、と軋む音がした。


 みしっ、みしっ、みしっ。


 みしっ、みしっ。


 みしっ。


 音はだんだん遠くなる。莉桜が廊下を歩いていったようだった。


 ――トイレか?


 しかししばらくしても莉桜が戻ってくることはなかった。


 不安が胸をよぎる。具合でも悪いのだろうか。もしかしたら倒れているかも。あるいは――。


 ――正夢、とか。


 莉桜がかぐや姫だなんて馬鹿げた話、あるわけがない。しかし夢がなにかの暗示だったとしたら、それは突然の別れを示唆しているのかもしれない。


 弾かれたように身体を起こした。一度は落ち着きかけた鼓動が再び激しくなっていた。


 静かに引き戸を開ける。廊下や庭は、早朝の白々とした明かりに染められている。


 俺はゆっくりと廊下に足を踏み出した。

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