第8話 やましい気持ちなんかじゃない
香ばしい匂いがして、俺は目を覚ました。
――魚の匂いだ……。
しばらく布団の中で丸まっていたが、眠気より食い気が勝ち、俺は勢いよく掛け布団を跳ね飛ばして茶の間へ向かった。
「おはよう」
台所に立っていた莉桜がちらりとこちらを見て言った。
「ああ、おはよう」
俺はその後ろを通り、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。起き抜けの水分補給にお茶(濃いやつ)を飲むのが俺の日課だ。
マグカップにそれを注ぎながら、俺は莉桜の後ろ姿をぼうっと眺めた。
――……いい。
ぱりっとしたワイシャツ、チェックのプリーツスカート。そしてエプロン。陶器のように白く滑らかなふくらはぎがまぶしい。
「うおっ」
見とれていて危うくお茶を溢れさせるところだった。莉桜が怪訝な顔で振りむく。
「どうしたの?」
「い、いや。――それより、ほんとにいいのか? 食事の準備、任せちゃって」
ふたり暮らしがスタートしてからしばらくがたち、俺たちは学校に通いはじめている。話しあいをし、家事の役割分担も決まっていた。
食事、洗濯担当が莉桜、掃除やその他雑事が俺。
「お前のほうの負担が大きすぎないか?」
「だから説明したでしょ。食生活は大切にしたいし、橙也に下着をいじくられるのは抵抗があるって」
「いじくりはしねえよ! 俺だってお前にパンツの匂いを嗅がれるの嫌だわ」
「嗅ぐわけないでしょ!」
「でもお前、なんでも匂いを嗅ぐ癖があるだろ」
「あ……るけど! いい匂いが好きなだけ。橙也のパンツからいい匂いがするとは思えない」
「するかもしれないだろ。シトラス系の匂いが」
「それなにかの病気」
「洗濯は各々やるとか」
「水がもったいない」
莉桜にパンツを洗ってもらうのは少し抵抗はあるが、光熱費の話を出されると折れるしかない。
「でも料理は一日おきに交代でもいいんじゃないか?」
「料理できるの?」
「できる。――未来の俺はきっと」
「できないってことね」
「将来性を評価してくれ」
「現状がゼロなのになにを評価するの?」
いちいち正論を。
「でも献立を考えて食材を買って料理して、って大変だろ」
「献立はリクエストしてくれていいよ」
「じゃあ――」
「ちょっと待って」
と、エプロンのポケットからペンとリングノートのメモ帳を取りだした。
「あいかわらずメモ魔だな」
「いいでしょ、べつに。それよりリクエスト」
「とんかつと唐揚げとコロッケ」
「却下」
「じゃあラーメンとお好み焼きとチャーハン」
「却下」
「なんで! 全部好きなのに!」
「バランス悪すぎ。野菜どころか魚もないじゃない」
「初日は揚げ物で二日目が炭水化物系。被らないようにバランスを取ってるだろ」
「じゃあ三日目は野菜?」
「いや、揚げ物に戻る」
「なんなのその入院へ全力疾走するルーティーン」
「お前がバランスを取れって言ったから」
「なんでそれで取れてると思うの……」
莉桜は大きなため息をついた。
「献立はわたしが考えます。橙也には食材の買い物を頼むから」
「了解。お菓子は何円まで?」
「二百キロカロリーまで」
「少なっ。こちとら育ち盛りだぞ? そんなんで満足できるか!」
「カン○リーマアムで四~五枚だと思うけど」
「……けっこう満足できるな」
アソートパックを買っておこう。
莉桜は焼き鮭をフライパンから皿に移した。
「はい、これ運んで」
「おう」
今日の献立は白米、焼き鮭、玉子焼き、野菜たっぷりの味噌汁だった。たしかにバランスがよく考えられている。
俺は白米を口に運び、味噌汁で流しこんだ。焼き鮭の身をほぐし、口に入れ、白米をかき込む。玉子焼きは少し甘めで、塩味が続いたあとには塩梅だった。
――めっちゃくちゃうまい……!
もう何度か莉桜の手料理を食べているが、そのたび新鮮に感動している。
「莉桜がこんなに料理上手とはなあ」
「もう何回も聞きました」
褒めているのに、莉桜はなぜか物憂げな顔をした。これまでもそうだった。
本人的には納得いってないってことだろうか。まあ完璧主義だし、あり得なくはないな。
――うまいけどなあ。
俺は最後の玉子焼きを口に放りこんだ。
◇
「じゃあ先に出るけど」
身支度を整えた莉桜が、茶の間にいる俺に声をかけた。
「同じ学校に通ってるのに、どうして別々に登校する必要があるの?」
「だって、誰かに見られて噂になったら恥ずかしいし……」
と、俺は手で頬を挟み、照れる仕草をする。
「気にする必要なんてないのに」
「みんなの夢を壊すかもしれないし」
「……? なにそれ」
「というか、ふつう逆だろ。なんでお前はなんともないんだよ」
「なにもやましいことはしてないから」
俺は口元にいやらしい笑みを形作った。
「なんだ莉桜、そんなに俺と一緒に登校したいのか?」
「……別にそういうわけじゃないけど」
莉桜はつんと顔をそむけた。
「お先に。鍵をかけるの忘れないでね」
そう言ってそそくさと学校へ向かった。
まるで俺と登校したいかのような、意図の分からない言動だ。この前の買い出しのときは別行動をしたがったくせに。
――せっかくこっちが配慮してやってるのに、当人がぶち壊そうとしてどうするんだよ。
莉桜なりに歩み寄ろうとしてくれているのだろうか。だとしたら気持ちは嬉しいが、もっと気を引きしめてもらいたい。
俺は観たくもないワイドショーでしばらく暇を潰してから家を出た。
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