第7話 挨拶するって言ってなかった?

「おはよう!」


 起床して茶の間へ行くと、エプロン姿の莉桜が満面の笑みで俺を出迎えた。


「お、おはよう……?」

「朝食の準備をするから座って待っててね」

「あ、すまん。飯の準備のこと話しあうのすっかり忘れてた」

「朝食はどうするつもりだったの?」

「パンでもかじればいいかって」

「ダメ。一日の始まりなんだから、しっかり栄養をとらないと。暫定的にわたしが担当するから」

「助かる」

「今持ってくるね」

「あ、じゃあ俺も――」

「いいからいいから」


 などと俺を押しとどめ、軽やかな足どりで台所へ向かった。


 ――……なんだ?


 莉桜はサンドウィッチの載った皿を運んできた。


「簡単なもので申し訳ないけど」

「いや、全然。それより、なんか機嫌いいな」

「そう? そうでもないけど」


 ――いやもう声が弾んでんじゃん……。


 食事の準備を丸投げしてしまったのだから、むしろ不機嫌になりそうなものだが。


「お前、もしかして」

「? なに?」

「久々のお通じが?」


 いつもの莉桜ならここで「ご飯時に汚い話しないで!」と叱り飛ばすはずだ。


 しかし――。


 莉桜は苦笑いをして俺の肩を軽く押した。


「もう! 橙也ったら」


 ――『もう! 橙也ったら』……!?


 莉桜は台所へ戻っていった。


 いったいどうしたというんだ。これが俗に言う『今日は雪が降るかも案件』か。たしかに身体が凍えたみたいにぞわぞわする。


 まあ機嫌が悪いよりかはましだ。今は莉桜が始めて作ってくれた手料理を噛みしめよう。


 ――というか、めちゃめちゃ凝ってない……?


 うちのサンドウィッチは『パン、ハム、マヨネーズ、以上』みたいなシンプルオブシンプルなものだ。しかし今、目の前に並んでいるのは一目で多種多様な具材が使われていることが分かるほど彩りが豊かだった。


 レタスが挟まったハムサンド、玉子サンド、イチゴのフルーツサンドまである。下準備に時間がかかったことだろう。


 柔らかくてもっちりとしたパンと、レタスのシャキシャキとした歯触り。ハムの塩分とマヨネーズのクリーミーさが渾然一体となって俺の口内を満たす。飲みこむと鼻腔からほのかなバターの香りが抜けていった。


「うまっ」


 自然と声が出てしまった。


「そう、よかった」

「いやマジでふつうにうまいわ」

「はいはい、たんと召しあがれ」


 莉桜は照れたのか視線を逸らす。


 サンドウィッチがいい出来だったから機嫌がよかったのか? それにしてはテンションが高すぎな気がするが……。






 そんな様子は一日中つづいた。


 夜、トイレに行こうと廊下を歩いていたとき、茶の間で莉桜がスマホの画面を眺めているのを見かけた。なんとも幸せそうな表情だ。


 莉桜は俺に気づき、隠すようにスマホを伏せた。


「な、なに?」

「いや」


 そのまま通りすぎる。


 ――あの表情、見たことあるな……。


 記憶を掘り起こしながら歩く。


「そうか」


 杉里家で飼っている愛猫、タイガくんだ。彼と戯れているときの莉桜はあんな顔をしていた。


 きっとタイガくんの写真でも送られてきたのだろう。


 ――可愛いところがあるじゃないか。


 いや、可愛いところがあることは知っていたから、さらに増えたと言おうか。とにかく胸のつかえがとれてほっとした。


 用を足したあと、まだ茶の間にいた莉桜におやすみの挨拶をして俺は自室に戻った。


 布団に寝っ転がり、今日の出来事を思いかえす。


 上機嫌なのはよいことだ。しかしこう、なんというか、しっくりこない。『打てば響く』が莉桜の真骨頂なのに、今日の彼女はスポンジのように手応えがない。


 まあ、一緒に暮らしていればこういう日もあるだろう。が――。


 ――早く戻ってくれねえかなあ……。


 なんだか調子が狂う。


 ぐるぐると考え事をしていたら時刻はすでに二十二時を過ぎていた。もうそろそろ莉桜が就寝する時間だ。


「……」


 充電中のスマホに目をやった。昨晩のやりとりを思い出す。


『じゃあ毎晩おやすみって送ってもいいわけだな?』

『好きにすれば?』


 スマホを手にとる。『おやすみ』と入力して、すぐに消去した。


 ――挨拶はさっきしたしな……。小粋な会話から始めて、その流れでおやすみを言うか。


 でも小粋な会話ってなんだ?


『お前の趣味は?』


 ――いや見合いか……!


 俺は文章を消す。


『学生生活で打ちこみたいことは?』


 ――いや面接か……!


 消す。


『なんか最近お菓子の値段が上がりまくってると思わん?』


 うん、まあ、悪くないんじゃないか。


 ――ただ小粋ではない……!


 井戸端会議の議題だ。


 こんな質問を送ったところで答えは、


『だからなに?』


 に決まってる。滞りなく『おやすみ』につなげられる気がしない。


 などと試行錯誤しているうちに時刻は二十二時三十分。とっくに莉桜の就寝時間は過ぎていた。


 今からおやすみのメッセージを送っても、


『もうおやすみしてたんだけど』


 とキレられるのがオチだ。いや、機嫌がいいからキレはしないか? でも迷惑なことには変わりないだろう。


 第一、莉桜は『好きにすれば?』と言ったのだ。冷静に考えれば、これを許可と受けとるのは拡大解釈ではないだろうか。


 ――え、俺、めちゃめちゃ浮かれてたんじゃん。恥ずかし……。


 気づいてよかった。俺はRINEのアプリを閉じ、床についた。






 翌朝、起床して茶の間へ行くと、


「おはよう」


 と、エプロン姿の莉桜が俺を出迎えた。昨日と同じシチュエーションだ。ひとつ違うのは、莉桜が笑顔ではないこと――というか、明らかに不機嫌な表情をしていることだ。


 ――え、寝坊してないよな……?


 スマホの時計は七時十六分を示している。やはり問題ない。


「え、俺、なんかした……?」

「なにもしてない」

「だよな」


 じゃあ莉桜が醸しだす黒いオーラはいったいなんなんだ。


「朝食の準備をするから座って待ってて」

「あ、じゃあ俺も――」

「いいから」


 と、台所へのしのし歩いていった。


 ――……なんだ?


 白米と味噌汁の椀をお盆に載せて戻ってきた莉桜に俺は言った。


「なんか機嫌悪い?」

「そう? そうでもないけど」


 ――いやもう声にドスが利いてんじゃん……。


「お前、もしかして」

「? なに?」

「お通じがなかったとか?」


 いつもの莉桜ならここで「ご飯時に汚い話しないで!」と叱り飛ばすはずだ。


 莉桜は顔をしかめて言った。


「もう! ご飯時に汚い話しないで!」

「い――」


 ――いつもの莉桜だあ……!


「な、なんで嬉しそうな顔してるの……?」


 莉桜は気味悪がるみたいに眉をひそめた。俺は自分の頬に触れる。


「そう? そうでもないと思うけど」

「声が弾んでるじゃない……」

「というかお前、やっぱり機嫌悪いよな。朝からかりかりしていいのはトーストだけだぞ?」

「ちょっとうまいこと言わないで」

「タイガくんの写真を見て気持ちを落ち着けろよ」

「? なんでそこでタイガが出てくるの?」

「送られてきたんだろ? 写真」

「ううん」

「は? でも――」


 ――じゃあスマホを見てほくほくしてたのは……?


「よく分からないこと言ってないで、ご飯を食べましょう」


 莉桜はエプロンをはずして座り、手を合わせた。


「いただきます」

「いただきます……」


 まあいい。莉桜が元どおりになったことを喜ぼう。


 俺はさっそくいつもの調子で莉桜をいじる。


「おいおい、そんなしかめっ面するなよ。朝からかりかりしていいのは目玉焼きの裏面だけだぞ?」

「ちょっと褒めたからって使い回さないで。それにわたし焦がさないほうが好きだから」

「なにをそんないらついてるんだ。俺はなにもしてないんだよな?」


 莉桜は目も合わせずに言う。


「なにもしてない」

「じゃあなんで」

「なにもしてないから」

「はあ……?」


 莉桜はようやく俺を見た。そして笑みを浮かべる。


 ――笑顔怖っ……!


 背筋がぞくぞくするような微笑だ。雪は降りそうもないのに。


「挨拶は大事よね」

「……? 挨拶ならしたろ」


 しかし莉桜は返事もせず、黙々と朝食を口に運ぶだけだった。


 ――訳分からん……。


 ひとまず挨拶はしっかり大きな声で言おうと心に決め、俺は味噌汁に口をつけた。

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