第5話 大義名分があるし
おじいの家へ引っ越しを終えた日の夜、俺は茶の間で莉桜のことを考えていた。
『分かった。橙也があのときからまったく変わってないってことが』
そう言った莉桜の顔は、怒っているようにも悲しんでいるようにも見えた。
あのときの彼女の顔を思い出すたび、俺の胸は、胸は――。
――むかむかしてしょうがねえ……!
だっておかしいだろ。俺は莉桜が望んだ対応をしただけだ。そもそもこの関係は莉桜が始めたことなのに、どうして俺が失望されなきゃならないんだ。そりゃ、原因を作ったのは俺かもしれないけど――。
「お先にお風呂いただきました」
チェックのパジャマ姿で莉桜は茶の間に入ってきた。ほんのり上気した頬や首筋、ふだんの服装より緩い胸元に目が吸い寄せられる。
「ん、お、おう……」
目の毒とはこのことだろう。ふたり暮らしを開始した最初の夜であればなおさらだ。
「よかったのか? その……、先で」
俺はスマホをいじる振りをしながら尋ねた。
「どういう意味?」
「だから、お湯に――」
俺は口ごもった。莉桜はますます怪訝な顔になる。
言いたいのは、自分の入った湯にあとから男が入るのは生理的に嫌じゃないのか、ということだ。湯にいろいろ残るじゃないか。汗の成分とか髪の毛とか。でもそれをストレートに言うのはあまりにデリカシーがなさすぎる。
俺はできるだけオブラートに包んで言った。
「お湯にお前の
「わたしは利尻の昆布かなにか?」
「なんでちょっと高級なやつ」
「仮に出たとしたなにか問題があるの? ――もしかして」
莉桜の顔が青ざめる。
「飲むの?」
「飲むかっ。あとで俺が入ったらお前が気持ち悪がるんじゃないかってことだよ」
「……へえ」
「な、なんだよにやにやして」
「一緒にお風呂に入ったこともあるのに」
「それは小さいころの話だろ」
「今はあとで入るのも恥ずかしいんだ」
「そんな話はしてねえ!」
「へえ」
俺の顔を覗きこむ。その表情はちょっと嬉しそうだ。
――っ……!
前屈みになったせいで胸の谷間が露わになった。昔、一緒に風呂に入ったときに見た、肋骨の浮き出た身体とはまるで違う、女性らしいふくよかなカーブ。
俺は弾かれたように顔をそむけた。
「ふふっ」
莉桜は勝ち誇ったように笑う。
違う、俺は言い合いに負けたわけじゃない。女体に負けたのだ。
「そうだ、そういえば――」
莉桜はスマホを操作した。
「RINEのID、交換しておきましょう」
――なに……?
とうとつな提案に一瞬動揺してしまった。しかしこれは反撃のチャンス。逃す手はない。
「ん~? お前、俺のIDが欲しいのか? どうしても知りたいって言うなら教えてやらないでもないぞ? ん~?」
しかし莉桜はぴくりとも表情を変えずに言った。
「ふたり暮らしするんだから連絡先は必要でしょ。なにがあるか分からないし、用事を頼むかもしれないし」
「ほ~。ふたり暮らしにかこつけて俺のIDをねえ」
莉桜は心底呆れたようにため息をついた。
「なにくだらないことでマウントをとろうとしてるの? 子供みたい」
蔑むような視線。
「ぐっ……」
おかしい。俺の反撃だったはずなのにいつの間にかカウンターをとられ、よく分からない傷つき方をしてしまった。
「ほら、早く」
莉桜はQRコードの表示されたスマホを差し出す。俺は促されるままに莉桜とIDの交換をした。
「安心して。用事がないかぎりは連絡しないから」
ひらひらと手を振って、莉桜は客間のほうへ消えた。
◇
俺は自室の仏間に引っこんだ。まだダンボール箱が未開封で放置されており、乱雑としている。
RINEの画面を見た。莉桜のIDが友だちリストに表示されている。
いくら腐れ縁とはいえ、連絡先すら知らないというのはあまりに距離が遠すぎるとは感じていた。これでようやく幼馴染みとしての下限に達した。それだけのことだ。
――ついに……。
「ふ、ふふ……」
気づくと口から笑いが漏れていた。
――やべっ、俺気持ち悪……。
俺はスマホを充電器に接続した。押入から布団を出し、部屋の真ん中に敷く。
莉桜のことだ、言葉どおり用事以外で連絡してくる気はないだろう。それでいい。これ以上は望まない。満足だ。
そのときスマホが短い着信音を鳴らした。俺は滑りこむようにしてスマホを手にとり通知を確認する。
母さんからだった。
――おおい、このタイミングでなんだよ!
メッセージを開く。色とりどりに輝く寿司の写真だった。
『そっちはどう? こっちは寿司です』
――本当になんだよ!!!!!
そういうのは息子が旅立つ前日に振る舞え!!
寿司に触れたら負けだと思い、新生活初日は順調であったことだけを返信する。
スマホを畳の上に放り、布団にごろりと転がった。
――順調、だよな、うん。
照明を消し、俺は目をつむった。
……
…………
………………
…………
……
――寝れるか……!!
莉桜とひとつ屋根の下でふたりきり。しかも薄い壁の向こうで寝ている。意識するなというほうが無理な話だ。
けっきょく俺は、外が白々と明るくなるまでろくに眠ることができなかった。
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