第4話 なにも変わっていない

 掃除が一段落し、バケツの水を捨てに台所へ行くと、莉桜が椅子に腰かけてペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいた。三角巾やらエプロンははずしている。


「堂々とサボってんな」

「休憩してるの。一緒にしないで」

「サボりと休憩を? それとも俺とお前を?」

「両方」


 莉桜はペットボトルをテーブルにとんと置いた。


「で、どれくらい進んだの?」

「そ、そっちこそどうなんだよ」

「なんで狼狽えてるの? わたしは茶の間と台所、あとお風呂場を終わらせたけど」

「……へえ。で、なに? マウントとってるのか?」

「そっちが聞いてきたんでしょ……。――まあ、今の返答で察しがついたけど。大方、わたしが見てないのをいいことにだらだらやってたんでしょ」

「ど、ドキィッ!」

「それを口に出して言うひとを初めて見た」


 呆れたように言い、おもむろに立ちあがる。


「どこを掃除したの?」

「今、掃除の話はよくない?」

「今が一番掃除の話をする場面でしょ!」


 莉桜は台所を出ていく。俺は彼女のあとを追った。


 仏間の引き戸を開き、ぐるりと見回した莉桜は言った


「さっきと変わらない……。全然進んでないじゃない」

「言いがかりはやめろよ。そもそも手をつけてねえ!」

「なおのこと悪い!」

「サボってたわけじゃない」

「じゃあ奥の部屋?」


 黙る俺に疑るような視線を送り、莉桜は縁側に出て、今度は客間の戸を開いた。


 和室をフローリングに改装した部屋。床は板材だが床の間がある、なんだかちょっとちぐはぐな感じがする空間だ。


「……」


 莉桜は客間に足を踏みいれ、しばらく無言で周囲を見回す。しゃがみこんで床の隅まで観察し、つぶやくように言った。


「ちゃんとできてる」

「だから言っただろ、サボってないって」

「でも一室に時間をかけすぎでしょ」

「だってそれは――」


 ――力が入っちゃったんだよ。お前が使うかもしれない部屋だから。


「――興が乗ったんだよ。ゲーム感覚っていうか」

「……ふうん」


  いぶかしげな視線。


「ゲーム感覚なら、より多くの部屋をきれいにしたわたしの勝ちじゃない?」

「ひとりでこつこつ遊ぶゲームもあるだろ。自己満足だよ」

「へえ、きれいにできて満足なんだ」


 意味ありげな眼差しに俺は顔をそらした。


「だからなんだよ」

「べつに」


 莉桜の口元がほころぶ。


「さ、仏間の掃除を終わらせましょう。ふたりで」

「別々のほうが効率がいいんじゃないのか」

「役割分担の問題。橙也はお仏壇をきれいにして。わたしはべつのところをやるから」

「なんでお前が命令するんだよ」

「だって、ゲームはわたしの勝ちでしょ?」


 莉桜は腰に手を当て、得意げな顔をした。


 そう、はなから俺の負けなのだ。莉桜と静樹の関係が深まっていくのを見ていられなくて逃げだした、いわばこれは撤退戦。でもまさかこんな形で追撃されるなんて。


 しかし不運を恨んでいても仕方ない。被害を最小限にとどめる努力をすべきだ。


 俺たちは仏間に戻り、掃除を開始した。


 伸びるハンディモップで照明の傘を拭いていた莉桜がとうとつに、


「ふふ」


 と小さな笑い声をあげた。


「お前、そんなに掃除が楽しいのか? だったら俺の分もお前が――」

「隙あらばサボろうとしないで。ちょっと思い出しただけ」

「思い出し笑いかよ。スケベだな」

「なんでよ!」

「思い出し笑いをする奴は総じてスケベなんだよ。俺もよくするからな――っておい!」

「わたしはなにも言ってないけど」

「で、どんないやらしいことを考えてたんだ?」

「いやらしいことは考えてませんっ。――ちょっと、小さかったころのこと。ふたりでこんなふうに――」


 莉桜は中途半端に言葉を切ると、しばし何事か考えるように黙りこんだ。


「どうした?」

「橙也」


 と、こちらに向きなおり、三角巾とマスクをとった。


「ルールを決めましょう」

「勝手に相手の部屋に入らないとか、プリンには名前を書くとか? 気が早いな」

「詳細なルールは追い追い。今日はひとつだけ」


 莉桜は少し緊張したような面持ちで言った。


「大事なことはジョークにしないで」


 なんだ、そんなことか。要するにさっき言ってた『ジョークは失言の免罪符じゃない』と同じ系列の話だろ。


「オーケー、了解した」

「本当?」

「ああ、ほんとほんと」

「よかった……」


 莉桜の表情が安心したようにほぐれる。


 ――大袈裟な奴。


「じゃあ、俺からもルールをひとつ」

「なに?」

「この家は俺がおじい――じいさんからもらった家だ」

「そうなの?」

「ああ」


 ちょっと話を盛った。実際の名義は母さんだ。


「ということは実質、俺が家長であるわけだ」

「……それで?」

「つまり俺の発言は尊重されなければならない。いや、あえて言おう。俺こそがルールだと! だから俺は、ふざけたいときにふざける!」


 拳を握りしめる。


「……」


 沈黙。


 ――……あ、あれ?


 いつもならすかさず反論が飛んでくるのだが。


 莉桜はなにも言わない。呆れたような、怒っているような、同時に少し悲しそうな顔で俺を見ている。


「……そう」


 ようやく発した声は低くかすれていた。


「分かった。橙也がからまったく変わってないってことが」

「……あのとき?」


 なんの話だ? そう尋ねる間もなく莉桜は、


「さ、早く終わらせましょう。帰りが遅くなっちゃう」


 と言って掃除を再開した。


 打って変わってからっとした声。そしてさばさばとした様子。しかしまったく目を合わせてくれなくなった。


 俺は「お、おお」とうめき声みたいな返事しかできなかった。


 仏壇の埃を落としながら考える。


 ――俺がふざけるのはいつものことなのに、なんで今日に限ってあんな妙な反応を……?


 しかし頭がうまく回らない。莉桜にあんな顔をさせてしまったことが、思いのほか俺のメンタルにダメージを与えていた。


『未練』という文字が思い浮かび、俺はぶるぶると頭を振る。莉桜とのふたり暮らしはまだ始まってすらいないのに、これでは先が思いやられる。


 ――俺は楽しく生きたいだけなんだけどなあ……。


 仏壇の写真立てを見る。


 ――おじい、どうしたらあんたみたいになれる……?


 へらへらと笑っているおじいはなにも教えてはくれない。


 親元を離れて心機一転。そのはずだったのに、とんでもない重しを背負って新生活をスタートすることになってしまった。

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