世界の終りのアフタヌーン

ひなたひより

世界の終りのアフタヌーン

 一日の始まりはいつも喉の渇きから始まる。

 口を開けて眠る習慣というのは、そんな簡単に修正できるものでは無い。

 乾いた口の中をコップ一杯の冷たい水道水ですすいだ後、やっと口腔内のモソモソした不快感から抜け出せた。

 朝食はいつもの通り、薄く焦げ目のついたトーストにハムと目玉焼きが載っている。

 ほんの少しだけ食塩を振ってから一口齧る。

 それがこの簡素で良くも悪くも典型的な朝食の頂き方だ。

 そして必ずコップ一杯の牛乳を飲む。

 美味しいとは特には思わない。ただ習慣になっている朝の儀式の一つ。

 これを飲んでいる限りは、将来背が伸びてくるという期待感を持ち続けていられる。

 それは楽しみというよりも、飲まなければ身長は伸びないのではないかという、杞憂といったところだ。


「さて、行くか」


 別に誰に言っているのでもない。

 これも単に習慣の一つだ。

 目まぐるしく動き回る世界の中で、玄関を開けて目に飛び込んでくる景色は、今日も明るく穏やかだった。


 夏休みに入った初日。


 いつもの通学路に、学校に向かう人影はいなかった。

 たくさんの青い葉をつけた桜の木の下を通りがかると、蝉の鳴く声がやかましく聴こえてくる。

 僕は陽射しを少しでも避けようと、葉のたくさんついた街路樹の下ばかりを探して学校へと向かう。

 そして通学路の途中にただ一つだけある曲がり角を抜けた時、太陽光が照り付けるこの通りで、僕は彼女の背中を見つけるのだ。


 それは人の形をした蜃気楼。


 肩まである艶のある黒髪は強い陽光をそのまま撥ね返す。

 白い半袖の夏服はそれ自体が光を持っているかの様にひときわ眩しかった。

 少女の肩にはその背丈に不釣り合いなほどの薄い大きなナイロン製のバッグがかけられていて、そこには一冊のスケッチブックが入っている。

 そして、そのバッグを肩にかけているのはその少女だけではない。

 自分も同じスケッチブックが入ったバッグを肩にかけている。それだけで何だか気持ちが浮足立つ。

 ざわざわとほんの少しだけ涼しい風が葉を揺らし、少女のスカートの端をなびかせる。

 きっと君は僕の視線が痛かったのだろう。

 春に見事な満開の花を咲かせたあの桜の木の下で、君は振り返るのだ。


 木漏れ日が君を彩る。


 ああ、君は綺麗だな……。


「おはよう。何時から後ろにいたの?」


 君の声はいつも涼し気だ。

 そして僕は小走りに君に追いつくんだ。

 揺れるスケッチブックの入ったバッグを片手で押さえながら。


 三階にある美術室で君は僕と向かい合う。

 夏休みまでに仕上げておかなればいけなかった部活の課題。

 美術部で君と僕だけが少し遅れていたんだ。


「お互いを描きあうって難しいね」


 顧問の先生の気まぐれだったのだろう、お互いがお互いの人物画を描いている姿を描きなさいと半月前に言われたのだった。

 そしてお互いの描いている姿をスケッチするということは、片方が先に終わってしまうと困った事態になるということだった。

 彼女は筆の遅い自分に合わせてくれている。

 それは描き始めてからすぐに気付いていた。

 出来れば夏休み前に課題を終わらせておくべきだった。


 でも……。


 自分に出来る最大限の繊細さで、目の前にいる少女の姿をスケッチブックに写していく。


 どうしてもありのままの君が描きたいんだ。


 筆を進めながらふと思う。ありのままというのは適切ではない。実際は自分がこの目の前の少女をどういう風に見て、感じ取っているのかを正直に描きたいと願っている。それが正しいと言えた。

 実際の少女の姿では無く、偽りのない自分の胸の内を描き進める。もしかするとこのスケッチブックを通して、一年越しの想いを打ち明けているのかも知れない。

 そう考えると頬のあたりが熱くなってしまうのだった。


 開け放たれた窓から涼しい風と共に時折、キンという金属バットが球を打ち返す快音が聴こえてくる。

 早朝から練習試合をしている野球部の連中だ。よくこの暑さの中でへたばらないものだ。

 君は窓の外に目を向け、僕に無防備な横顔を見せる。


「ホームラン」

「え?」

「さっきの音はきっとホームランだよ。そう思わない?」


 無邪気にそう言った君のことを別のページに描いてみたいと本気で思った。


「そうだね。ちょっと見てみる?」

「そうね。ちょっと休憩」


 大きく伸びをしてから席を立った君は、何気に窓の外に視線を向ける。


「あれ? 守備の子たちが戻って来てるわ」

「回が終わったみたいだね。外野フライか何かだったんだよ」

「何だ。はずれちゃった」


 特に残念だとも思っていない様な屈託のない笑顔。

 そんなふと見せた何気なさも、別の頁に描いてみたい。

 そう言葉にしたならば君はどんな顔をするのだろうか。

 そしてまた席に戻ってスケッチブックに線を引く。

 このペースだと今日の午後、きっとこの絵は完成するだろう。


 もっとうまく描けたらな……。


 そんなことを今更ながら考える。

 決して上手くない、自己満足にすら到達できていない、丁寧に描かれた絵。

 君がどんな顔をしてこの絵を観てくれるのかを何度も想像した。

 そして今日の午後にはその想像が現実になるのかも知れない。

 そしてまた伏し目がちにスケッチブックに線を描き始めた君に向かい合って、鉛筆がざらざらした紙の表面をなぞる音に心地よさを感じるのだ。


 午後を少し過ぎて僕たちは持参したお弁当を食べる。


 向かい合って君とこうしてお弁当を食べるなんて……。


 去年の春、僕は君と出会った。

 何もかもが新しい中学生活が始まりを迎えて、しばらく経ったある日の放課後、美術部の入部届を持って教室に入った時に、違うクラスの君の存在を知った。


 一瞬で恋に落ちた。


 それからは放課後の部活に通い詰めることが、学校生活の中心になった。

 ずっと口もきけなかった僕に、君は明るく話しかけてきてくれたんだ。

 一年なんてあっという間だった。

 そしてもう夏休みが始まってしまった。


 ときめく心を隠しながらの、君と二人で帰ったあの陽射しの強い午後の帰り道、突然この世界は終わりを迎えた。

 それはずっと前に起こったことであり、これから起こること。

 時間の行き止まりを僕たちは見た。

 永遠に止まることなく流れ続けるであろうと、誰からも意識されることも無く信じてられいた時間の流れは、世界中の人たちの目の前で突然終わりを迎えた。

 終焉というものは何の前触れもなくやって来て、僕たちのこれからを当たり前の様に奪っていくものだということをその時知った。

 流れることの無くなった時間の終着点。そこにはなんの鮮やかさもない静止した世界が広がっていた。


 夏休みの最初の日だというのに……。


 けだるげな午後の日差しの中で、小さな期待感を抱いていた胸のうちに真っ先に思い浮かんだことだった。


 人々が最後に見たもの。それは時間の終着点に直面した我々の前に突然姿を現した奇妙な存在だった。

 時間を食べる怪物。

 迷信の世界にだけ存在していた怪物は、ひっそりと音もなくこの時間の終焉に姿を現した。

 過去を食らいつくし時間の流れをそこに留め置かない絶対者。

 ランゴリアーズという名で呼ばれることもある。

 進み続ける時間の流れと共に歩み続ける限り絶対に出会うことのない怪物は、僕たちに追いついたのだった。

 そして今いる時間の全てを、あっという間に食らいつくして世界は消滅した。


 そして今いる世界はその断片に過ぎないのだろう。

 朝起きて午後には必ず世界が終わるループが、もう数えきれないほど繰り返されている。

 何故このようなことが起こっているのか。

 僕は描き終わったスケッチブックを前にその正体を思い描く。

 何故だろうか、僕にはこう思えるのだった。

 この世界は君と僕の世界を切り取った一ページなのだと。

 ただ一つの心残りを残したまま、消滅してしまった世界と共に消えて行くのをひたすらに拒んでいる。

 そして僕にとってその叶えたいものはたった一つだけだった。

 あの日、最後の時を迎える前に彼女は言ったのだった。


「今日も結局完成しなかったね」


 本当はスケッチブックには完成した君を描いた絵が有った。

 あの日僕は小さな声で、いつまでも消えることの無いささいな嘘をついた。


「そうだね明日また頑張るよ」


 それは胸の痛みを伴う執着。

 君の夏休みをもう一日だけ独占したいという身勝手で青臭い願望。


 きっと完成したこの絵を君に見せることで、そんな些細な小石の様な引っ掛かりは無くなってしまうだろう。


 ほんの少し日差しが穏やかになり、野球部の練習している声も静になりだした頃、僕たちは席を立つ。

 

 「そろそろ帰ろうか」


 君はそう言って先に席を立つ。

 夕方からのピアノの稽古の時間が迫っているからだ。

 僕はもうそんな時間かと慌てて片付ける。

 そして濃い夏の匂いのする校庭を抜けて、僕たちは学校を後にする。

 いつも気の利いた話が出来る訳でもない僕の口からは、すぐに何も出なくなる。

 それでも君の涼し気な声を聴きたくて、話題をひねり出そうと奮闘するんだ。

 そしてあの時間が迫る。

 遠目に見えるあの大きな桜の木の下に差し掛かった時、この世界は終わりを迎える。

 僕は喉の渇きを覚える。

 もうすぐ君の唇から出る筈のひと言に僕は内心震えている。

 明日の来ない世界で、それが全く意味をなさないことだとしても、僕には知りたいことが有るんだ。

 そして繰り返されるこの瞬間に、君はまた同じ言葉を投げかける。


「今日も結局完成しなかったね」


 スケッチブックには完成した君を描いた絵が有る。

 そしてあの日以来ずっとつき続けていたささいな嘘を、今日僕は口にしなかった。

 あの日小さな声で言ってしまったささいな嘘の代わりに、ずっと思い描いていた光景をなぞるように言葉にする。


「完成したよ。見てくれる?」


 バッグから取り出したスケッチブックを開いて丁寧に書かれた不格好な人物画を見せる。


「私のも見せるね」


 僕は知っていたんだ。もうしばらく前に君は絵を完成させていたことを。

 そしていつも僕の目の前で気付かれない様に、違うページに鉛筆を走らせていたことも。

 そして君は優しいタッチで描かれた人物画を僕に広げて見せた。


「君は上手だね。素敵な絵だ」

「あなたの絵も素敵よ。丁寧に書いてくれたんだね」


 そして二人の頬が少し赤く染まる。


「君が好きなんだ」


 一度素直になった口から、ずっと言えなかった一言が溢れた。

 君は少し驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうにはにかんだ。


「ありがとう」


 君の口からは小さいが弾むような言葉が返ってきた。

 そして照れ隠しのためか、君は僕の少し先を歩き出す。

 それは僕が初めて見た新鮮な光景だった。

 

 そして何の前触れもなく、いつものようにこの世界は終わりを迎える。

 時間を食いつくす怪物が、どこかでざわざわと蠢いている感覚が伝わってくる。


 君は振り返る。


「返事、明日でいいかな」


 そう言って君はその先の何もない世界に一歩を踏み出す。

 永遠にやって来ることの無い明日の約束だけを残して、君はこの世界から忽然と消えていった。

 そしてすぐに僕も消えてなくなる。

 消えてしまったことすら気付かないうちに。

 また一つ小さな執着を残して。


 通学路の途中に一つだけある曲がり角を抜けた時、陽射しの強いこの通りで僕は彼女の背中を見つける。


 それは人の形をした蜃気楼。


 白い半袖の夏服、肩まである艶のある黒髪、少女の肩に掛けられた薄い大きなナイロン製のバッグの中には一冊のスケッチブックが入っている。

 その頁の一枚にはもう完成した人物画が描かれているのだ。


 ざわざわとほんの少しだけ涼しい風が葉を揺らし、少女のスカートの端をなびかせる。

 春に見事な満開の花を咲かせたあの桜の木、今は濃く青いたくさんの葉をつけている。

 揺れる葉の下で、痛いほどの視線を感じて君は振り返る。


 木漏れ日が君を彩る。


 ああ、君は綺麗だな……。


「おはよう。何時から後ろにいたの?」


 夢の様に眩しい笑顔。

 そして僕は揺れるスケッチブックを片手で押さえながら、小走りに君に追いつくんだ。

 君と並んで、僕は歩き出す。

 今日も訪れる、世界の終る午後へ向かって。

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