小説における良作、駄作とは? 〜良い小説を書くために〜

久瑠井 塵

第1話

 昨今、ライトノベルと呼ばれるジャンルの書籍が流行っている。コミカライズやアニメ化、映画化等々、メディアミックスも盛んに行われている。が、しかし当然数が増えれば、その中に良作、神作(とてつもなく良い作品のこと)がある一方で、駄作と呼ばれるものも出てくる。今回は、そこにどのような違いがあると考えられるのか、持論を述べてゆきたい。

 

 まず、私が第一に考えるのは、良作における一種の共通項とも言える部分についてだ。それは「本編での大きな流れと主人公周りの小さな流れ」についてだ。というのも、ここで具体的な例を出すとすれば、ある日事件Aが発生する。それの解決をするのが主人公だ。その事件の内容を紐解くのが本編における「大きな流れ」だとすれば、もう一方の小さな流れとは、主人公の短所の改善や、心身面での成長、具体的な例を出すと過去のトラウマからの脱却、ファンタジー的な作品であれば、新たな能力を得るなどであろう。

 本編の大きな流れが紐解かれるうちに、自然と主人公のないしは、周囲と内面とに向き合い、どちらをも完全にとはいかなくてもそれの重要な部分を解決する。これが小説、とりわけライトノベルにおけるある種の理想形ではないだろうか?

 少なくとも、私がこれまで読み、面白いと感じたものには、この要素が含まれるものがほとんどだった。だからといって上記の型にはまっていないものが、一方的に悪いとも言えない。随分と特殊な例にはなるが、その一部を紹介しよう。

 皆は、「セカイ系」というジャンルをご存知だろうか?雑に説明するならば、エヴァンゲリオン風の作品だ。もちろんエヴァンゲリオンそのものはセカイ系の始祖とも言われる神作であることは間違い無いのだが、実は新海誠作品と呼ばれる作品群も一種のセカイ系だと言える。ではセカイ系とはどのようなものなのか、少し解説をしよう。

 主人公と対役、ここは主に女性であることが多いのでヒロインとしよう、がいる。且つこの二人は中高生であることが多い。(「エヴァンゲリオン」の碇シンジは中学生であるし、新海誠監督の「君の名は」のヒロインである宮水三葉は高校生である。)

その両名に、唐突に「世界の危機」なるのものが訪れる。それに対処し、回避する術をヒロインは持っているのだが、大抵の場合、主人公とヒロインは恋愛関係に発展していることがほとんどであり、世界を救う代償として、ヒロインの命が犠牲となることが多い。主人公に、世界を救うか、ヒロインを救うかの選択を迫るというのが概要である。

 お分かりいただけたかもしれないが、他の良作が、大きな流れの中で、小さな流れの解決、進展につながるのに対し、セカイ系においては、小さな流れの進展、解決が大きな流れに影響を及ぼすというとても特殊なパターンであるため、好みが分かれるジャンルである。特にこのジャンルを嫌う人の理由として「自己中心的」なことが挙げられる。

 つまり、セカイ系」の作品においては「大きな流れ」と「小さな流れ」の関係性が逆転しているという点で例外なのである。

 そして続いては駄作についてだが、ここでは「なろう系」と呼ばれる作品群を紹介したい。こちらの作品が好みの方もいることは重々承知の上であるし、勿論このジャンルにも多くの良作神作が存在することは理解している。しかしライトノベル作品を読んでいると、このジャンルに該当し、且つ駄作であった経験が私自身の中で多いので取り上げた。もちろん、「なろう系」作品の中にも神作はある。例を挙げるとすれば「Re:ゼロから始める異世界生活」や「この素晴らしい世界に祝福を」、「無職転生」などだろう。何故「なろう系」作品に駄作が多いのかを考察していきたい。

 なろう系、その歴史は約10年ほど前まで遡るだろうか?その当時の作品といえば、最近アニメ化され話題となった「無職転生」や「リアデイルの大地にて」などだろうか。当時は「異世界転生」という新ジャンルに、

私を含め多数のライトノベル愛読者が驚かされたものだ。初期は、高い評価を得ていたジャンルであるが、時が進み、目安として「このすば」、「リゼロ」が出たあたりから二極化が始まったように思う。

 「異世界転生」というジャンルの急増が生んだ、多くの内容のテンプレート化がこのなろう系衰退、なろう系から駄作が出てしまうきっかけとなったのは間違いない。どんなものを書いても、いくつかの要素は何かのパクリになる。例えば、中世の世界観設定、魔法と剣、王族、貴族、平民などの身分、他にも多々あるが挙げればキリがない。逆に言えば誰でもテンプレ通りに書けば、「量産型なろう系異世界転生・転移ラノベ」の出来上がりだ。

 そんな背景もあり、小説として、ライトノベルとして読むに堪えないもの、単純にありふれ過ぎて一切面白くないものが大量に出てきてしまった。そしてタイトルの長文化もこの時期のことだろうか。これに関して言えば、小説投稿サイトでPV数(閲覧数)を稼ぐための手段であるという面もあり、一概に否定できない。

 しかし「なろう系」と呼ばれるジャンルには高い包容力とサポート力があり、物語を創作したいと思った人にとって間違いなく、「創りやすい」ジャンルであることは間違いない。ありとあらゆる現実世界にある職業などが異世界という舞台に輸入できる。その職業について詳しい知識がある人からすれば、そこでリアリティを出せることは強みだろうし、異世界におけるテンプレートを生かして現実世界では描けない要素との融合など利点もたくさんある。ある意味、創作者の母数を

増やしたという点で功労者ではあるのかも

しれない。

 そのような過去を乗り越え、なろう系異世界というジャンルは新たな境地に足を踏み入れようとしている。それこそ「オリジナリティの追求」だ。これは先ほど書いた「テンプレート化」とは見事な対比を見せるように思えるが、この二つは絶妙なバランスで共存することができるのだ。

 流れとしてはこうだ。「テンプレート化」が進み、どの小説も似たり寄ったりになる。その状況は作家的には好ましくない。自分よりも文章力に長けるもの、キャラクター造形に長けるもの、設定の豊富さ、重厚さに長けるもの、ストーリーの展開に長けるも等々、自分以上の能力を持った作家が無数に存在する中で自分の作品の読者を増やすことは難しい。なぜなら、自分の書く小説よりも面白い同ジャンルのほぼストーリーも似たような小説が大量にどこにでもあるからだ。ちなみに、先程あげた何か「長けるもの」がある小説は、それだけでライトノベルを良作神作にしうる要因である。

 そんな状況で創作者がどうするか。それが

「他作品との差別化」即ち「オリジナリティの追求」だ。才能や単純な小説の面だけでは勝てないとなると、これまでにない斬新な発想、突拍子もないアイデアで勝負するしかない。例えば、誰も取り上げたことのないような職業、もしくは異世界だからこそ成立しうるような現実には存在しない新たな職業などを取り上げるなどだ。幸いにして「テンプレート」のおかげで、それにある程度沿ってさえいれば大きく枠を外すようなことはない。そういう傾向に向かいつつある。(時に突拍子が無さ過ぎて、読むに堪えないものもあることも事実だが)

 例えば、同じように異世界を舞台としつつも、魔法やモンスターそういう概念を残したまま戦うのではなく、旅をする。旅をすることだけ描くなどの「戦わない異世界もの」とでも言おうか、そういうジャンルも話題だ。

 今、着実に過去の悲劇、駄作を多数生んだ歴史とは縁を切ろうとしている。ただし、やはり読んでいても物が足りない気持ちになる。これは何故なのか、その答えは非常に単純だ。主人公らの内面に触れないことが多い、または深く入り込むことはないからではないだろうか?もちろん、ちゃんと内面に深く触れていく作品もあり、そういう作品は総じて良い評価を受けている。ただ、未だになろう系ではキャラクターの内面、精神面に触れない物が多い。それは何故か、はじめから主人公が強すぎるからだ。強すぎるがために苦労せずことが進んでいく。そのスムーズさ、軽快さがなろう系の魅力であるのは重々承知だ。物語において、ステータスの面でも精神的にも成長させるのが難しく、自らそういう状況にしてしまっている。これがなろう系の進歩を阻む障壁となっているのだろう。

 私が提言したい今後のなろう系のあるべき道として、主人公をそこそこ強い程度に留める、いくらか苦戦する余地を残しておく、心理面、精神面に分かりやすい欠点を作っておくなどで如何だろうか?少なくとも主人公がカケラも成長せず物語が終わるということは少なくなるはずだ。是非今後このジャンルで文章を書こうと思っている方の参考になれば幸いである。

 現状、このように主人公に欠点を作っている作品も一部見られるが、未だにほとんどが主人公が最強の「俺TUEEE」で進んでしまっている。そういった作品に対する警鐘である。

 又、これは別ジャンルとして「青春ラブコメ」にも別視点から警鐘を鳴らしたい。それはカケラだけの「オリジナリティ」だ。一部オリジナルにしただけで他はテンプレートで容易に物語の展開における大筋は想像できる。これは「独自性」を発揮する部分がキャラクターの設定のみに特化しているからだと

思う。もう少し物語の展開における独自性などを探してみてはどうだろうか?


 そこで一旦、原点回帰をしたい。冒頭で物語の軸には「大きな流れ」と「小さな流れ」というものがあると述べた。そして、物語中でどちらが中心であっても構わないが、しっかりと関係していることが重要だ。その関係は「歯車」をイメージするのが適切かと思う。その歯車同士が、しっかりと噛み合って、空回りすることなく滑らかに回り続けて

いる状況が物語にとって良い。ここで一点注意して欲しいのが、無闇矢鱈に歯車の数を増やしすぎないということだ。巧い作家になると大量の歯車を見事に取り扱って、素晴らしい結末に導いてくれるが正直それはかなり才能、センスもしくは、そのようなものを書こうと研究、努力した人でなければ導ききれない。大抵の場合は、大量の歯車に翻弄されてぐちゃぐちゃな結末になるか、作者ですらも理解不能な帰結へと至ってしまう。

 初めは、ごくごく小規模な機械ものがたりを動かすのが良いだろう。ここからはほぼ趣味、作家性と呼ばれる部分になるが、徐々に動かす機械を大きくしていこう。これが歯車の数を増やすことだ。ただ、歯車の多い作品でなければ良作神作ではないわけではないので、自分の扱いやすい自分だけの機械を作ることが最重要ではないだろうか。



※これはあくまで筆者の自論です。特別な根拠があるわけではありません。10年弱小説に

触れてきただけの若輩者の一意見です。皆さまの寛容な心で受け止めていただけるとありがたいです。もし、ご意見等ありましたらSNSの

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