第2話


その人は、名前を「佐藤狸吉」と名乗った。

「少し変わっているでしょ? なので、お客様には「ぽんさん」と呼んでもらえるようお願いしているんです。」

その人—―—ぽんさんは、僕が行きたい場所までを地図で確認し、車を発進させた。僕は、後部座席で軽く礼をして、席に深く腰かけた。途端、今まで感じていた緊張が一気に消えていった。

「狸だから、ぽんさん、ですか?」

「安直ながら、そうです。」

ぽんさんは、少し恥ずかしそうにそう言った。マスクをしていても、表情がコロコロ変わっているのが見える。素直そうな人だな・・・・と、僕は思った。

「今日は、終電を逃しましたか?」

「あはは、恥ずかしながら。時間ギリギリまで残業していて。」

「仕事に一生懸命なんですね。お疲れ様です。」

僕の仕事話に、ぽんさんは微笑み返してくれた。それを見た僕も、なぜか心が温かくなっていく気がした。

車は、ぐんぐんと道を進んでいく。夜中で車どおりもまばらなので、家には早めに着くかもしれない。僕は窓の外に広がる外の景色に視線を移した。ちょうど、カップルと思われる男女2人が、仲良く手を繋いで横断歩道を渡っていた。そして、その後ろから会社帰りのサラリーマンが、急ぎ足で2人を追い越していく。そう思っていると、また別の場所では大きな楽器を背負ってゆっくり歩く4人組が見えた。もしかしたら、夜遅くまでバンドの練習でもしていたのだろうか。

「こんな時間でも、色んな人がいますね。」

ぽんさんは、僕の気持ちを察したように、言った。

「そうですね。」

僕は、窓の外に視線を移したまま答え、そのまま続けた。「ぽんさんは、終電を逃したことはありますか?」

「沢山ありますよ。」ぽんさんは笑ってそう答えた。「若い時は、お客様と同じサラリーマンだったんですが、その時は何度も逃しました。」

「そうだったんですか!」

「えぇ、もう随分と若い時ですよ。」ぽんさんは、どこか遠くを見つめたように言った。その姿は、どこか寂しさを感じさせた。

「長く生きていると、色んなことを経験します。サラリーマン時代の経験も、当時はかなり辛いこともありましたが、今となっては懐かしく思います。」

ぽんさんの話を聞きながら、今自分が過ごしている時間は、いつ懐かしくなるのだろうと考えた。今の残業続きの日々、上司と後輩に挟まれ焦った日、ただただ満員電車に揺られる日・・・・あの時の―—―—恋人を失ったときの痛み。それらは全て、いつか「懐かしい」と思えるのだろうか。


そんなことを考えている中でも、車は明かりで照らされた夜道をぐんぐん進み、やがて近くのガソリンスタンドで一旦停車した。

「すみません、ちょっとガソリンを足してきます。」

「あ、じゃあ僕もお手洗い行ってもいいですか?」

僕は財布と携帯だけ持って、ぽんさんと共に車を降りた。そして、お手洗いに行った後、自販機で2本のお茶を購入した。さすがに、何もお礼をせずにいるのは、なんだか申し訳なくなった。

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