鞘と刀 【一話完結】

大枝 岳志

鞘と刀

 近頃寒くていけねぇや。寒いってのは分かるが、実のところ、俺は世界というものをこの目ん玉に映した事がねぇ。何故かって?

 そりゃあんた、俺は「鞘」だからさ。


 そう、刀を入れるあの鞘だ。


 相棒の刀が帰ってくる度、外の話を聞かされる。あの野郎、ご主人様に大事に大事に磨き上げられた己の切っ先に映した世界を、帰ってくる度にご丁寧に俺に教えてくれやがる。


 俺は外なんか見た事がねぇもんだから、刀の野郎から外の話を聞いて、斬り合いの様子を思い浮かべてゾッとしたり、刃先に映った「女」とか言うのを想像してなんだか不思議な、こう、むず痒いような想いを感じたりするのが密かな楽しみだったりするのさ。


 俺自身、情けない事に自分じゃ何も出来やしない。人を斬る事もなく、ご主人の腰にぶら下がるだけの命に過ぎない。


 あぁ、いいんだいいんだ。情けはいらねぇよ。

 こういうもんなんだって、承知の上で生きてるからな。今さらどう足掻いたって、俺が刀になんか成れる訳がねぇんだ。


 鞘の世界は真っ暗だ。だけど音や匂いは分かるから、たまに人様の悪巧みを盗み聞いちゃあ刀の野郎と一緒に腹を抱えたりする楽しみだってある。

 人間ってのは斬り合ってる刹那より、悪巧みしてる時の方がよっぽど真剣なんじゃねぇのか? と、俺はこの暗闇の中でニヤリとしてるのさ。


 あれは確か幕府がもうそろそろ終わるんじゃねーか? なんて噂があちこちから流れ始めてきた、ある冷えた晩の事だった。


 俺がうとうとし始めた矢先に、ご主人様が俺の首根っこを掴んで引き起こしやがった。

 刀の野郎も「眠い」だんてな、なまくらみてぇな声を出していたっけな。


 喧嘩や斬り合いにしちゃあ、やたら外の音は静かだった。それでもって、引き抜かれた刀の野郎はしばらく戻って来なかった。

 しばらくして男の斬られる声がして、刀の野郎が戻って来た。


「おいおい、一体どうしたってんだい」

「おい、俺をしっかり暖めてくれ。寒くてたまんねぇや!」

「そりゃかまわねぇけど、ん? おめぇさんよ」

「なんだい?」

「ずいぶんと生臭ぇじゃねぇか。こりゃ、久々の血の匂いじゃねぇのかい?」

「あぁ、そうだ。先代以来だな、久々に斬って来たぜ」

「斬って来たって? おめぇ、ご主人様は揉め事でもあったのかい?」

「いいや、誰と揉めたどうだってのはねぇさ」

「じゃあ、何でおめぇが人を斬ったんだい?」

「辻斬りだな」

「けっ!こんな時代に!? よくもまぁやりやがった! ご主人とは言え、ひでぇ野郎だ!」

「あぁ、ご主人様の心内は知らねぇがよ、せめて一拭きしてくれたら良いのによ。臭くてたまんねぇだろ?」

「あぁ、まいっちまうぜ」

「訳は知らねぇけど、ご主人様。今夜はまたずいぶんと余裕のない顔してやがったぜ。火事場の泥棒でも、もっと澄ました顔してらぁ」

「泥棒よりひでぇなんてなぁ。しかしねぇ、今日の今日まで人を斬った事なんて無かったご主人様が辻斬りなんてのは……気でも触れたのかもしれねぇよ」

「あぁ、そうだな。斬り方もまぁ、お侍の割にひでぇもんだったよ」


 その次の晩も、そしてその次の晩も俺達は夜な夜な外へ連れ出された。

帰ってくる度に刀の野郎はボロボロになり、かつては「名刀」とチヤホヤされていた野郎の姿は、すっかり草臥れた物乞いみてぇなみすぼらしい姿に変わり果てちまいやがった。


 俺は正直、ご主人様に苛々していた。刀は人を斬るのがお役目だから、それは仕方ねぇ。

 誰を斬ろうが、知ったこっちゃねぇさ。

 だけどよ、あまりにも粗末な扱いをされ続ける刀の野郎が俺は不憫で仕方なかったんだ。骨でこぼれた刃先が鞘身に触れる度、俺は悲しくなった。


 ある晩、血塗れの刀が元気のねぇ声でこう言った。


「戦の時代でもよ、俺をこんな扱いするやつぁ居なかったぜ」

「おめぇさん、もうボロボロじゃねぇのかい? 鞘触りで分かるぜ」

「笑っちまうぜ。こんなカッコじゃ、もう見栄もハッタリも効きやしねぇ。昔は国や誇りや名声やらの為に、人を斬っていたはずなのにな」

「……知ってるぜ? ご主人様も、俺達も、きっともうすぐお払い箱って訳だろ?」

「あぁ……ご主人様は、とうとう時代ってヤツについていかれなかったみたいだな」

「俺は生まれてこの方、時代ってヤツをこんなに早く感じたことはねぇ」


 この頃になると、幕府を倒そうとする連中の話や、実際に倒れそうだなんて話は、嫌でもあちこちから聞こえてきていた。


 そんな俺達にも、ご主人様にも、久々に戦の日がやって来そうな予感が漂い始めていた。

 どうやら相手は大勢だわ最新式の武器を持ってるやらで、俺達には到底手も足も出ないような相手らしかった。


 俺達はもっともっと長い間、このままの時代で居られるもんだとばかり思っていた。

 それでもなまくらになっちまった刀の野郎は汚ちまった切っ先で眺める外の世界を、一生懸命に俺に話して聞かせてくれた。

 刀の野郎だって、本当はもう見えてるかどうかなんて分かったもんじゃねぇクセによ。


「時代が変わってよ、髷を結わない「ざんばら髪」でも許される世の中になるみてぇだがよ、馬鹿野郎! 俺達のご主人様は侍だ。安心しろよ、ご主人様はざんばら髪になんかなっちゃいねぇ!」

「おめぇさん、そんな姿にされたのにずいぶんご主人様が好きみてぇじゃねぇか」

「あたりめぇだ。俺達は鍬や斧じゃねぇんだ。百姓の腰にぶら下がったって何の役にも立ちやしねぇ。ご主人様と俺達の関係ってのは、好みだなんだじゃねぇんだ。時代が駆け足で行っちまってもよ、ご主人様は今だって立派なお侍だぜ」

「そういやご主人様、先代から俺達を受け取った時にはすっかり男らしい顔付きになったっておめぇさん言ってたな」

「あぁ、風車で一日中遊んでた鼻垂らし坊ちゃんだったのによ。男らしく締まった顔つきで俺を見た時の、あの顔でよ……ご主人様は今、時代ってヤツを睨んでるのさ」

「おめぇさんがそう言うんだ、そうにちげぇねぇ」


 そんな風にして少しばっかり胸がきりきりと寂しくなるような話をしていたらよ、ご主人様が上機嫌になって突然歌い始めやがった。

 確か、ワッパ共がとても喜ぶ歌だった。

 そいつを呑み屋で一人歌っていると、急に刀の野郎が俺の元から離れていった。


「覚悟!」


 バタバタと音がする。女の悲鳴と、男共の怒鳴り声。無数の声の中から、俺は無意識にご主人様の声を探した。


 今まで感じた事のないような、砂みてぇにざらざらする感じがあっという間に俺の胸を覆った。

 その騒ぎがおさまらねぇうちに、刀の野郎が戻って来た。しかし、戻り方がいつもと違った。


「おい!一体何があったんだい!?」

「なんてこたねぇよ、気にするんじゃねーや」

「おめぇ、ご主人は」

「……大丈夫だ」

「嘘つきやがれ」

「へっ、仕方ねぇや。あぁ、死んじまった。俺が斬っちまった」

「そりゃ、どういう事だい?」

「大勢いた相手に、あっさり奪われちまって……それでそのまま……俺はご主人様を頭から……やっちまったよ」

「そんな……おめぇが……」

「力の差ってやつぁひでぇもんだね……玩具みてぇにされて……笑っちまうぜ」


 さぞ、辛かったにちげぇねぇ。笑っちまうぜ、なんて言いながらクスリともしねぇ刀の野郎に、俺は鞘触りの異変を感じたんだ。

 鞘の外で笑いながら俺を握っているのは、ご主人様じゃねぇ事は分かっていた。けど、俺は刀の野郎がこのままくたばっちまうんじゃねぇかと、そればかり考えていた。


 こいつぁ、もう折れちまうのは時間の問題なんじゃねぇのか。


「おめぇ! おい、大丈夫か?」

「心配すんない……テメェの事くらい、テメェでわからぁ」

「おめぇ、おい……おい!」

「夜泣きのカラスみてぇによ、わーわー騒ぐんじゃねぇやい…………俺は、ご主人様をやっちまったけど……あの人はよ……立派な侍だった……なぁ?」

「あぁ、そうだ! そうにちげぇねぇ! 志の立派なお侍なんだ、おめぇに斬られてさぞ本望だったにちげぇねぇ!」

「あたりめぇよ……」


 それから、刀の野郎は何も喋らなくなった。俺は、相棒を失くしちまった。

 ご主人様を斬っちまった刀の野郎を抱き締めたまま、俺はわんわん泣いた。


 鞘触りで分かる。刀の野郎が斬った跡には、長いざんばら髪が付いていた。


 この、嘘つきめ。

 そんな恨み節も言えなくなっちまった刀の野郎を、俺はいつまでも抱き締めて泣いていた。

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