第45話

包丁はさっき落としてしまった。



身を守るものはなにも持っていない。



さっきまで蚊の鳴くような声で助けを求めていた母親も、もう静かになってしまった。



それなら、僕ももういいかな。



ヒトミが僕の上に馬乗りになり、口の端からよだれを垂らす。



そもそも、ヒトミが死んでしまったのは僕のせいだ。



僕は無理やりボートに乗ったりなんかしたからだった。



僕が死ねばよかったんだ。



そう思うと急激に恐怖心は消えていった。



化け物と化したヒトミを前に、僕は静かに目を閉じる。



すべての覚悟が整った。



ヒトミが僕の首筋を狙っているのがわかる。



ヒトミの冷たい体温を身近に感じる。



もうすぐ終わる。



そう思ったときだった。



ビチャッ!!



冷たい液体が僕の顔に降り注ぎ、ハッとして目を開いた。



ヒトミが目を見開いて僕の上に倒れ込んでくる。



その奥からユウジくんの姿が見えた。



ユウジくんはボロボロと涙をこぼし、服は血で汚れている。



そして右手には……僕があの時落とした包丁が握りしめられていたのだ。



僕は呆然としてユウジくんを見つめる。



ヒトミは僕の上からピクリとも動かない。



「ヒ……トミ?」



声をかけて体を揺さぶる。



ヒトミの体はまるでおもちゃみたいに横に転がり、そして止まった。



畳の上に転がったヒトミの背中からドクドクと黒く変色した血が流れ出す。



「ヒトミ!?」



顔を近づけて呼吸を確認する。



胸に手を当てて鼓動を確認する。



そのどちらも、もう止まっていた。



「お姉ちゃんは、もともと死んでいたんだ」



ユウジくんは大粒の涙を流しながらそう言ったのだった。

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