第44話

僕がそれを見間違うはずがない!



気がつけば僕は包丁を手から滑り落としていた。



こんなものをヒトミへ向けていたなんて自分が信じられない。



「なにをしてるんだ!?」



神主さんが青ざめて目を見開く。



ヒトミはすでに抵抗をやめておとなしくなっているのに、神主さんはその手の力を緩める気はなさそうだ。



「大丈夫だよヒトミ。僕と一緒に帰ろうね」



僕はゆっくりとヒトミに近づく。



ヒトミは血のついた口元で微笑む。



「神主さん、その手を離してください。ヒトミは大丈夫ですから」



僕と一緒にいればきっと大丈夫。



あれほどヒトミのことが怖かったのに、今はそんな気がしてならなかった。



「まずい、操られている」



神主さんがわけのわからないことを言い出した。



僕が誰に操られているって?



僕は自分の意思でヒトミとともに帰ろうとしているだけだ。



それは誰にも邪魔させない。



「目を覚ませ! こいつはただの化け物なんだぞ!」



僕はヒトミの頬に触れた。



とても冷たくてまるで死者のような体温。



触れた場所はブヨブヨと気持ちの悪い感触がして、弾力は感じなかった。



これはなんだ?



僕は何に触れている?



疑問が浮かんできた次の瞬間だった。



ヒトミが首を伸ばして僕の耳に噛み付いてきたのだ。



ガッ! と耳元で音がしたかと思うと激しい痛みを感じる。



「ギャアア!」



無意識のうちに絶叫し、そのまま横倒しに倒れ込んだ。



目の前が真っ白になりながらもじたばたをもがいて、噛まれた右耳に触れた。



ドロリ。



甘温かい血の感触がベッタリと手に張り付く。



ドクドクと流れ出す血が僕の頬を染めていく。



「ヒトミ、なんで……」



倒れたままヒトミを見上げる。



ヒトミは恍惚とした表情で口の周りについた血を舐め取った。



そして僕を見つめる。



うっとりと。



それは女性的なものではなく、食料を見るときの目だと気がついた。



僕はヒトミにとって食べ物なのだ。



唖然として立ち上がれずにいると、ヒトミが神主さんの体を突き飛ばした。



油断していた神主さんが後ろに吹き飛ばされる。



ヒトミはその勢いのまま僕に向かってきた。



大きく口を開けて、僕の体を噛みちぎろうとしている。



あぁ……。



ここで死ぬのかな。



ヒトミに食べられて死ぬのなら、いいかな。

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