28、闇色の魔法使い

◆◆◆◆◆


 暗い暗い空間の中、少女は息を殺していた。煙がまだ残っている静寂に包まれたその場所には、誰もいない。しかし、妙な気配が部屋の中心にあった。

 それは黒いモヤがかかった人らしき姿の何か。本棚を壊し、ベッドをひっくり返し、壁を傷つけながら暴れ回っている。


 まるで何かを探している様子だ。そしてその何かは、おそらく自分だろうと少女は確信していた。


 もし見つかったらどうなるのか。考えたくもないことをつい彼女は考えてしまう。

 懸命に思考を止め、息も殺し、黒いモヤがどこかに行ってくれることを待つ。だが、諦めが悪い黒いモヤは片っ端からクローゼットを開け始めた。


 もう逃げ場はない。だから少女は覚悟した。もしかしたら一方的にやられるかもしれない。それでも差し違えてやろう、と考える。

 ゆっくり、ゆっくりと敵が迫ってきた。少女は腰に添えていた短剣を手にし、震えながらタイミングを伺う。


 だが、クローゼットは一向に開かれない。思わず顔をしかめる。

 もしかして諦めた、と思い少女は胸を撫で下ろした。緊張の糸を緩め、息を吐き出したその時である。


『見ーつけたッ』


 後ろからザラついた声が飛び込んできた。振り返ると、そこには小汚い男が立っている。

 少女は思わず短剣を振ろうとした。だが、手首を掴まれそのまま捻り落とされてしまう。


「きゃあ!」


 そのまま小汚い男に少女は身体を引き寄せられる。そして逃げられないようにガッシリ抱きつかれてしまった。

 あまりの力に少女は顔を歪める。その表情が面白いのか、小汚い男は笑っていた。


『やっと見つけた。俺の、俺の魔法!』

「はな、して! いたい、からぁ!」

『離すものか。返してもらうぞ、俺の魔法を!』


 小汚い男はゆっくりと少女の唇へ自身の唇を重ねようと動く。少女は必死抵抗し、逃れようとした。

 だが、力の差は歴然。どれほど暴れても逃げることができない。


「やだ、やだ、やめて!」


 唇が迫る。拒絶しているにも関わらず奪い取ろうとしてくる小汚い男に、少女は涙を目に浮かべた。

 こんな形でキスなんてしたくない。せめて好きな人としたい。

 しかし、どれほど拒絶しても少女に逃れる術はない。もうダメだ、と少女は諦めかけたその時だった。


「やめろこの変態野郎!」


 聞き慣れた声が響く。

 まさか、と思い少女が目を開いた瞬間、黄金に輝く文字が小汚い男の顔に張り付いた。


 あまりにも唐突な出来事のためか、小汚い男は少女を離して張り付いた文字を外そうとする。どうにか小汚い男から逃れた少女は逃げようとしたが、恐怖のあまりに腰が抜けてしまった。


「何してるんだよ、フィリス!」


 誰かが手を引いた。反射的に振り返ると、そこにはクロノの姿がある。


「ほら、立って。逃げるよ!」

「うぅ、クロノぉー」

「泣くのは後だよ!」


 フィリスをどうにか立ち上がらせ、クロノはドラゴンの元へ駆けようとする。だがドラゴンは唐突に口を輝かせ始めた。

 クロノは思わずフィリスを押し倒す。ドラゴンはそれを確認した後、ブレスを吐き出した。


 途端にクローゼットが燃え上がる。クロノはドラゴンに「何するんだよ!」と叫んだ後、一つの異変に気づく。


「なんだこれは!?」


 先ほどまで王城の一角にいたクロノ達だが、そうとは思えない光景が広がっていた。

 大きすぎる満月が目に入ってくる。地面には浅く水が広がっているのか、その月を鏡のように映し出していた。


 クロノは何が起きたかわからず、周囲に視線を向ける。すると燃えている男の姿があった。


『ひどいなぁ。俺はただ俺のものを返してもらおうとしただけなんだぞ』


 身体を覆っていた炎は、次第に消えていく。目の前にいるのは、いつか見たホームレスだ。しかし、その姿はあの時とは違う。


 漆黒のローブをまとい、吸い込まれそうな闇色の髪と瞳がある。幼さが残る顔つきだが、その笑顔は邪悪そのもの。

 クロノは羽ペンを手にして臨戦態勢を取る。すると男は笑った。


『そんなちゃちいもので戦う気か?』


 クロノは何も言葉にせず、男を見つめた。すると男は楽しげに歪んだ微笑を浮かべる。

 ゆっくりと身体が宙へと浮かんでいく。そして大きな満月を背に、クロノを見下ろした。


『いいだろう。ならその身に刻んでやる。この偉大なる魔法使い〈ダランベール〉がな』


 放たれる殺気と解放される魔力。

 その圧倒的な力の前に、クロノは逃げることなく勇ましい目で敵を見つめていた。

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